吉村孫三郎氏と嵐山詩碑

  白寿京都賀吉翁  人如玄鶴語如鐘
  なん(言に巨)知合十垂眉処 
  将吊嵐山花雨中   白寿 京都に吉翁を賀(いわ)い
  人 玄鶴の如く、語り 鐘の如し
  なんぞ知る 眉を垂れ、合十する処を
  将(まさ)に吊(とむら)う 嵐山 花雨の中

  *合十=合掌のこと

  京都に暮らした吉村孫三郎(よしむらまごさぶろう)氏は1989年8月4日、105歳の天寿をまっとうされた。早くからシルク業界に身を投じ、京都実業界の重鎮となった人物である。戦後は、家族を率いて日中友好と貿易の事業に携わり、長年、日本国際貿易促進協会京都総局会長を務めた。55年に日本実業団のメンバーとして訪中して以来三十年余り、高齢にもかかわらず毎年のように中国を訪れた。また小林隆治氏(現・日本国際貿易促進協会副会長)らと、初訪中を記念した「五五会」を発足し、自ら座長を務めて日中友好活動を展開した。

  日中平和友好条約締結(78年)を記念するため、同年10月に「嵐山周恩来詩碑」の建立を実現、翌年四月には周恩来総理夫人のケ頴超さん一行を、その除幕式に迎えた。詩碑は風光明媚な京都・嵐山の亀山公園に建てられた。碑面には、若き日の周恩来総理が、日本留学中の19年4月5日に詠んだ『雨中嵐山』の詩が刻まれている。廖承志氏(中日友好協会初代会長)の書写によるものだ。この詩碑も京都の名所の一つとなった。

  中国からの訪日団は、京都に向かう度に周恩来詩碑を訪れ、吉村一家の歓待を受けたものだ。私が初めて彼の家に招かれたのは55年、雷任民・中国対外貿易部副部長が率いる貿易代表団のメンバーとして、日本を訪れた時だ。以来、京都に行く度に、必ず彼の家を訪ねた。邸宅には四季折々の眺めも美しい日本式庭園があり、私の心に深い印象として刻まれている。

  1984年、吉村氏の「白寿」(99歳)を祝うため、中日両国の関係者が京都国際会議ビルに集まった。彼はかくしゃくとして挨拶に立ち、その声はまるで鐘のように響き渡った。年齢を感じさせぬ若々しさに、だれもが深く感心したものだ。

  87年、訪日団の一員として嵐山を再訪した時のことだ。彼は車椅子で出迎えてくれ、握手の時に私の顔をじっと見つめて「あなたは55年からの古い友人だ」と何度も何度も繰り返した。そして私たちが詩碑を見終わるまで、ずっと山のふもとで待っていてくれた。別れの時、車窓を開けた彼が、頭(こうべ)を垂れて合掌したのがふと見えた。私も思わず手を合わせ、それを見送っていた。私はなぜか言い知れぬ寂しさを覚えたのだった。二年後、彼は病がもとで他界されたが、あの姿が最後の別れになろうとは、どうして知ることができただろうか。

  92年の春、雷任民氏に同行し、37年ぶりに吉村邸を再訪して長女・吉村啓子さん一家の温かいもてなしを受けた。彼の遺影に黙祷し、生前よく散策していた庭を歩いてみた。その景色は変わらなかったが、春の日は夢の如し、桜は散り、人もまた逝く。この世の移り変わりのはかなさを思い、感慨で胸がいっぱいになったのである。

  最近、耳にした話だが、吉村邸はすでに譲渡されたのだという。しかし、子や孫の世代が故人の遺志を継いで、日中友好のために尽力している。

  あの日、雷部長夫妻に付き添った吉村啓子さんも、嵐山詩碑を仰ぎ見ていた。いまにも雨が降り出しそうな、春の日の黄昏だった。私は碑面の詩句や、後ろに刻まれた題辞を改めて見つめ直した。そして思った。詩を詠んだ人、書写をした人、碑を建てた人、除幕した人……。皆、この世を去ってしまったが、彼らが生涯追い求めた理念と身を尽くした行いは、いつまでも消えるものではない。

  詩碑は語っている。
 
  人間世界のあらゆる真理は、 求めるほどにあやふやになるが、その中に偶然一点の光明を見出せば  真にいよいよ麗しい。   (筆者は林連徳、元中国対外貿易部地区政策局副局長、元駐日中国大使館商務参事官。)

 
人民中国インターネット版
  本社:中国北京西城区車公荘大街3号
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。