【放談ざっくばらん】


盧兄さんの小さい部屋

                              湯田美代子(NHKディレクター)


 中国の天津に住む恩師が重病だと聞いた私は、急いで電話をかけました。恩師、盧鼎武謳カは、現在80歳過ぎ。半身不随で話しづらそうな声に、胸が痛みました。お元気だった頃の盧先生はとても快活な方でした。

 今から14年ほど前、天津に留学していた私は、町の合唱団に参加していました。盧先生はその合唱団の歌仲間。団員は皆、盧先生のことを「盧大哥(盧兄さん)」と呼んでいて、私もまねてそう呼んでいました。中国では自分よりも50歳も目上の人を、決して「大哥」と呼ぶことはありませんが、私はいわば「訳のわからない外人」特権に甘え、「盧大哥」と呼ばせてもらっていました。

 かつて租界地だった天津は、今も洋館の並ぶ町です。盧大哥の家は、洋式の共同住宅の入り口にある守衛部屋でした。文革中に以前住んでいた家を没収され、ここに来たそうです。

 ベッドと机が置ける二畳半ほどの「小屋」でしたが、ここにはいつも十代の若者たちが足を運んでいました。盧大哥の本職はエンジニアでしたが、若い頃、日本の京都大学で学んだことがあり、日本語も英語もとても堪能でした。それで仕事の合間を見つけては、やる気のある若者たちに語学を教えていたのです。「小屋」には二人しか座れないので、授業は個人レッスン。自分の時間になると、生徒たちは一人ずつ部屋に入るというやり方でした。私も毎日のように「小屋」に通い、中国語の作文を教えていただいていました。生徒たちから一銭も授業料をとらない盧大哥に、「どうしてここまでしていただけるのか」と感謝の気持ちでいっぱいでした。

 ある日のこと、授業中に盧大哥はこんなお話をされました。

 「僕には双子の弟がいたのですが、幼かった頃、まだ若かった周総理が私たちを両腕に抱き上げてくれたものなんですよ」。その時は漫然と聞き流したのですが、後になってどうしてこの話をもっと詳しく聞かなかったのか、悔やまれました。

 1998年は周恩来生誕百周年の年でした。周恩来が少年時代を過ごした天津にはこの年「周恩来・ケ頴超記念館」が建てられました。

 「盧大哥と一緒に記念館へ行き、周恩来の話を聞かせていただこう」  そう思い立ち早速、天津へ。盧大哥に同行をお願いして記念館へ赴きました。記念館に着くと入り口の前は人、人、人……。周恩来ファンの列に加わること一時間半、やっと館内に入ることができました。

 記念館の中には、周恩来の肉声(録音)が聞けるコーナーや、ろう人形を配した当時の様子の再現セットなどがありました。中でも驚かされたのは、豊富な写真資料です。周恩来自身とそれに関わった人たちの写真が、実に丁寧に集められていました。写真に見入っていると、盧大哥が小さな声で話しかけてきました。

 「この写真の人は、僕の母方のおじいさんなんです」  写真パネルは、現在の天津・南開大学の前身「南開学校」の外観に、その校長・張伯苓氏と創設者・厳修氏の顔写真がはめ込まれたものでした。盧大哥のおじい様は、この厳修氏だったのです。

 厳修氏は1860年生まれ。梁啓超をして「戊戌政変の原点」(注)といわれた人物でした。36歳の時に教育改革を掲げ、清の光緒帝に科挙試験の廃止を申し入れます。しかし戊戌変法は失敗に終わり、厳修氏は官を辞して天津で私塾を開き、理想とする教育を実践しました。たった五人の学生に対し、自ら理数・英語の授業を行うという私塾でした。

 しかしその門を叩く若者が絶えなかったため、ついに1904年、南開学校として再編。天津の町に開かれたこの学校は、欧米流の近代教育をめざすことで知られるようになりました。13年、家族と共に天津に移り住むことになった周恩来は、この南開学校を受験します。周恩来は大変優れた文章力を持つ少年だったそうです。

 「僕のおじいさんは、生徒たちの作文の添削をしていたのですが、ある時、周恩来の作文に感服して『君は将来、宰相になる男だ』という評価をつけて返したことがあると聞いています」。周恩来が15歳から19歳頃の話です。厳修氏は、周恩来を度々自宅に招き、自分の娘との結婚を願い出るほど気に入っていたそうです。

 17年、南開学校を卒業した周恩来は、日本に留学します。20歳の周恩来はそこでマルクス主義に傾倒していきました。「周恩来が傾いた社会主義思想は、僕のおじいさんの考えとは相反するものだったんです。けれども五四運動に参加した周恩来が投獄されると、圧力をかけて出してやり、また見聞を広めるためのヨーロッパ留学に協力するなど、援助をし続けたんです。必ずこの国を担う人間になると言ってね」

 周恩来が亡くなって25年。今なお周恩来を慕う人たちで記念館はあふれています。この周恩来には、少年時代からその才能を見込み、大きく羽ばたくよう支援を続けた人がいました。それが盧大哥のおじい様、厳修氏でした。

 後に周恩来は彼の人となりを振り返り、こんな詩を記しました。

 為人如一杯清水
 純潔無染
 把一生貢献給了
 教育事業

 天津を発つ日の朝、私はもう一度、盧大哥に会いたくて、飛行場に向かう車をUターンさせて、懐かしい「小屋」に顔を出しました。ちょうど朝の7時、突然の来訪に驚いて立ち上がった盧大哥の横には、教科書を広げて座っている少年がいました。

 エンジニアが本職の盧大哥。その人がなぜ自分の時間をさいて若い人たちを教えるのか、私はその日の朝、初めて理解できたのです。「清らかな心で一生を教育に捧げる」、盧大哥は厳修氏の志を引き継ぎ、実践されていたのです。14年前、私もこの「小屋」で、その志の恩恵を受けた一人だったのです。

(注)「戊戌政変」は、清朝末期の近代的政治改革運動。戊戌変法、百日維新とも呼ばれ、干支で戊戌の年1898年(光緒24年)に起こり、百日あまりで失敗に終わった。変法とは、具体的には君主専制から立憲君主制に改めることだった。理論的指導者は康有為。梁啓超は清末・民国はじめの政治家で、戊戌変法の際、康有為を助けて新政推進に尽くした。(2001年6月号より)