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南宮塔 |
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趙州橋 |
円仁による山東省徳州から河北省曲陽までの旅の描写によって、私たちは一行の巡礼生活がどんなものであったかを思い描くことができる。840年旧暦4月11日、一行は徳州で一夜を過ごした。「この家の主人は信仰心のない男だった」と円仁は記している。彼は先を急ぐあまり、鶏や陶磁器、木綿や黒いロバなどに目を向けるゆとりはなかったようだが、現在の徳州はこうしたものでよく知られている。
運よく翌日の夜は、仏教徒である孫氏の家に泊まった。清河県(古くは曲州)では、開元寺に宿をとり、そこに新しく開設された戒壇を見たが、400余人の僧が新たに戒を受けて離散したばかりのところだった。別の日、円仁と旅の仲間は、昼食に楡の葉っぱの入った汁を出された。貧しいその家の主人にはそれが精一杯のもてなしだった。また別の日には、円仁は南宮の寺の僧たちに腹を立てている。
円仁たちは、唐代に建設された官道の一つを西北西にたどり、南宮に到着して、とある寺に泊まった。円仁はこう書いている。「寺の建物は破れ落ち、僧は一人しかいない。その僧も礼を欠き、部屋や寝床を整えるなどのことを、まったく何もしてくれない」
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天寧寺の凌霄塔(左)
曲陽の石刻(右) 円仁の歩いた場所では、いまなお巨大な漢白玉石を彫るのみの音が響いている。石刻は北斉時代から続く曲陽・陽平の伝統工芸である。当時は、中国全土の寺院のために漢白玉石に彫った仏像の名品がここで生まれた。今では主としてレストランの入口に置く獅子を続々と彫っている。
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私は、同じ道筋に沿って円仁の足跡をたどりながら、これは楽な一日になりそうだと考えていた。彼が立ち寄った場所は、いずれも現在の地図にはっきりと記載されているからだ。ところが、このあたりのいら立たしいこと、円仁の体験となんら変わらなかった。道路は掘り返され、市場は混雑して先へ進めず、トラックのたまり場での昼食はまるで味がなかった(まるで楡の葉っぱの汁だ)。その上、暑くて埃っぽい。私は円仁に、根気を試されているような気がした。彼も「蒸すような暑さだ」と書いている。
円仁のささやかな一団は、旧暦4月18日新河を渡った。このとき恐らく名高い趙州橋を渡ったであろう。別名安済橋でも知られるこの単孔橋は隋代(581〜618年)建造で、中国最古の石橋とされている。欄干には、絡み合う竜の精巧な彫刻がほどこされている。しかし、円仁が宿泊した寺は極めて貧しかった。
幸い状況は鎮州(現在の正定市)で好転した。円仁一行は、鎮州軍政官の荘園内にある一軒の家に泊まった。「その家の主人は信心深く、客に対して親切であった」。現存する古代遺跡の一つに天寧寺の凌霄塔があり、旅人にとって唐代から変わらぬ道しるべとなっている。その門は、これも唐代の彫刻である石獅子に守られている。
鎮州から道は西北に曲がって五台山に向かう。聖山への東の巡礼路の始まりである。かつては古い寺がこのあたりに散在して、信者団体の宿坊となっていた。
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