沙渓は、雲南・チベットルートの茶馬古道によって盛んになった古い町である。通りに面した商店や馬宿、「三房一照壁」(中庭の三方を建物が取り囲み、残りの一方は目隠しの土壁になっている)式のぺー族(白族)民居および古い集落の入り口が、古い舞台と興教寺を中心とした古鎮を囲んでいる。悠久の歴史を有するこれらの素朴な建築群は、現在に至るまでほぼ完全にかつての様子をとどめている。

 2001年、沙渓古鎮の招きを受けてこの地を視察した世界記念物基金(WMF)の専門家は、「最も完全に保存された茶馬古道の市である」として、高く評価した。この沙渓古鎮(寺登街)は、2002年には世界の「危機遺産リスト101」にも選出された。



寺登街

 沙渓は雲南省西北部の剣川県にあり、金沙江(長江上流域)、瀾滄江(メコン川上流域)、怒江(サルウィン川上流域)が平行して流れる「三江併流」自然保護区の東南に位置する。大理古城を北上し、ジ源を経て剣川県まで約200キロ。県城より南へ約30キロ行ったところにある面積わずか26平方キロのこの地に、ペー族、漢族、イ族(彝族)、リス族、ナシ族(納西族)の5つの民族が集まって住んでいる。その中で一番多いのがペー族である。

 寺登街は、沙渓古鎮の商業・貿易の中心であり、宗教と文化の中心でもある。この名は明代後期、この地の興教寺にちなんで名づけられた。寺とは興教寺のことであり、登はペー族の言葉で「地方」という意味である。かつて、大理からチベットへ向かうキャラバンと商人が古鎮の市へ行くには、必ず黒龍江ほとりの玉津橋を越えなければならなかった。さらに古道を進むと、ほどなく古鎮の東寨門にたどりつく。

 荷物を背負った馬はゆっくりと東寨門をくぐったあと、「馬鍋頭」(馬方の頭)に連れられ、狭くて長い横町を順番に通り抜け、古鎮に入ってゆく。道の両側には各商店の店主や店員が出迎えのために次から次へと飛び出してきて、客を引き込もうと懸命に声をかける。またたくまに、狭い横町は人と馬の声で大賑わいになる。

「街子巷」に沿って沙渓古鎮に入るキャラバン

 この商店と馬宿があふれる横町を、人々は「街子巷」と呼んだ。古鎮にはこうした横町が3本あり、いずれも寺登街につながっている。

 あまり広くない「街子巷」であるが、遠くからはるばるやってきたキャラバンの交易はみな、まずここで行われる。道の両側に並ぶ建物は、ほとんどが2階建ての木造建築である。一階の店舗に設けられた細長い木製のカウンターは、店主がお客さん相手に商売をするとき、商品とお金を広げたところである。裏庭の戸のかまちの横木に「公店」と書いてあるところは馬宿である。一軒の馬宿は、ほぼ30人と馬60頭を受け入れる。かつて最盛期には、古鎮の周辺および横町に百軒以上の商店と馬宿があり、毎日千にものぼる数の馬や商人が行き来したという。

寺登街の古い舞台

 「街子巷」の突き当たりは、寺登街の市である。そこは南北300メートル、東西100メートルの長方形広場になっている。周囲を商店と馬宿に囲まれ、樹齢百年の2本の槐の木が広場の中央にそびえ立っている。槐の木の東側は、寺登街で最も特色ある、西向きの古い舞台である。3階建てで、前は舞台、後ろの高い楼閣は「魁星閣」となっている。この高い楼閣の12の軒先は四方に向かって反り返り、ペー族建築の特徴がくっきりとあらわれている。ここは、庶民が魁星(北斗七星の第一星)をうやうやしく奉るところである。舞台は修繕をほどこされてはいるものの、ほぼ昔のままの風貌をとどめている。槐の木の西側にあるのは、明代に建造が始まった東向きの興教寺で、東側の舞台に対応するものである。

