【放談ざっくばらん】


村上春樹は中国でなぜ読まれるのか

                             青島海洋大学外国語学院教授 林少華

村上春樹の作品を翻訳する筆者

 村上春樹の『ノルウェイの森』が出版されたばかりのころ、私は日本にいた。当時の私は、中国と日本の古詩の比較をテーマとしていたから、翻訳には興味がなかった。帰国してから、私の文章の調子が『ノルウェイの森』の翻訳にきわめて適している、と漓江出版社に推薦してくれる人があり、私はそこで初めて真剣に、村上春樹の原著を読んだ。読んでみると、彼の作品は本当に私の気持ちにぴったり来た。そこでついに翻訳を始めた。

 これから始まって一冊、また一冊と、翻訳を一度始めたら収拾がつかなくなった。すでに中国で出版されたのは六作品である。『ノルウェイの森』(中国語の題名は『ナイ威的森林』)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(『世界尽頭與冷酷仙境』)、『ダンス・ダンス・ダンス』(『舞!舞!舞!』)、『羊をめぐる冒険』(『尋羊冒険記』)、『ねじまき鳥クロニクル』(『奇鳥行状録』)及び短編集の『象工場のハッピーエンド』(『象的失踪』)である。ほとんどの作品が読者に歓迎され、好評を博した。

 中でも、『ノルウェイの森』はこれまでにもっとも売れた日本の文学作品で、累計ですでに40万冊以上印刷された。この数字は、これまで中国で発行されたいかなる日本の小説をも遥かにしのいでいるばかりでなく、どの外国の現代小説よりも売れ、奇跡的な販売記録を樹立したのだ。日本や外国の現代小説が、十年もの間売れ続け、依然その勢いが衰えないということは、これまでおそらくなかったことだろう。

 ここから引き起こされた「村上春樹ブーム」は、いまも過熱するばかりである。村上春樹を読むことが、中国の都会の若者にとって一種のファッションとなった。その影響で、若者たちが日本文学を新しい目で見るようになり、また、日本の若者たちの生活や日本文化に対する興味を引き起こした、と言ってよい。こうした点を考えて、上海訳文出版社は今年と来年、17巻の『村上春樹文集』を出版しようとしている。

 中国の読者はなぜ村上春樹ばかりを寵愛するのだろうか。十数年来、村上作品を翻訳してきて私が、自分で体験したことや考えたことを基にして、それに読者からの手紙に書かれた感想や見方を加え、簡単にその原因を紹介したい。あるいは、中国人がどのように村上作品を見ているか、を紹介すると言ってもよい。これを二点に分けて論じてみよう。 風が水面を渡るような文章  まず、村上作品独特の言葉遣いや筆の運び、それに文体が、中国人の読みたいという気持ちを引き起こしたことだ。

 中国は昔から「詩文大国」を任じ、とくに文章の彩りや技巧を重視してきた。「二句をつくるのに三年かかり、ひとたび吟ずれば両眼から涙があふれる」といった唐の賈島のような文人墨客は、どの時代も枚挙にいとまがない。おそらくこうした文化的遺伝子のせいで今日までずっと、中国人は文章や作品の水準や風格に対して、ことのほか敏感であり、重箱の隅をつつくようなことをしてきたのだ。

 もっとも称賛される文章は簡潔、明瞭な筆致である。(これは中国語の最大の優れた特徴でもある)。これに比して「粘着語」に属する日本語には、こうした優れた点はない。だから、中国語に翻訳された日本の文学作品を中国人が読み始めるときまって、どろどろとした、すっきりしない感じを受けるのだ。(もちろん、翻訳の拙さが原因である場合も排除できないが)。たとえ川端康成のような大文学者の作品でも、文章の風格から言えば、普通の中国人が読み続けていくのは大変苦しい。これはたいてい、川端文学をはじめすべての日本文学が、中国ではかなり少数の人にしか興味を持たれない原因の一つとなっている。多くの読者からの手紙では、作者の名前を見なくとも、ほんの数行読めば、それが日本文学だとわかってしまう、と書いてきている。日本文学の、あのねばねば、べたべたした感じは、読者には実に耐えられないのだ。

