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馬に乗って麗江の新市街を行く、ナシ族の男性 |
剣川の沙渓古鎮を後にして、雲南・チベットルートの茶馬古道に沿って北上を続ける。ふと気づくと、目の前に玉竜雪山が高く聳え立っている。その真っ白な峰は、雲に遮られたかと思えば、まばゆい太陽の光に照らされ、非常に魅力的である。ため息が出るほどの美しさだ。
麗江古城は標高2400メートル、面積3.8平方キロで、雲南省西北部にある「麗江ハ子」と呼ばれる山間の盆地の中部に位置する。
古城で茶馬古道の跡を探し求めていると、一人のナシ族のお年寄りが、かつてのナシ族のキャラバンの習わしを紹介してくれた。
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狭い道の両側に林立する2階建て木造のナシ族民居 |
ナシ族の人々は、人も馬も多ければ多いほど、家族の隆盛を物語ると考えていたという。
ナシ族のキャラバンの馬選びは、非常に慎重である。特に先頭を切る「頭馬」選びは、より厳しい目で行われる。まず毛の色をチェックするが、普通は青毛、栗毛、白毛といった単色の馬を選び、色の交じり合ったものは不可である。次は、体躯やタテガミのバランスが整っているかどうか、歯並びが整っているかどうかを調べる。鼻梁白や旋毛がある馬などは好まれない。
「頭馬」の飾りは独特である。首に丸くて大きな銅の鈴を結び、頭には赤く染めたヤクの尾を飾る。顔には丸い鏡をはめた赤いコールテンの仮面をつけ、その周りを「炎」と呼ぶギザギザの黄色いレースで飾る。胸を張り首を高々ともたげて進む様子は、非常に頼もしく見える。2番目の馬にはひとつながりの鈴がかけられる。これといって特徴のない普通の馬には、桶状の鉄鐸がひとつだけかけられる。形の異なる鈴が響く音はそれぞれ違うため、途中で頭馬とほかの馬の位置が判断でき、進行状況を把握することができる。
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古城の商店で、銀の器を作る職人 |
古城のナシ族の商店の店主は、ほとんどがキャラバンの「馬鍋頭」(馬方の頭)であった経験を持つ。史書の記載によると、キャラバンの最盛期の馬の数は、屋号「達記」では300頭、「仁和昌」では180頭、「元徳和」では100頭あったという。もっとも多いのは30〜50頭の馬を有する商店であった。毎年、麗江からチベットへ向かうキャラバンの馬の数は、最も多い時期で1万頭以上に上った。毎日、300頭ほどの馬が麗江を通っていった。
麗江のナシ族の馬宿は、ほかの馬宿とは異なる。客を接待する以外、世話をするのは馬鍋頭の馬だけである。その他の荷物を運ぶ馬は、荷物を乗せたり降ろしたりするときだけ、店に連れてこられる。あとは馬方(キャラバンが雇ったチベット族の人)が牧草地まで連れて行って放し飼いにし、馬小屋に入ることはできない。
ナシ族のキャラバンは普通7頭の馬で1隊とする。8頭のキャラバンもまれにある。短距離または比較的安全なところでは、1隊の単独行動もあるが、越境や長距離輸送になる場合には、安全のために必ず3〜5隊のキャラバンが一緒に出かける。ナシ族の商人が担当する馬鍋頭は、一番後ろにつくが、強盗が多いところを通る際には、先頭で銃を持って危険に備えることになっている。チベットに向かうキャラバンのナシ族の馬鍋頭のほとんどは、チベット語を解する。チベットに入ると、チベット族の服やブーツに着替え、チベット語で現地の人と言葉を交わす。こうして相手の信用を得ることで、商売もスムーズに進めることができる。
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ナシ族の民居の前の「三眼井」(写真・楊振生) |
宿場に着くと、馬鍋頭はお酒、お茶、黒砂糖、春雨などを手に、村の得意先のもとを訪れ、まぐさと交換しに行く。同時に、荷物や鞍や敷物をおろし、それぞれ分けて並べる。またサルオガセ(下がり苔)やキバノロ(シカ科の動物)の毛を入れた敷物を広げ、臨時の寝床とする。テントを張ったあと、馬を牧草地へ追いに行く。このとき炊事の煙を立ち上らせて、トウモロコシのご飯を作り始める。トウモロコシと小麦粉を混ぜて煮てから焼いたもので、作るときには「3回上げて、3回下ろす」。すなわち、沸いたら鍋を火から下ろし、沸騰しなくなったら、再び火の上に移す。これを3回繰り返して水分をすべて蒸発させたあと、蓋をし炉に移して焼く。焼いている間にたびたび鍋を回すが、その回し方にはキャラバンならではの決まりがある。往路では鍋を左へ回し、復路では右へ回す。道中の無事を祈る思いがこめられているという。
城壁のない古城
麗江古城からわずか15キロのところに、玉竜雪山がある。この山はユーラシア大陸において、緯度が赤道にもっとも近い海洋性氷河のある雪山である。13の峰からなり、標高はいずれも5000メートル以上。最高峰の「扇子トウ」は5596メートルに及び、雲南省で2番目に高い峰で、現在にいたるまで人間に征服されていない山である。