 『新纂雲南通志』の記載によると、「興教寺は、城南60キロの沙渓街にあり……明永楽13年に建てられた」とある。ざっと計算しても、500年以上におよぶ歴史を持つ。興教寺の本堂などには、もともと明の永楽15年(1417年)に描かれた素晴らしい壁画がたくさんあったが、今では20点あまりしか残されていない。中でも最も特色あるものは、本堂のかまちの横木に描かれている『南無降魔釈迦如来会』の図である。図中の女性の姿に描かれている釈迦牟尼の仏像は、全国にある釈迦牟尼仏像にまつわる記載の中でも、非常に珍しいものである。

 昔の寺登街は3日ごとに市を開いており、非常に賑やかであった。各地からやって来るキャラバンは市の初日に沙渓に次々と集まり、ここの馬宿に宿泊し、翌日に市へ行く。初日の午後になると、さまざまな舞台が始まるのも興味深い。舞台の上では千年もの長い年月受け継がれてきた「洞経古楽」が響き渡り、舞台の下では人々が軽快なリズムのペー族の舞踊「覇王の鞭」を踊りだす。楽しげな声や笑い声が夜通し響き、丸々2日間にわたって続く。現地の人はそれを「両宵両天戯(2晩夜通しの舞台)」と呼んだ。市の初日、夜が明けたばかりのころ、キャラバンの人々や商人たちは興教寺に参拝する。仏像を拝み、商売繁盛及びどんどん財産が増えるよう、そして道中の無事と健康を祈った。

 興教寺の本堂は、主にチベットのキャラバン、商人と僧侶が仏像を祀る場所であり、その両わきの殿堂は、行き来する商人とキャラバンが財源を求め平安を祈る場所と、文人が孔子や関公(関羽)、文昌(功名・官位をつかさどる神)を祀る場所となっている。それぞれ参拝がすむと、持ってきたお茶、塩、毛皮類、薬種、布、百貨などを道端に並べ、交易をする。現在の沙渓鎮では、かつての市の賑わいはほとんど見られなくなった。時代の発展と変化に伴い、次第にキャラバンの数も減り、馬宿も消えていった。この地は、今や観光スポットとして発展しつつある。

馬宿の馬小屋

 現在の古鎮にも、まだ馬宿があるかどうかをガイドに尋ねてみると、「それほど多くはありませんが、あることはあります」という意外な答えであった。鎮の東側の道路沿いにある馬宿に案内してもらった。外観を見ただけでは、馬宿とはわからない。目立たない小さな食堂といった店構えで、おかみさんが客の呼び込みに励んでいる。店の裏門をくぐると、きれいな二階建ての建物が目に入った。客室は、大きなカラーテレビが据えられた、真っ白い壁の非常に立派な部屋である。建物の横には馬小屋が並んでいたが、あいにくその日はからっぽである。なぜ一匹もいないのかと尋ねると、「野良仕事用に貸し出しています」というのが店の人の答えであった。「今でも宿泊に来るキャラバンはあるのですか」と尋ねると、「ほとんどありません。今の店主で5代目になる馬宿ですが、現在は主に売る目的で30頭の馬を飼育しています。威山や鶴慶などのキャラバンはみなここに馬を買いにやってきます。山から鉱石を運ぶ人に貸し出すこともあります」

 店の人によると、このあたりの山地で道が通っていないところでは、野良仕事や荷物運びなどにはやはり馬を使っているという。例えばケーブルを運ぶには、車では難しく、数匹の馬で一緒に力をあわせて引っ張ることになる。一匹あたりどのくらいで売れるのかと聞いてみると、「千元から5、6000元までとまちまちです。キャラバンが少なくなったので、商売になりませんよ」と店の人は嘆いた。

 現在、大理から剣川を経て沙渓古鎮に入る道は、すべて平らな高速道路とアスファルト道路となっており、直接車で入ることができる。かつてのようにキャラバンが古鎮に入ってゆく風景は、めったに見られなくなってしまった。

