下関の風 上関の花 風が花を撫でる

 蒼山の雪 ジ海の月 月が雪を照らす

 大理の自然風景の神髄をつかんで賛美した言葉である。「風花雪月」の四文字は、大理古城と縁がある。

 大理古城は歴史上、「茶馬古道」雲南・チベットルートを結ぶ重要な貿易の中心地であった。古城の南に位置する下関は、テン茶(雲南茶)の最大の加工地、生産地であり、集散地でもある。ここで生産されたプーアル沱茶は百年以上の歴史があり、広くその名を知られている。


大理古城

夜も更け、通行人のまばらな城内の通り

 我々の車列は昆明で休養を取り、物資を補給したのち、大理ぺー族(白族)自治州の州都所在地である大理市を目指して、西へ向かって走り出した。

 東にジ海を臨み、西の蒼山に枕する大理古城は、古くから雲南西部の交通の中枢であり、「茶馬古道」雲南・チベットルートの雲南区間の真ん中に位置している。宋代に「茶を以て辺境を治める」という政策が普及して以来、現地の茶の貿易や交流はさらに促進された。清代になると、大理永平県など雲南西部の多くの場所に通商地が設けられた。雲南・チベットを往来するキャラバンが大理を経由する際、みなさまざまな商品の交易をおこなった。主にテン茶をラバや馬及び生活用品と交換する取引であった。中でも毎年旧暦3月15日から22日までに催された「3月街観音会」では、仏様を参拝するだけでなく、人々はラバや馬、木材、薬、茶、毛皮など特産物の交易も行い、そのにぎわいは非常に壮観であったといわれている。明代の李元陽が『雲南通志』に書き残している。「3月15日、点蒼山の麓にて各省の貨を貿易す。唐永徽年間(650〜655年)より今に至るまで、朝代は累に更むるといへども、この市は変わらず」

ペー族の民家を改装したバー

 月日がたつにつれて、大理古城は次第に雲南西部、南部の茶馬古道の商品貿易集散の重要な都市となっていった。漢族、チベット族(藏族)、ペー族、イ族(彝族)、ダイ族(エ族)、ナシ族(納西族)など各民族の文化、宗教もまた、キャラバンや交易商人の往来を通じて各地にとけこんで広がっていき、辺境地区における各民族間のよしみや団結がよりいっそう深められることとなった。

格別な味わいのある護国路の「洋人街」

 歴史を遡れば、大理古城が建てられる前、この地は羊苴棟驍ナあった。唐の大暦14年(779年)、南詔王・異牟尋が都の太和城をここに移し、城内に南詔王の宮殿と高官の住宅を建造した。後晋の天福2年(937年)、段思平が大理国を建てたときにも、そのまま羊苴棟驍都として、大理国の旗を揚げた。唐、宋代の500余年の発展を経て、大理古城は雲南の政治、経済、文化の中心として成長していった。

大理古城の道路わきの用水路

 明洪武15年(1382年)明軍が大理を攻め落としたのち、明代の規制に沿って大理城を修築した。文献の記載によると、当時、周囲の城壁の長さは計6000メートル、幅は12メートル、高さは6メートルほどであったという。東西南北にそれぞれ通海、蒼山、承恩、安遠の4つの城門があり、城門の上には櫓が築かれた。また城壁の四隅には、頴川(北東隅)、西平(南東隅)、孔明(南西隅)、長卿(北西隅)の4つの角楼があった。城外には堀がめぐらされ、城内は碁盤の目のように整備されていた。大理古城は廃興を繰り返し、多くの城跡はすでに崩れ落ちてしまったが、南と北の櫓及び一部の城壁が見事に保存されている。町には南から北へ、東から西へ5つの街道と8つの横町が走り、路面には細長い「引馬石」と「弾石」が敷かれている。南北を貫くメインストリートには、民家、商店、工房がずらりと並んでいる。なかには大理石、縛り染め製品、草編みの小物などを売る様々なみやげ物屋と特色あるペー族のレストランなどがある。道端の用水路には、透き通った蒼山の雪解け水がさらさらと流れている。どの家も草花を育て、街並みはさっぱりと清潔である。「家々に水が流れ、すべての家が花を育てている」と書き記した文人がいるが、それが古鎮のペー族家庭の生活というものである。

大理城内のペー族の民家

 大理はまた「鶴拓」とも呼ばれる。伝説によると、古代、蒼山とジ海の間はもともと広々とした海だった。観音菩薩が杖で下関あたりの天生橋の下の岩に穴をあけたところ、海の水が流れ出し、森林におおわれた大理盆地が現れた。しかし、当時は誰もそこを訪れる勇気はなく、2羽の鶴だけがしばしば西ジ河のほとりを行き来していたにすぎなかった。やがて、ある人が恐る恐る鶴の足跡をたどって、この平原にたどりついた。鶴に導かれ、開拓されるようになったため、この地を「鶴拓」と呼ぶようになったのである。

