民間の文化遺産を訪ねて 魯忠民=文・写真
 
 
 

湖北省・黄石市道士フク村
屈原しのび、飾り舟流す神舟会
若者たちが用意した稲わらの台の上に乗せられたあと、牽引船で川の中央まで引かれてゆく神舟
 
 
 
旧暦5月16日は神舟が巡行する日である。担ぎだされて街を練り歩く神舟は、人々に幸せをもたらす

  道士フク村は、湖北省黄石市の西塞山のふもとにある。毎年の端午節には古代の詩人の屈原(紀元前340ごろ〜同278年ごろ)を記念して、また村人のための魔除け・厄払い、平安長寿祈願として、旧暦4月8日から5月18日までの40日間にわたって、伝統的な盛会「西塞神舟会」が行われる。竜船の形をした神舟造り、芝居、祭祀、パレード、神舟の進水式といったさまざまな活動がある。そのうち、もっとも盛大かつ重要なのは神舟の進水式を行う5月18日である。その日は、地元および周りの市と県から数万人が押し寄せ、たいそうな賑わいとなる。

西塞山と道士フク

山脈の北端が長江まで延びている西塞山

 黄石市から12キロ離れた西塞山の山脈の北端は、長江まで伸びている。古代、ここは呉国と楚国の境目であった。山は高くはなく、土地も広くはないが、非常に険しく、軍略家なら必ず手に入れようと考える要地である。古戦場、古要塞、古墳が一体となり、古跡と人類の文化とが輝かしく引き立てあっている。

 西塞山のふもとにある道士フク村は、黄石地域の長江流域でもっとも早い時期に町ができたところで、隋唐(581〜907年)のころには、土フク鎮または楚雄関と呼ばれた。滔滔と流れる長江は西塞山によってさえぎられ、静かな湾と半島を形づくり、ここを行き来する船舶の停泊地と物資の集散地となっていたのである。

神舟の船室に鎮座する紙製の忠孝王・屈原大夫

 歴代の王朝はここに駐屯軍をおき、役所や穀物倉庫を設けた。通りが縦横に入り組み、店舗がずらりと並んだ古鎮は、大変な賑わいであった。戦争や水害の被害を受け、さらに現代に至って陸路の交通が整備されたため、埠頭はいつしか繁栄を失い、古鎮は次第に落ちぶれていった。現在の道士フクは、古鎮の古い建物がセメントでつくられたビルに取って代わられた。現在、この地に住む480戸、2762人の住民は、主に野菜栽培や貿易、サービス業を生業としている。

神舟会と厘頭会

神舟の前甲板には、紙製の千里眼、順風耳、東西南北中の五方神などの神将が安置されている

 西塞の神舟会を取り仕切っているのは、道士 村の民間組織である。かつては教師であった今年71歳になる頭人(中核会員)の黄太征さんは、村の歴史と当地の風俗に詳しい。神舟会はかつて厘頭会と呼ばれていたと黄さんはいう。

 伝説によれば、屈原は旧暦の5月5日に川に身を投げたが、その訃報が道士投げフクに伝わったのは10数日のちであった。屈原の遺体を納棺する人がいないことを懸念した村人は、急いで舟を造って遺体を納棺することにした。先を争って金を出し、2、3千戸の家が1戸あたり1厘の銀を寄付して厘頭会を創立した。村人は昼夜を徹して造った2艘の舟を赤色に塗り、「紅船」と名付けた。

 その後、上流地域の人々がすでに屈原の遺体を納棺したことを知る。屈原の死を悼み、一日も早い昇天を祈願して、人々はさらに紙で1艘の竜船を造り、屈原の遺影を祀った。このとき以来、毎年神舟会を開催するという習わしが少しずつ形成されていった。

「神舟」造りスタート

人々に大人気の楚劇

 毎年旧暦の4月8日の仏様の誕生日に「神舟」建造の着工式を行ったのち、職人たちは5月5日まで完全に外界と隔絶した環境で竜船を造る。船体造りに始まり、船上の亭台楼閣に色彩を施して形を整えてから、船上の64の仙人を作る。今年の4人の竜船の造り手のうち、游道銀さんは生涯を竜船造りにささげてきたといっていい。90近い高齢ではあるが、その情熱はいまだ衰えることを知らない。1975年生まれの游建忠さんは、19歳から祖父について竜船の造り方を学んできた。今では主力の職人として、竜船の主体や神像、菩薩などの製作を任されている。

神舟会の会長を16年間務めた、地元の農民である賈徳生さん(65歳)

 竜船は、長さ7メートル、幅2メートル、高さ5メートル。亭台楼閣は、美しい装飾が施され、強い勢いを感じさせる。船体は若干の木材のほか、主に茅とアブラナの茎を中に詰めて赤布で表面をくるんだもので、船倉の竜骨は木材でつくられているが、ほかはすべて細い竹でつくられ、そこに紙を貼り付けて完成する。きわめて高い工芸技術である。

 船倉の中に2つの楼閣があり、それぞれ当地の人々が「忠孝王」と呼ぶ屈原大夫と女ワ 氏(子授けの神)がある。竜の頭の上に立つのは、航行の方向を支配する楊泗将軍。真正面には、「八仙」と福星、禄星、寿星の3仙人が立っている。甲板、船尾、舷側は、それぞれ東西南北中の5方神、鶏鴨虎馬の4疫病神、千里眼、順風耳などの仙人を祀ってある。