 村上春樹の賢いところは、彼が最初から、伝統的な日本語の持つこうした先天的な弱点を意識していて、洗練された、簡潔な言葉の使い方に格別の注意を払っている点だ。彼はかつて取材を受けた時、こう語っている。

 「僕はいろんな言葉のまわりについていた付属物を洗い流しちゃって、それを洗い流したままで抛りだしたような気がするんです」

村上春樹の作品は、中国
でよく売れた後、多くの
メディアの注目を集めた

 その結果、村上春樹は成功した。彼の書き方は明らかに他の日本の作家とは異なっている。このため中国の読者の眼には、彼の小説は日本の小説ではないように見える。そして日本の小説臭さが希薄であるからこそ、中国の読者が自然に彼の作品を受け入れ、たちまちその中に引き込まれてしまうのである。

 多くの人たちはみな、村上の小説がもっとも人を引きつけるのは、言葉に独特の風格を備えているところにあり、言葉の簡潔さ、流暢さ、ユーモア、節度ある抒情的な書き方が、読者に彼の作品を読む特有の喜びを与えるのだ、と言っている。『ノルウェイの森』を百回以上読んだという女子高生がやって来て、ほとんど一字一句間違えずにすらすらと、小説の一節を暗誦できると言った。

 さらに彼の作品にはユーモアがあることだ。普通の中国人の眼から見ると、日本人はユーモアのセンスに欠け、いつもまじめで、きちんとしている。日本の小説にもこうした傾向がある。だから中国人が日本の小説を読むと、圧迫感や重苦しさ、息苦しく、暗くて、意気消沈するような感じに、いつもとらわれる。さらに、想像力に乏しく、現実生活の中の、とるに足らない些細なことに拘泥して、くどくどと述べたてる。中国の普通の読者にとっては、これは耐え難いことで、最後までなかなか読み切れないのだ。

 しかし村上春樹は違う。彼はその筆の中に、感情をころしたユーモアと独特で飛躍的な想像力を持っている。これは比喩を使った手法の中に、十分表れている。思いつくままに、二つの例を挙げて見よう。

 「どれくらい私のこと好き? と緑が訊いた。『世界中のジャングルの虎がみんなバターになってしまうくらい好きだ』と僕は言った」

 「緑は長いあいだ電話の向こうで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているような沈黙がつづいた」

 このような比喩は、どの作品にもみな使われていて、絶えず独創的である。おそらく村上春樹はこうした点を、日本の伝統文学よりも欧米の現代文学作品から学んだのではないか。そしてこのような比喩は確実に、中国の読者の耳目を一新させ、ときには驚喜させるのだ。日本にこんな奇抜で優れた文学作品があったのか! と。とくに若い女の子は、胸をときめかせ、村上春樹の小説は「チョー クール(すごくかっこいい)」と思うのだ。一部の人は文章や著作の中で大なり小なり「村上文体」を模倣しはじめた。

 つまるところ、中国の詩文は昔から装飾性を重んじ、誇張して想像力をかき立てるやり方を好んできた。例えば「白髪三千丈」という表現は、日本人には訳の分からないものに見えるかもしれないが、中国人にとっては、きわめて良くわかる表現なのである。だから中国の読者にとっては、堅苦しくてユーモアや想像力に乏しい文章を受け入れるのは容易なことではないのだ。村上春樹の、簡潔で洗練された、とらえ所のない、知性豊かな、ユーモアに富む、ハッとするような文章は、まさに中国人の好みにぴったり合っていて、読みはじめるとまるで風が水面を渡るような感じを受けるのである。 共感呼ぶ孤独と無力感  次に、村上作品に特有の都会人の感覚が、中国の読者の共鳴を引き起こしたことだ。

 村上春樹の小説の主人公はこれまで、何かを努めて強調しようとはせず、社会の現実に面と向かって批判することもきわめて少ない。ほとんどいつも、ただ降りしきる小雨の中で、あるいは西洋音楽が響く中で、静かに黙々と自己の魂を見つめ、穏やかに、悠々と、優雅に、自由の中にも節度を持って、都会人の感覚を主張し、彼らの孤独、失意、無力感、空っぽな心の世界を主張しているにすぎない。日本の評論家、川本三郎はまさにこう言っている。

