今、私の手元に一着のTシャツがあります。これは中央美術学院と東洋美術学校(東京都新宿区)との文化交流事業の一環で日本に赴き、同校で働きながら学んだ日々の中で残した、私の最も大切な作品と言ってもいいものです。ここにデザインされているのは、決して忘れることのできない日本の友人たちです。
その日、職員室には笑い声が溢れていました。普段は忙しく働いている同僚たちが、しばし仕事の手を休め、私のTシャツを見てくれたのです。
このTシャツを作ったのは、同校の先生から「授業でTシャツのデザインを教えている」と聞いたのがきっかけでした。コンピューターを使ってデザインした図案をTシャツに印刷するというもので、「特に厳しい課題もないから、参加してみない?」と聞かれれば、遊ぶことにかけては貪欲なこの私、即座に「やります、やります」と答えたのでした。
当初は単純に「自分のためにすごく個性的なTシャツを作ろう」と考えていただけでした。しかし、日本を離れる日が近づくにつれ、楽天的な私も感傷的になってしまい、いつも一緒に過ごしていた同僚たちの顔がふと脳裏をよぎることが多くなりました。そんな中で作ったこのTシャツは、私の日本生活を締めくくるメッセージになったのです。
Tシャツの中央上部にデザインした、青いジーンズに白シャツ姿の人物は、高沢先生です。職場の人たちはみんな毎日違う洋服を着て出勤していましたが、彼だけはいつも白シャツにジーンズといういでたちだったので、とても目立っていました。それは彼の制服と言ってもいいほどで、実際、彼は白いシャツとジーンズを職員室のロッカーにしまっておき、出勤すると着替えていたのです。不思議だったのは、毎日着ているにも関わらず、彼のシャツはいつでも真っ白で全然不潔な感じがなかったことです。汚れないよう、よほど気をつけて着ているとしか思えず、「これが日本人特有の細やかさか」と、私に実感させてくれたのが彼でした。
東京は私にとってまったく未知の世界でしたが、それだけにこの町に対する興味にも強いものがありました。しかし、北京とは違い、くねくねと入り組んだ東京の道を歩くことは、私にはかなり厄介なことだったのです。そんな時、いつも助けてくれたのが高沢先生です。どんな変わった名前の住所でも、彼は分厚い地図からさっと目的地を探し出し、コピーして目的地に印をしてくれました。地図が何ページかにまたがっているときにはコピーを張り合わせて分かりやすくし、目的地までの道のりに線をひっぱってくれたりもしました。「そんなに感激するほどのことじゃない」という人もいるかも知れませんが、もし見知らぬ駅の出口に出たとき、彼の作ってくれた地図を広げてみれば、きっと「感動」という言葉だけでは言い表せない気持ちになるはずです。
ちょっと手間暇をかけるだけで、ほかの人はずいぶん助かるものだ。そんな発想は、東京という町の都市建設にも反映されていました。これも地図に関する細かい配慮なのですが、私にとって何よりもありがたかったのは、街角の地図に記されていた「現在地」という赤い印でした。これさえあれば、道に迷うことはなかったのです。
中国に帰ってきてから、ある大規模な展覧会に行きました。入り口には会場全体の地図が用意されていましたが、いくら眺めても、私にはどこをどうやって進めばよいのかさっぱり分かりませんでした。今、自分が一体どこにいるのかが分からなかったからです。周りには私のように不満を感じている人はいないようでしたから、これはきっと私の方の問題なのでしょう。でも、公共施設は誰にでも分かるようなシンプルな設計であるべきだと思いますし、私のような方向音痴でも迷わないような配慮がされていれば、ほとんどの人が苦労しないで済むはずです。
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日本での生活の中で一番感謝すべき人と言えば、長池先生でしょう。Tシャツでは、一本の青い線で彼のイメージを表してあります。とても陽気な人で、その表情から微笑みが消えたことはありませんでした。彼はインターネットにアクセスして中国の友人と連絡が取れるよう、私のパソコンをセッティングしてくれました。Tシャツの青い線は、この時彼がつないでくれたパソコンのコードです。
日本に行く前、友人たちはみんな言いました。「日本人はすごく冷たいよ。特に男はみんな男権主義的で、他人のことなど心配したりしないよ」と。そんなイメージを変えてくれたのが、長池先生でした。あれは東京に着いたばかりの頃だったと思います。私は職員室に用意された自分の机の前に座って、周りの人たちが忙しそうに働いている姿をぼんやりと眺めているしかありませんでした。時々、私に何か話し掛けてくださる先生もいたのですが、何を言っているのかさっぱり分かりません。当時、「こんにちは」「さようなら」くらいしか話せなかった哀れな私は、ぼう然としながら適当に相づちをうつしかなかったのです。逃げ帰るようにして寮に戻った後、一人で孤独感にさいなまれていた時、「トントン」とドアをノックする音が聞こえてきました。「誰だろう?」と思って開けてみると、長池先生が立っているではありませんか。その隣には若い女性がいて、きれいな中国語で私に話し掛けてきたのです。聞けば、彼女は中国からの留学生で、私の話し相手になるように、と長池先生が連れてきてくださったというのです。しかも彼女は、私が学校でも寂しい思いをしないよう、職員室にも顔を出すように言われている、とのこと。本来、学生はやたらに職員室に出入りできませんから、これは本当に特別な配慮なのです。こんなにしてもらって、誰が「日本の男は他人の心配をしない」などと言えるでしょうか。