旧暦5月17日の夜は48の常夜灯が神舟の周りで灯される

 後ろの甲板に立つ人形は船長で、太鼓を叩いて指揮する。船尾には舵取りの人形が一体、さらに両側にそれぞれ12体の水夫がおり、全部で64の神像がその役を務める。7メートルにもおよぶ帆柱には旗と斗がかかっている。旗には大きく「代天宣化」「収災緝毒」の文字が書かれ、斗は四方平安を守ることを意味する四角形のものである。また、帆柱のてっぺんに飾られた風を受けて回転する風車によって、風を観測する。

神舟開眼、諸神登舟

旧暦5月17日の夜、神舟を徹夜で見守り、惜別の情を表す人々

 竜船が完成するまで、20数日かかる。旧暦5月5日0時に、竜船の開眼供養を行う。道士が雄鶏のとさかを突き破って杯に血を3滴たらし、鶏の血をつけた毛筆で竜の目を描き、開眼するのである。また、竜船の重要な各部分も鶏の血で開眼させ、最後は仙人たちの顔に赤色をつけて経を唱え、神霊の霊験を賜り、災害や病気を祓ってくれるよう祈る。こうして、開眼された竜船は単なる竜の形をした舟から「神舟」となるのである。

神舟会の炊事場で、神舟を徹夜で見守る人々のためにおかゆを煮る女性たち。翌朝には、多くの村民がおかゆをもらいにやってくる

 5月15日0時、道士は線香を焚きろうそくを灯し、法事、祭祀を行ってから、占トをはじめ、各仙人に船上にあがってくれるようお願いをする。名前を読み上げられた仙人の神像を、神舟を造った職人があらかじめ定められている場所に運ぶ。64仙人すべてがそれぞれの位置につくまで延々と続く儀式である。

 神舟会の正式な会期は旧暦5月15日から5月18日。この間、人々は「神舟宮」の前に舞台を組み、昼も夜も楚劇(湖北省の地方劇)の大作を上演する。雨が降ろうが炎天であろうが、この日を心待ちにしてきた演劇ファンたちが、どっと押し寄せる。

神舟巡行

西塞神舟会には政府も大きな関心を寄せ、文化部から中国無形文化財に指定された。その看板をかかげる村民

 旧暦5月16日は「神舟巡行」の日である。朝9時、たくましい8人の男たちに担がれた神舟は「神舟宮」を出発し、村全体を回る。巡行の行列はひたすら壮観である。人々に取り囲まれた神舟の前には、色とりどりの旗や黄色い衣笠が数十本掲げられ、そのすぐ後ろには腰につけた太鼓を叩く人々や高足踊りの人々、そして行列の最後には何組もの民間音楽の楽隊が続く。

 この日を迎えるにあたり、どの家も門にショウブやヨモギの葉をぶら下げる。さらに玄関に香炉を置く机を設け、線香を立て、黄色い紙を燃やし、酒、茶、米、果物などを供える。

神舟の進水式を取り仕切る道士

 神舟が家の前にやって来ると、その家の主人は爆竹を鳴らし、神舟に向かって茶葉と米を撒いてねぎらいながら、五穀豊穣を祈る。3時間ほど練り歩き、村中をくまなく回ったあと、「神舟宮」に戻り終了となる。

 旧暦5月18日は、神舟を長江に流す日である。17日の夜、村民は次々に「神舟宮」を訪れ、神舟の周りに48の常夜灯を灯す。人々はそばに座って、静かに神舟のお供をする。この夜、「神舟宮」内に銅鑼と太鼓の音が鳴り響き、線香の煙とろうそくの光が揺らめく中、人々は夜を徹して神舟との別れを惜しむ。夜の12時になると、神舟会は徹夜した人々に米のおかゆを届けるという習わしがある。夜が明けると、村中の人々が鍋や盆を手に、おかゆをもらいに神舟会の炊事場にやって来る。神舟会のおかゆを食べることで、福が訪れると人々は信じている。

長江を下ってゆく神舟

昼近くになると、神舟を担いだ人々は江畔に向かう

 旧暦5月18日の午前、「神舟宮」の前と舞台のある広場は人でいっぱいになる。雨が降ろうが、人々の熱意に水を差すことはない。「神舟宮」前に担ぎだされた神舟は、人々から最後の礼拝を受ける。儀式を司る道士は、まず経文を唱えてから剣で雄鶏のとさかを切りとり、神舟の周りを走りながら、その血を船体に塗りつける。

神舟を見送るために川のほとりに集まった人々

 法事が終わると、道士と神舟会の頭人の先導に従って、神舟を担いだ16人の若者が小走りに川のほとりに向かう。天地を揺るがすような爆竹の音の中、川のほとりで待つ人々の思いはいやがうえにも高まってゆく。若者たちは、事前に用意した稲わらで作った台に神舟を固定し、牽引船で長江の主航路まで引っ張ってゆく。川に浮かんだ数艘の漁船の船首には香炉が備えられ、神舟の周りを爆竹を鳴らしながら回る。こうして神舟を見送るのだ。神舟を川の中心まで引っ張っていった牽引船は、正午ちょうどに縄を解く。神舟は水の流れに乗って、長江を下ってゆく。

 村民たちは堤の上で、立ったりしゃがみこんだりしながら合掌し、屈原をしのぶ。そして自らの円満な生活を願いながら、長江を下ってゆく神舟が、いつしか川の彼方に姿を消すのをいつまでも眺めている。

 

 

 
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