百煉鋼柔歴苦甘 終生是鉄誰能堪
長城富士相輝映 不負周公一席談
百錬の鋼 柔らかにして甘苦を歴し
終生是れ鉄 誰か堪えるに能う
長城、富士 相輝きて映り
周公と一席を談ずるに負かず
1958年早春、私は広東省深せんの羅湖橋のたもとへ「日本鉄鋼代表団」を出迎えに行った。
当時の深せんは南部辺境の小さな町だった。河畔には、平屋建ての民家やわらぶき小屋がわずかに点在していただけ。入境手続きをする旅客の長い列と朝日を受けた鮮やかな五星紅旗に、いくらかの生活感がうかがえるだけだった。
この代表団のリーダーが「鉄鋼界の天皇」と称された、八幡製鉄常務取締役(当時)の稲山嘉寛氏(1904〜87年)であった。それは私が北京で任務を受けた際に、初めて知ったことだ。いったいどんな人物か、超人的で豪快な金剛力士のような人だろうか。私にはまったく知る由もなかった。
しばらくして立派な身なりの日本の紳士が、一行を率いて、香港と深せんをつなぐ羅湖橋の向こうから歩いてきた。中背で面長、インテリの教授のような風情だ。彼は私に近づくと突然ピタリと立ち止まり、帽子を脱いで深々とお辞儀をした。当時、若者だった私が驚いたことはいうまでもない。それが日本の「鉄鋼天皇」、稲山嘉寛氏との出会いだった。
この年の春節(旧正月)休暇には、北京飯店中楼会議室で昼夜を分かたず中日双方の鉄鋼取引が行われた。しかし一週間がたっても、取引価格を互いに譲らない膠着状態が続いていた。日本側が断念の色をにじませ、商談はもはや決裂寸前といった様相だった。
この時、稲山氏が私に話しかけた。「周恩来総理にあてた高碕達之助氏(東洋製罐社長、後に岸内閣通産相)の推薦状を持参している。商談もどうやらまとまりそうにないので、周総理をお訪ねしたいのだが……」という。高碕氏と周総理は55年のバンドン会議(インドネシアの都市バンドンで開かれたアジア・アフリカ会議)で知り合っていた。
私は驚き、急いで指導部に報告した。取引の指揮をとった廖承志氏(周総理のもとで対日政策担当、後に中日友好協会会長、全人代副委員長)はそれを聞くとすぐにホテルにやって来て、日本側に政府の意向を伝えた。温厚な廖氏の人柄もあってかそれまでの険悪なムードが一変し、穏やかな雰囲気となった。そして迅速な手配により、全員が中南海の紫光閣で周総理と会見することができたのである。
周総理との会見は長時間にわたって行われ、これにより期限を五年とする長期鉄鋼協定がついに落着した。中国は砂鉄と石炭(原炭)を日本の鋼材とバーターする。輸出総額は双方ともに一億英ポンド。一行は破格の扱いを受けて早朝、中南海での協定調印式に臨んだ(『中日鉄鋼長期バーター協定』締結)。稲山氏一行はその後すぐに空港へ向かい、空路広州へと旅立った。インドでの商談に出席するためだった。同協定締結の電撃的なニュースは、日米の各メディアに大々的に報道された。
何年も後のことだが、私は日本で稲山氏を訪ねる機会が幾度かあった。彼はその度に一冊のメモ帳を取り出して、かつての周恩来総理の言葉を繰り返し話してくれた。とりわけ次の話は、暗誦されるほどだった。
――「得道多助、失道寡助」(道に適えば助けが多く、道にそむけば助けが少ない)。鉄鋼生産は国民経済の基礎です。それは平和のための貢献もできれば、戦争への荷担もできる。我々は、あなた方の鉄鋼が平和の鉄鋼であることを希望します。中国は平和五原則を踏まえて、アメリカを含む世界各国との友好関係の構築を望んでいます――
現在、日本には、アメリカに対して「ノー」と言うべきだという人がいる。そういう時代になったのだ。しかし戦後の日本はアメリカの資金と技術を借りて鉄鋼生産を復興し、発展させた。稲山氏はこれに大きく寄与した。彼の当時の訪中は、アメリカの承諾を先に得てからのものだった。それで周総理のあの結びの言葉が、稲山氏にとっても特別な意味があったのだ。ニクソン米大統領の訪中と『上海コミュニケ』(中米共同声明、七二年)発表後、彼は周総理の言葉を引いて、いつもこう付け加えていた。「周総理の話はなんと素晴らしいことか!その後の国際情勢の発展は、彼が話していた通りになった」
