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醴泉谷への古道(左)
醴泉寺谷の農民(右) 現在この谷にはわずか5軒の農家があるのみである。木こりの張さん(70歳)は、鶏の駆けまわる庭で親切にお茶を振舞ってくれた。一家はこの谷に数世代にわたって住んでいる。張さんの最初の問いは、「何を飼っている?」であった。私が一言「犬」と答えると、彼は少々がっかりしたようであった。次に私が、昔の寺について何か知っていますかと問うと、「抗日戦当時、ここでは日本軍との戦いがいっぱいあった」と語った。
唐代に思いを馳せるとき、この光景は私に、円仁の日記の一部を思い起こさせる。円仁が近くの仙人台で史家に宿泊したとき、その家の主人も彼に茶を振舞っている。
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円仁と弟子たちは840年旧暦4月3日早朝、青州府城を後にした。彼はこう記している。
「初めて会ったときより、幕僚判官は極めて親切な心遣いを示し、竜興寺滞在中は毎日布施を届け、常に慰問してくれた。出発に当たっては、人をつけて見送らせ、合わせて道案内もしてくれた。青州府を出て城外を行くこと10里にして堯山あり、山上に堯王廟が祀られている。……聞くところによると、ここで雨乞いすると必ず祈りに感応して降雨ありという」
円仁と同じルートをたどろうと、私は青州を出て西北方向に堯山を探し求め、ようやく望見したが、堯王廟はすでに文化大革命中に破壊されているのみであった。
円仁たちは、第一夜は金嶺鎮に到着、王家に宿泊した。「主人は善良で正直な人物である」と円仁は書いている。第二夜は、長山県管内の村に着いて鍛工の家に宿泊。「主人は穏やかで信仰心の厚い人であった」
円仁一行は歩き続け、「まっすぐ西を目指して谷に入り、高い尾根を越えて、さらに西に向かって坂を下ると果樹園に到着、そこで茶を喫した。さらに南へ行くこと2里で醴泉寺に到着、休憩して中食をとった」
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黄河渡し口:胡家岸の浮橋 円仁は旧黄河を渡った。唐代、黄河は現在地より二十数キロ西を流れていた。現在の黄河は、済南市北部を流れる済河のかつての川床の1つに沿って流れ、胡家岸浮橋が架けられている。浮橋は増水の季節には渡れない。水嵩の増えた流れを通すために、中央のボートを15日間移動させるからだ。
現在の浮橋の片道通行料は、車あるいはトラクター1台につき10元、トラック1台30元、オートバイ1台2元、自転車1台1元。歩行者は無料である。私は係員に「ロバはいくら?」と聞いてみた。そして、円仁の日記によると、当時ロバの通行料は普通料金の3倍だったと話すと、彼はにっこりして言った。「じゃあ、3元じゃどうですか!」 |
醴泉はどの地図にも載っていない。私は人里離れたこの場所を見つけるために、鄒平県の外事部に協力を求めなければならなかった。円仁が描写したこの地の情景は、今日の情景にもぴったり一致していて、読んでいてわくわくする。「東西南の三方に高い峰が連なって寺院を囲む壁となっている。寺院の建物は破損荒廃し、寺僧は仏戒に従った食を遵守するふうもない。聖跡は時を追って衰退しているが、修復する者もいない」。さらに「寺院堂宇の西の谷のほとりに醴泉井という名の井戸あり。以前は泉が湧きいでて、その水は香気高く甘味があった。またその水を飲む者は病を除き寿命を延ばしたという」と円仁は記している。
醴泉寺の僧たちは、円仁一行にもっと長く逗留するよう勧めたが、彼らは一刻を惜しんで先を急いだ。一行は道を西北にとり済河を渡って、4月11日黄河の渡し口に着いた。「黄河の水は黄色く泥状に濁り、矢のように流れは速い……南北両岸に渡口城あり、いずれも城壁に囲まれている。ここには渡し船数多く、往く人、還る人を乗せようと懸命である。渡し賃は1人5文、驢馬は1頭15文なり。……渡河の後、北岸で休憩、中食をとった。4人それぞれ四椀ずつの粉粥を食べ、亭主を驚かせた」
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