深宵幾度細談心 泪洒綉金へん下襟
処地設身唯尽瘁 胸懐信愛報知音
深宵いく度 談心すること細やかに
下襟に泪を灑ぐ『綉金へん』
「処地設身」 ただ瘁を尽くし
信と愛 胸に懐きて知音に報ゆ
*談心=心を傾けて話す
*処地設身=地のある処に身をしく
*瘁=労
岡崎嘉平太氏(1897〜1989)は1989年、最後の訪中後に他界された。92歳とご長命だった。階段で転倒しさえしなければ、百歳の上まで長生きされたろうに、と惜しまれた。
彼は若い頃「アジア主義者」だった。戦後は全日本空輸(全日空)の経営再建などに貢献して、産業界の名声を博した。60年代からは松村謙三(鳩山内閣文相)、高碕達之助(岸内閣通産相、東洋製罐社長)両氏の宿望を引き継いで、『LT貿易』(廖承志・高碕達之助両氏の覚書に基づく貿易)と中日国交正常化の促進に力を入れた。周恩来総理とひざを交えて深夜まで語らうこともあり、総理のその実直な姿には深く感銘を受けていた。晩年は大手企業からの招聘もあったが、辞退して中日友好のために尽力した。人格者で英知にあふれた彼は、商売を辞して政界入りすれば必ず首相の座を射止められると、ある日本の政治家が評していた。
私は60年代から、廖承志(中日友好協会初代会長、後に全人代副委員長)、劉希文(後に中国対外貿易部副部長)、孫平化(後に中日友好協会会長)、呉曙東(後に駐日中国大使館商務参事官)ら幹部について、岡崎嘉平太、古井喜実(池田内閣厚相)、竹山佑太郎(鳩山内閣建設相)、河合良一(後に日中経済協会会長)諸氏に会うチャンスに恵まれ、得るところ大だった。岡崎氏は周総理より一つ年上だが、よく口ぐせのように「周総理を生涯の師としたい」と言っていた。総理は危険に直面するといつも、自分の命を考えるより先に同志を救っていた。そのことに深く感動した彼は「(周総理は)もはや偉人の域を超えて、菩薩ですよ」と感慨深げに語っていたものだ。
松村謙三、高碕達之助両氏は生前、念願の中日国交正常化(72年)をその目で見ることはできなかった。が、周恩来総理の特別な計らいにより、直行便で北京に到着した岡崎、古井氏らは中日国交正常化祝典に出席した。彼らが先人の遺影を抱いてタラップを降りた時、人々は万感胸に迫って言葉をつまらせていたものだ。
七三年、『LT貿易』は歴史的な使命を果たした。その後、岡崎氏は稲山嘉寛氏(日中経済協会会長、経団連会長)の補佐として日中経済協会常任顧問のポストに就いた。自ら窓が北西にある部屋を顧問室としたが、理由を尋ねられると「北京がはるかから望めるからだ」と答えていた。亡くなるまで毎年、訪中するという周恩来総理との約束も、固く守り通した。
全日空顧問を兼任した時は例年、顧問費で中国の友人を日本の景勝地へ招いた。それは「投桃報李――周総理のご恩に報いるためです」と意思表示していた。私も岡崎ご夫妻と、八丈島や沖縄で楽しい休暇を過ごしたことがある。
八丈島には、秦の始皇帝の命により、不老不死の薬を求めて日本に渡ったとされる徐福の伝説が語り継がれていた。民俗館の老女が、名産「黄八丈」の機織りを実演してくれた。しかし天気はあいにくの暴風雨。飛行機が離陸不可能だったため、予定を延ばしてもう一泊した。出発する前、彼は空港側から題辞を求められた。記念簿に揮毫したのは「設身処地」の四文字。周総理を思い出し、「総理はまず人のために物事を考えた。人の思いもつかないことまで、先に手配されたのだ」と繰り返し語っていた。
沖縄県那覇の旅では、女性ガイドの仲間さんが親切丁寧に案内してくれた。マイクロバスが観光地に着くたび、土地の風物や伝説を紹介したり、民謡を歌ったりと、その行き届いたサービスは、すこぶる好評だった。中国の観光事業も、これを参考にしたらどうかと実に感心したものだ。中国国際旅行社を度々利用していた岡崎氏も、中国の観光業に関心を寄せていた。旅の別れに際し、仲間さんの依頼で私が贈った言葉は「春風待人、秋霜律己」(春風のように人と接し、秋霜のように己を律する)。続いて皆で、彼の詩句を鑑賞した。
「信為経、愛為緯、交織人間美景」(信はたていと、愛はよこいと、織りなせ、人の世を美しく)
周恩来総理が亡くなった年の秋のことだ。岡崎ご夫妻は南方へ旅行する前、北京に立ち寄り、人民英雄記念碑に花輪を捧げた。別の日にはまた、公園で幼稚園の園児たちに出会った。ある女の子が私たちのために『綉金リメ』(この年に亡くなった毛沢東主席、朱徳全人代常務委員会委員長、周恩来総理をしのぶ歌)を歌ってくれたが、園児たちは皆、悲しみのあまり泣き出した。見ると彼も、むせび泣いていたのだった。 (筆者は林連徳、元中国対外貿易部地区政策局副局長、元駐日中国大使館商務参事官。)
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