玉竜雪山は、ナシ族に「神聖な山」と見なされている。言い伝えによると、ナシ族の守護神である「三朶」が玉竜雪山の化身で、戦争に長けた勇ましい英雄だそうだ。ナシ族の人々は、毎年旧暦の2月8日になると「三朶祭」を行い、玉竜雪山と三朶への敬意を表する。
雪山の麓にある麗江古城は、南宋(1127〜1279年)の末年に建造が始まり、800年あまりの歴史を持つ。ナシ族の古語では、麗江を金沙江(長江上流域)の屈曲部という意味の「依古堆」と称し、後に穀物倉庫と集落がある市街という意味の「鞏本之」と称した。1929年以降、古城が硯の形をしているとして「大硯鎮」と改名された。城壁のない珍しい古城である。
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標高5596メートルの玉竜雪山 |
言い伝えによると、麗江の「木」姓の土司(元・明・清の時代、世襲の官職を与えられた西南地区の少数民族の首長)が、城壁で古城を囲むことを嫌ったという。「木」という文字に「囗」を加えれば「困」になってしまい、縁起がよくないからだ。そのため、古城にはずっと城壁がないのである。
玉竜雪山のふもとを流れる金沙江のほとりにある麗江古城は、青山にぐるりと囲まれている。北に象山と金虹山、西に獅子山があり、東南は広大な平地である。夏は暑すぎず、冬も寒すぎない。城内の建物は地形にあわせて建てられ、重なり合うような民居が秩序立って分布している。
城内は曲がりくねった道が四方八方に通じているが、規則性はなく、ほとんどが水の流れに沿って伸びている。どこから古城に入っても、中心にある「四方街」に通じる。商店が囲むようにして四角い広場となった場所は、「知府の印鑑」の形をまねて造られたもので、土司の権力が四方を鎮めるということを意味する。
数百年来、四方街は一貫して麗江古城および雲南西北部の交易の中心地であった。四川・チベットルートと雲南・チベットルートのキャラバンが往来する際には必ずここを通る。そのため古城には、キャラバンのために敷物やチベット式ブーツ、あぶみ、蹄鉄などを加工する専門店が出現した。とりわけここで作られた銀や銅の器といった生活用品は、チベットで販売する人気商品となった。チベットから運んできた皮、細羊毛、山地の産物、草薬とインド、ネパールから輸入した布や各種舶来品は、市場で人気を呼んだ。
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古城のいたるところで見られる水と橋のある風景 |
抗日戦争の時期には、中国の主な輸出入ルートが日本軍によって断ち切られた。したがって昆明から麗江、チベットを経てインドまでのルートが、当時の重要な貿易ルートおよび戦争物資の輸送ルートとなった。そこで、内陸の商人たちが麗江に集まってきて商売を始め、城内には最盛期に1200軒もの商店があった。現地の商人が省外および国外で設立した貿易会社も、百社以上に達した。現在も、各地、各民族の貿易商が絶えず古城に店を開き商売をしにやってくる。観光客の訪れも頻繁で、古城の繁栄風景は今に至るまで廃れてはいない。
柳と水路の張り巡らされた古城
「町は水をよりどころとして存在し、水は町の地形にしたがって流れる」。これこそ麗江古城の特色であろう。古城の北にある象山のふもとに源を発する玉泉河は、双石橋の下を流れた後、西河、中河、東河という3本の流れに分かれ、古城に流れ込む。城内でさらに数本の支流に分かれた流れは、道と入り組むようにして、隅々まで行き渡る。こうして、「家々の周りにも水がめぐり、柳が茂る」詩の境地となった。道・横町と水とが互いに入り組んで、家と家とを結んでいる。
古城内の玉泉河の水系には、それぞれ特徴ある354本の橋がかかっている。中でも比較的大きい鎖翠橋、大石橋、万子橋、馬鞍橋、仁寿橋、南門橋など、多くが屋根つきの廊橋、石造りのアーチ橋、石板橋で、ほとんどが明や清の時代に造られたものである。
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ナシ族の民族衣装。長い中国服の上からチョッキ、ズボンを身につけ、プリーツスカートをはく。もっとも特徴的なのは背後の羊皮のストールで、二寸ほど大きさの刺繍が施された7つの輪は、「朝は暗いうちに起き、夜は暗くなるまで働く」という意味をこめた7つの星を表している |
町を歩いていると、民居の前につながった3つの池がたびたび目につく。現地の人が「三眼井」(3つの井戸)と呼ぶ、ナシ族独特の発明である。3つの井戸には、上、中、下の区別があり、使用に際して厳しいルールがある。上流の水は飲用水であり、中流の水は野菜を洗うときに使い、下流の水は洗濯用水だという。
古城の民居の建築風格は、ナシ族従来の伝統を失わないと同時に、漢族、ペー族(白族)、チベット族の建築の長所を取り入れ、構造スタイル、芸術性などにおいて、独特の風格を形成している。
家は普通高さ7.5メートルの二階建ての木造で、三階建てのものも一部ある。民居のほとんどが枡形の構造で、四面の壁は土レンガで築かれている。また、灰色の屋根の下には、外廊下がある。構造と廊下の違いによって、明楼など七種類に分けられる。
中華人民共和国成立以後、現地では古城の保護を重視し、獅子山を境に西北部に新市街建設計画を採り入れた。こうして、古城の風貌は完璧に近い形で保存されてきたのである。