同工場の生産現場

 大理にたどりついたときには、日はすっかり暮れていた。ライトアップされた夜の古城には、優雅で神秘的な雰囲気が漂っていた。

 南門から古城の中に入ると、まず目に入るのが城門に刻まれた大きな「大理」の二文字だ。これは後世の人が、郭沫若の筆跡を集めて刻み込んだものである。城内の街道をそぞろ歩きしてみることにした。昼間の喧騒を逃れた夜の古城の、足元に広がるでこぼこの「引馬石」や灯火揺らめく道端の店舗などを眺めていると、かつて重い荷物を背負ったキャラバンがチリンチリンという鈴の音と馬のひづめの音を響かせながら、一列になって城門をくぐってゆく情景に想いをはせずにはいられない。

プーアル磚茶を作る下関茶工場の従業員

 古城は1982年に大がかりな修復工事を経て、大理ペー族自治州の主要な観光スポットの一つとなった。観光客は昼間は古城を見物し、日が暮れると、「洋人街(ウエスタン・ストリート)」の名を慕って護国路に足を運び、お茶を飲んだりしながらひと休みする。そこにはそれぞれ特色あるバー、レストラン、ホテル、茶館などがびっしりと軒を連ねている。ペー族の民家を改造したバーや茶館に腰を下ろし、音楽を聴きながらお酒を飲んだりお茶を楽しんだりするのは、また格別の味わいである。とりわけ外国人の観光客には、大人気だ。

 次第に夜も更け、暗い明かりの下、通りのまばらな人影も少しずつ消えてゆく。残されたのは、夜空にまたたく星と静かな夜の景色だけであった。

下関沱茶

下関茶工場が生産したプーアル沱茶

 翌日は下関茶工場を見学した。生産現場にはもうもうと湯気が立ちのぼり、従業員はそれぞれの職場で、機械のように手中の仕事を延々繰り返している。工場長の羅乃キンさんがひととおり工場の状況を紹介してくれたあと、下関沱茶にまつわる話を語ってくれた。

同工場が生産した「七子餅茶」

 下関沱茶はプーアル緊圧茶に属し、明代の謝肇浙の記した『テン略』に「士庶の所用するは、みな普茶なり、蒸して之を丸める」といった記載があり、早くからプーアル団茶の生産が始まっていたことがわかる。下関沱茶を創始した厳子珍は、大理喜洲の四大商幇(貿易グループ)のリーダーであった。彼は商人の彭永昌、楊鴻春と共同出資して屋号「永昌祥」を創設し、明代の「プーアル団茶」と清代の「女児茶」の伝統的な技術をもとに、1902年に下関プーアル緊圧茶を作り出した。

考察車列が大理ペー族自治州に入る。

 この茶は売り出されるとたちまち雲南、四川、チベットなどで販路を開いた。特に四川省の沱江流域では人気が高かった。沱茶は碗形の塊で、中国北方家庭に見られるトウモロコシの粉で作られた「窩頭」に似ている。そして沱江の水で茶をいれると、その色と味がよりいっそう香ばしくなり、沱江地区の人々に深く愛された。現地の人々は下関のプーアル緊圧茶を「下関沱茶」という雅称で呼び、その美名が今に至るまで伝わっている。

考察隊全員のサイン入り特製記念茶餅

 茶の商売が発展していくにつれて、下関には18カ所の工場が相次いで出現した。「永昌祥」は販売量を拡大し、偽物防止のために、毎回出荷する沱茶の中に、必ずトレードマークつきの黄金色のリボンを包んだ沱茶を一つ入れるようにしている。このリボンを10本集めると、取次販売店で500グラムの茶と引き換えられる。

同工場が生産した様々な茶製品

 今の下関茶工場の前身は「康藏茶工場」といったが、1950年に「雲南省下関茶工場」と改名した。1955年、「永昌祥」「復春和」「茂恒」などは前後して下関茶工場に合併され、生産規模は日に日に拡大していった。羅乃キン工場長の紹介によれば、現在生産しているプーアル茶は、伝統工芸と現代科学技術が結びつき、雲南大葉茶を原料とし、晒青毛茶(最初にあら加工された茶葉)に加工してからより分け、ふるい分け、発酵、蒸す、揉むのプロセスを経て作り出された上等なプーアル沱茶である。この茶は1976年に初めて広州輸出商品交易会に登場したときから、大量の輸出の注文を受けてきた。現在、下関プーアル沱茶は中国の17の省、自治区及び香港、マカオ、台湾地区で販売されているほか、ヨーロッパ、アメリカ、日本などにも輸出されている。


 
本社:中国北京西城区車公荘大街3号
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