古鎮の古い家

典型的な「三房一照壁」式ぺー族民居

 古鎮には、茶馬古道のおかげで身代を築いた商人が少なくない。特にキャラバンの「馬鍋頭」らはひと儲けしてから土地を買い、次々に家を建てている。彼らの子孫が、ここに落ち着いて暮らしているのである。中でも欧陽、趙、陳、楊、李といった一族の祖先は、みなキャラバンの「馬鍋頭」だったという。ガイドの案内で欧陽家を訪れた。

欧陽家の主人の欧陽盛先さん

 清の末期に完成した欧陽家の家屋は、寺登街の西北に位置する「三家巷」の一番西の端にある。石畳の道に沿ってゆくと、石造りの「門楼」(門の上に築いた屋根型建築)の前に出る。門楼の上部にある石の獅子、鳥の彫刻やさまざまな花模様の浮彫りはもはや風化しており、はっきりとは見えない。これが、欧陽家の一番目の門である。それをくぐって狭い道を抜けると、正門である二番目の門がある。この門と一番目の門の構造はほぼ同じである。主に木造で、泥彫りや木彫り、彩色上絵、レンガ彫りなどすばらしい模様が、反り返った軒先と斗キョウ(柱の上部にあり、軒をささえる部分)を特徴とする門楼の芸術を形作っている。門のかまちの横木には、「漁樵耕読」の図案が彫り込まれている。その雅やかさから、読書人の家柄であることがうかがえる。

反り返った軒先と斗キョウを特徴とする欧陽家二番目の門の門楼

 2番目の門をくぐると欧陽家の中庭である。これは典型的な「三房一照壁」のペー族の民居で、百年あまりの歴史があるが、今に至るまでほぼ完全な状態がとどめられている。門と壁には、精巧な木彫りと石彫りの図案が多く見られる。きれいに片付いている中庭には、さまざまな盆栽が並べられ、生き生きとした空気に満ちている。中庭の西、南、北三面は母屋、客室、「耳房」(母屋の両端に立てられたやや低い部屋)からなり、すべて2階建てである。東側の幅8メートル、高さ3メートルほどの照壁(目隠し用の塀)とあわせて、完全な正方形の構造となっている。

欧陽家の一番目の門から二番目の門へ抜ける狭い道

 主人の欧陽盛先さん(66歳)が紹介してくれた。「『三房一照壁、四合五天井』式の建築構造はペー族民居独特のものであり、特に三房一照壁は比較的普遍的なスタイルです。主に庭壁、正門、照壁、母屋と耳房によって構成されています。四合五天井は、ごく少数の裕福な一族が住む家屋で、母屋と耳房はそれぞれ四つあり、さらに大きな中庭一つと小さな4つの中庭で構成されています。照壁はペー族民居にとって不可欠であり、中庭の内、外、村の前に必ず建てられています。庭内の照壁は母屋の真向かいに設けられ、上部は灰色の瓦に覆われ、四方に向かってひさしが反り返っています。照壁の色は白く、その軒下と左右両側には色の濃い、薄いレンガが四角、円形、または扇面形を形作っています。中には、彩色の墨や水墨で花や鳥、昆虫、魚、山水、人物あるいは梅、ラン、松、竹なども描かれています。さらに唐詩と宋詞の名文も書き込まれたものもあります。照壁の真ん中には、円形の大理石をはめるか、あるいは「福」の字を書きます。夕方になると、白い照壁に太陽の光が反射して、部屋の中を明るく照らしてくれます」

欧陽家のいたるところで、木彫りと石彫りの図案が見られる

 説明を受けながら、この古い家屋の隅々までを見学した。その精巧な建築スタイルと素朴な気風が、深く印象に残った。

 ゆっくりと古鎮を離れた。反り返った軒先と斗 を特徴とする門楼、そして雅やかな照壁が、まぶたの裏に浮かび、いつまでもなかなか消えなかった。


 
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