 「村上春樹は処女作以来一貫してシンプルにそしてリアルにこのことだけを言い続けていた。『人生は空っぽである』」

 ただし、村上春樹は一般的な、通り一遍の主張にとどまってはいない。彼の筆にかかると、孤独や失意、無力感、空虚さはもはや、天を恨んだり人をとがめたりするための不平や悲しみを表すものではなくなる。さらにまた、社会や他人にその発散の道を求めることもなく、内在する理知を働かせて、これを優雅なムードや、なんとも言えないすばらしい境地に昇華させ、場合によってはこれを愛でて審美する対象にさえしてしまうのだ。

 このように、孤独や無力感をうまく扱うところが、私のもっとも好きな、心の躍るところだ。孤独とか空虚とかいう類のものは、世間の眼から見れば価値のないものであり、否定すべきものだが、村上春樹の作品の中では、価値のある、肯定すべき要素になってしまう。実はこれは、作者が都会人のために提供した一種の生活のモデルであり、人生に対する態度なのだ。

 私が受け取った多くの読者からの手紙からみると、村上春樹が好きな人には、とくに年齢による差はない。その原因は、村上春樹が提示するこうした人生への態度が、現在の中国人、とりわけ都会の若者の日常感覚と、心の中の深いところにある感受性とにぴたりと一致したところにあるからだ。いまの中国の経済発展段階と社会の雰囲気は、村上作品の背景となっている日本の6、70年代や80年代とかなり似通ったところがある。改革・開放政策の始まる前や始まったばかりのころ、中国人の物質生活はかなり逼迫していて、文化生活もあまり多様化していなかった。人々の精神生活は単調で貧しく、生き生きとして個性豊かな、豊富多彩なものを、心や身体で体験することは少なかった。

 そしていま、大多数の都市住民の物質生活は「小康(まずまずの)状態」になった。さらに政治的環境は緩やかなものになり、民主化の進展は加速している。人々の眼は、外部の世界の輝かしさを羨望することから、心の中の世界で、ものごとを賞翫したり、省察したりする方向に変わり始め、生命の価値を悟ったり、把握したりする方向へ向かい始めた。

 しかしそれとともに、市場経済の早いリズムと大きな圧力が、従来の人と人との自然な関係を変えてしまい、人と人との間の意思の疎通や交流が十分でなくなり、人々は一日の張りつめた仕事で疲れ切った後で、自室に引きこもり、自己の脆弱な心を慰めることしかできない。人々が自分の心を慰めようとするとき、その孤独感や喪失感、空虚さが、村上春樹の小説が描く世界のものと、はからずも符合することを発見するのだ。

 そしてさらに重要なことは、村上春樹が人々に、いかにしてこれに対処するのかを習得させてしまうことだ。先に述べたあのようなやり方と同じように、つまり、無理して人と交わるなど外的な力に頼って孤独と空虚をかたづけようとするよりは、自我をコントロールして、内的な力によって穏やかに対処する方がよいということだ。その意味で、村上文学が示しているのは、孤独の美学であり、空虚の美学であり、喪失の美学であり、疲労困憊の美学である。

 村上作品は、都会に生きる小人物たちに、平凡な日常生活の中にも、心引かれるものやメルヘンがあることを見つけさせ、心の空間の「奥行き」をさらに広げさせるのだ。これによって喧しい俗世間の中にあっても、彼らに魂が憩うことのできる芝生を持たせ、そこで彼らが自らのアイデンティティーを確かめ、自分の頭で「私は誰、どこから来て、どこに行くのか」という先哲の思索を繰り返すことができるようにしたのだ。

 中国人が日本の作家の作品を読み始めて最初に感じるのは、いま読んでいるのは他人のことであり、日本人のことであり、つまり自分とは無関係の人間や事柄について読んでいるのだ、ということだ。しかし村上作品を読むと、自分のことを読んでいると感じ、自分の精神世界と心の天地の中を遊び回って、ついに自分自身を見つけたと感じるのだ。

 一言で言えば、村上文学は、中国の都市に住む青年男女の心の共鳴を引き起こした。これがまさに、村上春樹の小説が中国で長くブームを続け、衰えを見せないもっとも根本的な原因である。

 村上春樹君が今後も絶えず新作を発表し続けるよう祈りたい。(2001年10月号より)