遺憾なことには五八年、この総額二億英ポンドもの大口バーター貿易が、両国の国交正常化を促す役割をもった第四次『中日民間貿易協定』とともに、「長崎国旗事件」(長崎で暴徒が中国国旗を侮辱した事件)の発生で中止させられた。中日貿易はそれから二年半の中断状態に陥る。その後、六〇年代の中国の激動期と日本の高度成長期を経て七一年、稲山氏は代表団を率いて北京を再訪し、周総理の歓迎を受けた。
72年の中日国交正常化後、彼は日中経済協会会長に就任。またすぐ後に「財界総理」と称される経済団体連合会(経団連)会長の任に就き、ほとんど毎年のように日本財界名士の訪中団を組織した。
長年の交渉と熟考を経てついに七八年、中国の石油と石炭を日本のプラント、建設機材と交換する大規模な『中日長期貿易協定』が調印された。それは中国の改革開放や外資導入、共同開発、経済協力の拡大を促す第一歩となっている。
武漢製鉄所の一・七 圧延機設備の導入と上海宝山製鉄所建設についての商談は、中国国内で起こった異論のために何度か遅延されたが、それでも彼は困難にめげず、勇敢に立ち向かった。そしてついに水が溝を成すように、成功の時を迎えた。八五年、大型代表団を率いて空路上海に到着し、宝山製鉄所一号高炉の火入れ式に出席。彼は回顧録の中でこう述べている。「(もともと)文字通りのグリーンフィールドだった宝山が、中国現代化の象徴ともいうべき一大鉄鋼生産基地に生まれ変わりつつある姿を目の当たりにして、まったく感無量であった」と。
稲山氏に最後に会ったのは86年、『中日長期貿易協定』のための定期会合の折だった。私は中国中日長期貿易協議委員会の劉希文主任らを伴って、彼と昼食を共にした。同席したのは、斎藤英四郎(新日本製鉄会長)、平岩外四(東京電力会長)、河合良一(日中経済協会会長)諸氏だ。
その席で稲山、斎藤両氏と私は、30年ほど前に深ロレで初めて会った時の思い出話をした。私は当時、ひどく緊張していたので「鉄鋼天皇」が意外にも親しい間柄の、東京帝国大学(現・東京大学)の大先輩であるとは思い至らなかった、と打ち明けた。彼らはみな笑っていた(斎藤、平岩両氏はその後、稲山氏の後任としてそれぞれ「財界総理」のポストに就いた)。
稲山氏は謙虚で礼儀正しく、柔と剛とを相併せ持っていた。頭から拒否することなく、最後には道理で人を納得させた。これこそ「百錬の鋼、指の絡まる柔らかさの如し」の人と感嘆せざるを得ない。
彼は何度も訪中した。黒竜江省・大慶油田の見学以外はどこへ行くわけでもなく、観光を楽しむこともなかった。暇ができると仲間を探しては囲碁を打ち、マージャンを楽しんだ。初訪中の時には私にそっと耳打ちしたものだ。「トランクの中にマージャン牌をしまっているのだが、北京では、果たして打ってもいいのだろうか?」。お金を賭けなければ大丈夫ですよ、というと、彼はいたずらっぽく「少しだけね……」といって目を細めた。
八〇年代初め、駐日中国大使館での任にあたった時、私は北京の中日合弁ホテル「長富宮飯店」の調印式に出席、稲山氏も出席していた。万里の長城と富士山にちなんだホテルの命名に、彼はたいそう喜んだ。レセプションでは、最もお気に入りの「鉄」の「訓詁」を話してくれた。いわく、鉄の繁体字(正字)「鐵」は「金・王・哉」の字からつくられる。これは「鉄」が五金(金・銀・銅・鉄・錫)の王であることを示す。ある人は、略字の「鉄」は王座を失った(金失王哉)という。だが、しかし「鉄」は「依然として五金のひとつである」――と。
まさに「終生是れ鉄」の「鉄鋼天皇」たるに恥じない人物だった。 (筆者は林連徳、元中国対外貿易部地区政策局副局長、元駐日中国大使館商務参事官。) |