【慈覚大師円仁の足跡を尋ねて】 24回フォトエッセイG
阿南・ヴァージニア・史代=文・写真 小池 晴子=訳

醴泉寺から黄河への行路

     
 
醴泉谷への古左)
醴泉寺谷の農民(右) 現在この谷にはわずか5軒の農家があるのみである。木こりの張さん(70歳)は、鶏の駆けまわる庭で親切にお茶を振舞ってくれた。一家はこの谷に数世代にわたって住んでいる。張さんの最初の問いは、「何を飼っている?」であった。私が一言「犬」と答えると、彼は少々がっかりしたようであった。次に私が、昔の寺について何か知っていますかと問うと、「抗日戦当時、ここでは日本軍との戦いがいっぱいあった」と語った。
 唐代に思いを馳せるとき、この光景は私に、円仁の日記の一部を思い起こさせる。円仁が近くの仙人台で史家に宿泊したとき、その家の主人も彼に茶を振舞っている。

 円仁と弟子たちは840年旧暦4月3日早朝、青州府城を後にした。彼はこう記している。

 「初めて会ったときより、幕僚判官は極めて親切な心遣いを示し、竜興寺滞在中は毎日布施を届け、常に慰問してくれた。出発に当たっては、人をつけて見送らせ、合わせて道案内もしてくれた。青州府を出て城外を行くこと10里にして堯山あり、山上に堯王廟が祀られている。……聞くところによると、ここで雨乞いすると必ず祈りに感応して降雨ありという」

 円仁と同じルートをたどろうと、私は青州を出て西北方向に堯山を探し求め、ようやく望見したが、堯王廟はすでに文化大革命中に破壊されているのみであった。

 円仁たちは、第一夜は金嶺鎮に到着、王家に宿泊した。「主人は善良で正直な人物である」と円仁は書いている。第二夜は、長山県管内の村に着いて鍛工の家に宿泊。「主人は穏やかで信仰心の厚い人であった」

 円仁一行は歩き続け、「まっすぐ西を目指して谷に入り、高い尾根を越えて、さらに西に向かって坂を下ると果樹園に到着、そこで茶を喫した。さらに南へ行くこと2里で醴泉寺に到着、休憩して中食をとった」

黄河渡し口:胡家岸の浮橋 円仁は旧黄河を渡った。唐代、黄河は現在地より二十数キロ西を流れていた。現在の黄河は、済南市北部を流れる済河のかつての川床の1つに沿って流れ、胡家岸浮橋が架けられている。浮橋は増水の季節には渡れない。水嵩の増えた流れを通すために、中央のボートを15日間移動させるからだ。
 現在の浮橋の片道通行料は、車あるいはトラクター1台につき10元、トラック1台30元、オートバイ1台2元、自転車1台1元。歩行者は無料である。私は係員に「ロバはいくら?」と聞いてみた。そして、円仁の日記によると、当時ロバの通行料は普通料金の3倍だったと話すと、彼はにっこりして言った。「じゃあ、3元じゃどうですか!」

 醴泉はどの地図にも載っていない。私は人里離れたこの場所を見つけるために、鄒平県の外事部に協力を求めなければならなかった。円仁が描写したこの地の情景は、今日の情景にもぴったり一致していて、読んでいてわくわくする。「東西南の三方に高い峰が連なって寺院を囲む壁となっている。寺院の建物は破損荒廃し、寺僧は仏戒に従った食を遵守するふうもない。聖跡は時を追って衰退しているが、修復する者もいない」。さらに「寺院堂宇の西の谷のほとりに醴泉井という名の井戸あり。以前は泉が湧きいでて、その水は香気高く甘味があった。またその水を飲む者は病を除き寿命を延ばしたという」と円仁は記している。

 醴泉寺の僧たちは、円仁一行にもっと長く逗留するよう勧めたが、彼らは一刻を惜しんで先を急いだ。一行は道を西北にとり済河を渡って、4月11日黄河の渡し口に着いた。「黄河の水は黄色く泥状に濁り、矢のように流れは速い……南北両岸に渡口城あり、いずれも城壁に囲まれている。ここには渡し船数多く、往く人、還る人を乗せようと懸命である。渡し賃は1人5文、驢馬は1頭15文なり。……渡河の後、北岸で休憩、中食をとった。4人それぞれ四椀ずつの粉粥を食べ、亭主を驚かせた」


醴泉寺遺物:唐代の石碑左)古びた唐代の石碑がこの遺跡の由緒正しさを証明しているが、頭頂部に彫られた仏像は辛うじてそれと分かる程度である。円仁は、この寺院にいた一人の高名な僧の縁起を刻んだ石碑を見たと述べている。僧の生前、泉の水は甘かったが、その入滅後枯れてしまったという。「中食後寺院の周囲を巡礼し、誌公和上像(6世紀)に拝礼した。和上の縁起が石碑に刻まれている」。円仁はすでに衰退していた寺院の「新羅院」に宿泊した。
醴泉寺跡(右)醴泉寺あるいは竜台寺の名で知られる古代聖跡は、手付かずの自然に恵まれた南陳村の美しい谷に残っている。ここは唐代初期、山東中部地域(魯国)最大の寺であった。有名な泉のほとりには「醴泉」と彫られた石碑が立っている。しかし今ではありふれた浅い池でしかなく、その水には香りもない。風雨にさらされた山門は、土を固めて造った往時のもので、かつては寺院への正門であった。


慈覚大師円仁
 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。

 円仁は794年栃木県壬生に生まれ、44歳で中国に渡った。中国では一日平均40キロを踏破し、現在の江蘇、山東、河北、山西、陝西、安徽各省を経巡った。大師について学び、その知識を日本に持ち帰ろうと決意。文化の境界を超えて、あらゆる階層の人々と親しく交わり、人々もまた円仁の学識と誠実さを敬った。

 私たちはその著作を通して、日本仏教界に偉大な影響を与えた人物の不屈の精神に迫ることができる。彼は後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた

     


阿南・ヴァージニア・史代

  米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『「円仁日記」再探、唐代の足跡を辿る』(中国国際出版社、2007年)にまとめた。

 

 
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