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学校には、眼鏡をかけている先生が三人いました。乙坂先生、小野先生、小泉先生です。乙坂先生は決して若いとは言えないお歳でしたが、同僚の先生方からは「現代青年」と呼ばれていました。確かに、さっそうと歩く彼の姿は若々しさに溢れていましたし、性格の方もさっぱりしていて、イメージの中の日本人のように曖昧な感じがなく、自分の気持ちを素直に顔に出す人でした。そう言えば、Tシャツにデザインを貼り付けたとき、手助けしてくれたのも彼でした。日本の人はあまり他人の事に干渉しないと言われますが、乙坂先生はどうやら他人のことをほうっては置けない、ちょっと「おせっかい」な人のようでした。ある日、彼と話をしていた私は、何かのついでに「○○先生の授業を聴講したいのですが」と言いました。すると彼はすぐさま、その先生の授業の時間や、先生と連絡をとる方法などを教えてくれました。おかげで私はその先生の授業に出ることができたのですが、いざ授業が始まると、先生が何をお話されているのかさっぱり分かりません。その時、教室のドアがふと開き、私のよく知っている人が入ってきました。椎名さんという中国語の話せる女性で、彼女は私の隣に座り、先生のお話で私が聞き取れないところを教えてくれたのでした。乙坂先生が私のことを心配して、椎名さんに「もし時間があったら助けてあげて」と言ってくれたのだそうです。「雪中に炭を送る」とはこのことで、こんなに人の心を打つ「おせっかい」もなかなかないと思うのです。
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日本に行く前、日本の女性がどうして結婚を機に仕事を辞めてしまうのか、私には理解できませんでした。女性は良妻賢母でさえあればいいと言うのなら、その社会的地位は決して高いものではないだろうと思っていたのです。そんな私が、小坂恭子さんという、やはり結婚と同時に仕事を辞めた女性と出会い、友達になれたのは不思議な縁でした。
東洋美術学校で教師をしていた彼女は、退職したとは言え、とても忙しい毎日を送っていました。学校ではまだ一部の授業も持っていましたし、毎週茶道の教室にも通っていました。私も彼女に誘われて茶道のけいこに出かけたのですが、訓練をしたことのない人間にとって、半日中正座をするというのは辛いことです。足はしびれて感覚がなくなるし、目もチカチカしてくる有り様でした。その教室には、もう十年もこうして茶道を学んでいる人もいるというから驚きました。日本の主婦たちがなぜそんなに忙しいのかが良く分かった気がしました。
主婦たちがこうして忙しく過ごしているのも、暇を持て余してつまらないことに手や口を出すより、社会の安定のためにはいいのかも知れません。それでも私はやはり中国の女性で良かったと思います。あんなに辛い思いをするのは、もうこりごりです。それでもよくよく考えてみると、心静かに茶道という雅やかな儀式に取り組むのも悪くないような気もします。暮らしの中では、時にそんな儀式が必要になることもあるはずですから。
小坂さんとの思い出で最も忘れがたいのは、二人で手すきの和紙を作る工房を見学に行ったことと、パラグライダーで空を飛んだときのことです。
私たちが静岡県内の農村にあった紙作りの工房に着いたとき、数人の職人さんたちが黙々と仕事をしていました。そこには、遠い昔から変わらないようなのどかさがありました。職人さんの中に、九十歳は超えていると思われるおばあさんがいました。つぶらな瞳をしたおばあさんで、私たちの方に笑いかけると、目がどこかに消えてしまったかのようでした。この工房で生産しているカーテン、筆立てなどは、すべて手すきの和紙で作ったもの。その美しさは、言うまでもありません。花や草を和紙の中にすき込んだ「花入紙」という和紙があり、私も何本かの短冊を作ってみましたが、どうやら欲張って花を入れすぎてしまったようです。字を書く場所がなくなってしまったのですが、こんなに美しい和紙なら、あえて字を書かなくてもいいでしょう。
小坂さんはまた、パラグライダークラブの会員でもありました。彼女のおかげで、私はパラグライダーに挑戦するチャンスに恵まれたのです。山頂のスタート地点では、いよいよ空を飛ぶのだという興奮もありましたが、それ以上の恐怖と緊張で体がガチガチでした。それでも大空に飛び上がり、眼下の緑と、その間に見える色とりどりの建物を眺めたときは、心の底から「日本の緑化はすばらしい」と思いました。中国に帰ってからも、割り箸を手にするたびにあの光景が思い出されて「あの緑がいつまでも残ってほしい」と思うのです。
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東京は雨の多い町です。そんな雨の日、喫茶店で窓の外の風景を眺めながらコーヒーを飲むのが好きでした。窓の向こうには絹糸のような雨がそぼ降り、テーブルの上のカップからは暖かな湯気が立っている。ぼんやりと物思いに耽っていると、窓の外を黄色、薄い紫や緑、水色など、色とりどりの傘が通り過ぎていきます。その一つひとつが、この場所にぴったりの色だな、と思えます。北京で同じ色の傘をさしたら
、鮮やかすぎて、きっと周りの景色にそぐわないでしょう。 いくら雨の景色が好きとは言え、傘を持っていない時に雨が降り出したらやはり喜んでいるわけにはいきません。ある日、私はちょうどそんな状況になってしまい、学校の出口で「困ったなあ」と、恨めし気に空を見つめていたのです。その時、ふと目の前に人の影が現れ、大きな緑色の傘が開いたのです。職員室ではあまりお話することのなかった高木先生でした。私に微笑みかけながら「よかったら、御一緒に」とおっしゃってくださったとき、私がその緑色の傘をどんなに愛しく感じたことか。Tシャツにデザインした傘が、あの時の傘と似ているかどうかは分かりませんが、私の心の中で一番美しい傘であることに違いはありません。「傘」という字は中国語の発音で「散」に通じるので、中国人はあまり傘を好みません。でも、私にとって「傘」は「聚」(集まる・寄り合う)の象徴なのです。それを開けば、新しい世界が広がるような気がするのです。とっても暖かな世界が…。(2001年2月号より)
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