【慈覚大師円仁の足跡を尋ねて】 24回フォトエッセイI
阿南・ヴァージニア・史代=文・写真 小池 晴子=訳

太行山脈を越えて

     
 
黄山の八会寺 

 円仁一行は、五台山を目指して西へ巡礼の本道をたどった。宿は、信者団体をいつでも受け入れる宿坊だった。円仁はこれを「普通院」と呼んでいる。

 円仁日記に以下のくだりがある。「……840年旧暦4月23日。西北に進んで黄山の八会寺に着き、休憩して中食に黍飯を食べた。当今の人は、ここを上房普通院と称している。これまで常に飯粥を用意して、僧俗を問わず来たる者には宿を提供してきた。食する物があれば与え、無ければ何びとにも与えられない」

 今でも巡礼団は修復された八会寺に宿泊する。炭火の上で粥を煮る者もいる。仏堂では一人の僧が巡礼団に読経の指導をしていた。私には、眼にするものすべてが、まさしく唐代にあるかのように映った。いつも事実に即して日記をつけている円仁が、ここでは少しばかりユーモアを交えている。

 「院内に2人の僧あり、1人は心明るく、1人は暗い。また黄色い毛の犬がいて、世俗の者を見ると吠えて咬みつくが、僧とみると主人であろうと客人であろうとお構いなく尾を振ってなれなれしい」

養蜂一家が飼っている黄色い犬

谷を行く羊の群れ
龍泉関

 道は曲陽を出たところから登りになる。円仁が旅で見たように、谷に沿って羊の群れを追う羊飼いたちがいた。私は、浙江省から来た流浪の養蜂一家に出会った。彼らの飼っている「黄色い毛の犬」は、僧に限らず誰にでも人なつこかった。彼らの上に高くそびえる聖山の嶺に小さな寺があり、私は円仁が日記の中で触れている両嶺普通院を思い出した。「近年虫害のため食がなく、ここしばらく粥もでない」と円仁は述べている。このため日本から来た僧たちは食料を持参しなければならなかった。

 円仁たちは曲陽から真西に向かい、太行山脈の嶺を越えた。阜平は、いくつかの嶺を越えて山西省に入る前の、河北省最後の町である。円仁はまっすぐに伸びた松を讃え、「緑の」峰は高く、雲を「吹き出して」いるかに見えると記している。

 道をたどりながら、私もまた、円仁がその日記に書き記したのとまったく同じ言葉を思い浮かべていた。「曇天。出発して峡谷沿いに進む。500頭ばかりの羊の群れを追う羊飼いに出会った」

 標高2000メートル以上に位置する狭い峠道に、古い官営前哨基地の遺跡があり、いまも龍泉関として残っている。円仁は龍堂内に泉を見出した。「水は清く冷たい」。私は石だたみの小道を歩いて、村の小さな廟まで登って行った。村人たちは私の訪問を歓迎してくれた。この廟は最近仏教に宗旨替えしていたが、その位置から推して、円仁が泉を見つけたのはここだと思う。廟からは、どこまでも続く嶺また嶺を見渡せる。

太行山の風景

 風景は息をのむほどに美しかったので、私は、旅のこの部分は円仁に見習って歩くことにした。お陰で咲き誇る数知れない野の花を楽しむことができた。遠く蒼い霞の下に、さざ波のような嶺々が地平線のかなたまで続いていた。

同連載の単行本『今よみがえる唐代中国の旅 円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』が9月に出版されました。(日本ではランダムハウス講談社より、中国では五洲伝播出版社より)


慈覚大師円仁
 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。

 円仁は794年栃木県壬生に生まれ、44歳で中国に渡った。中国では一日平均40キロを踏破し、現在の江蘇、山東、河北、山西、陝西、安徽各省を経巡った。大師について学び、その知識を日本に持ち帰ろうと決意。文化の境界を超えて、あらゆる階層の人々と親しく交わり、人々もまた円仁の学識と誠実さを敬った。

 私たちはその著作を通して、日本仏教界に偉大な影響を与えた人物の不屈の精神に迫ることができる。彼は後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた

     


阿南・ヴァージニア・史代

  米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国での発見を写真に収録した。これらの経験を著書『今よみがえる唐代中国の旅 円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』(ランダムハウス講談社)にまとめた。

 

 
本社:中国北京西城区車公荘大街3号
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。