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棚橋篁峰 中国茶文化国際検定協会会長、日中友好漢詩協会理事長、中国西北大学名誉教授。
漢詩の創作、普及、日中交流に精力的な活動を続ける。
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武夷岩茶は、中国茶の世界で知らぬ人はいないくらい有名な武夷山の名茶です。武夷山は、世界自然遺産としても知られ、美しい山々が連なる観光地でもあります。
今回は少々有名になりすぎた武夷岩茶のひとつ「大紅袍」について、天心永楽禅寺の住職・釈沢道禅師を訪ね、お話を伺いました。
武夷岩茶は、基本的には「武夷肉桂」や「武夷水仙」などさまざまな名前の岩茶の総称です。しかし「大紅袍」がその伝説によって非常に有名になってしまったため、ほとんどの武夷岩茶が「大紅袍」の名前で売られているというのが現状です。その伝説をご紹介しましょう。
その一 下賜説
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岩壁の上の「大紅袍」の茶樹 |
昔々、皇后の腹が突然ふくらみ、苦しくなって、食事も咽を通らなくなってしまった。皇帝は医者を呼び、さまざまな手を尽くしたが治らず、皆、色を失った。
そこで太子が皇帝の命を受けて、良医良薬を探しに出た。太子は都を出てから四方八方必死に手を尽くして薬を探したが、見つけることが出来なかった。最後に武夷山にやってくると、そこは奇峰・怪石が連なり、林は深く道は険しい。
注意しながら歩いていくと、猛獣のほえる声と助けを求める人の声を聞いた。急いで駆けつけると、一匹の虎がまさに一人の老人に噛みついているところであった。太子は怒り、剣を抜いて猛虎を殺し、老人を救った。
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天心永楽禅寺の釈沢道禅師と筆者 |
老人は感謝して、お礼をするために太子を家に招いた。太子と話をするなかで、老人は皇后が重い病にかかっていることを知った。そこですぐに、ある崖の前に太子を連れて行き、岩の半ばにある小さな茶樹を指さして「里人の話によれば、腹がふくらみ苦しいときには、この茶樹の葉を取り煎じて服用すれば、その効果は絶大であるといわれている」と話した。太子は非常に喜んで岩壁をよじ登り、茶樹の葉をたくさん摘んで降りてきた。
太子は昼夜を走って都へ戻り、茶葉を煎じて皇后に献上した。一杯目を飲むとすぐにお腹に変化が現れ、二杯目を飲むとお腹がすっきりと通じ、三杯目を飲むと心は清らかで爽やかになり、薬効が現れたちまち病気が治った。皇帝はたいへん喜んで詔を賜り、その茶樹に「大紅袍」という名前を下賜された。そして、老人には「護樹将軍」という名を与えたのである。
その二 状元説
昔々、一人の秀才が都に上って科挙の試験を受けるため旅をしていた。武夷山のあたりにさしかかった時、突然腹痛を起こして痛みに耐えられなくなり、偶然出会った天心寺の住職に助けを求めた。
住職は彼の病状を見て、すぐに部屋の中にあった陶器の入れ物の中から、一握りの乾いた茶葉を取り出し、山水を用いて大きな茶碗に茶を淹れた。秀才はこの茶湯の香りを聞き、一杯目を味わうと心が落ち着き、二杯目を味わうと腹の痛みがなくなった。しばらくすると便意を感じて、お腹がごろごろと大きな音を立て、腸の具合も良くなり、体中の骨からだるさが取れ、毛穴も広がり、たちまちのうちに病気が治った。
病気が治った後、心からの感謝を示し、住職に別れを告げて都に赴いた。その後、素晴らしい能力を発揮して科挙の試験に「状元」(首席)で合格。皇帝は、彼の才能が群を抜いていることと、容貌もまさに英雄、俊傑の素質を備えていることに心から喜び、娘婿として迎えた。
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武夷山の茶畑 |
彼は、功成り名を遂げて故郷に帰国した。その途中、武夷山にさしかかって、かつて、天心寺の住職に命を助けられたことを思い出し、天心寺を参拝して、あのとき飲ませてもらったお茶について聞いた。住職は彼を連れて九龍スへ行き、岩壁の上にある茶樹を指さして、この樹ですよと教えた。彼は大変喜び、すぐに状元に与えられる大紅袍(紅いマント)を脱いで、自ら茶樹に掛けた。これにより、天心寺の住職はこの茶樹を「大紅袍」と名付けたのである。
これらの伝説は南強著『武夷岩茶』に出てくるものですが、天心寺の釈沢道禅師によれば、いずれも明初の洪武年間(1368〜1398年)に生まれたものと考えられています。
「大紅袍」の茶樹の本当の名前は、「奇丹」という名です。現在の「大紅袍」は烏龍茶ですが、伝説によって「大紅袍」という名前が付いたのであれば、武夷山で烏龍茶が生まれたのが1600年代の末であるとされていることから、それよりも300年ほど前の話ということになります。当時は緑茶の製茶法しかなかったので、烏龍茶としての「大紅袍」の伝説ではないことになります。しかし伝説とはそのようなものです。だからこそ、「大紅袍」は神秘的な名茶なのかもしれません。
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