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筆者の近影 |
『日本---姿の心』(新日鉄編)という本が、日本の国花を紹介してこう書いている。「日本では古来、桜が国を代表する花と考えてきた」「一方、日本の皇室のご紋章は菊である。だから菊も日本を代表する花となっている」。言ってみれば、日本の「国花」は桜と菊の二つあるということである。
桜はもともと日本にあったが、菊は中国からの(魯迅流に言えば)「持ち込み」である。日本の春は、野も山も桜が一面に咲き誇り、秋はどこの庭にも菊の花が咲く。1698年に貝原益軒の書いた『花譜』によると、当時、日本にはすでに200種以上の菊があったという。今はこれよりもっと多いだろう。
アメリカの有名な女性人類学者、ルース・ベネディクトが1946年に出版した『菊と刀』は、この半世紀間ずっと、日本人の民族性を研究する名著として、社会人類学の学界で広く引用されてきた。ベネディクトはこの本の中で、日本民族の自己矛盾や理解しにくい行動を、具体的に「菊」と「刀」とに要約している。すなわち、日本人は菊を栽培する面では芸術性を重視するし、その一方で軍刀も非常に崇拝している。
これはまた、日本人の菊の栽培技術が世界的に有名になった理由を、ある側面から説明している。特に盆栽では、日本人はさまざまな姿の「松」や「柏(かしわ)」の形に菊を育てあげる。これは本当にみごとである。
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写真・劉世昭
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中国の菊花栽培の歴史は、周の時代(約紀元前1066〜紀元前771年)まで遡ることができる。奈良時代の末期、菊は薬草として中国から日本に伝えられ、すぐに日本の上層社会の注目を集めた。宮廷や貴族の庭には、みな菊が植えられた。
嵯峨天皇は『菊花賦』を書いた。905年に撰せられた『古今和歌集』のなかに、在原業平朝臣や紀友則、大江千里ら13人の、菊を詠じた詩作が収められている。紫式部が宮廷貴族の生活を描いた名作『源氏物語』のなかでも、秋の菊について書かれている。(例えば、21巻の『少女』や27巻の『篝火』)。
野のあちこちに散らばって咲く、さまざまな姿の色鮮やかな「黄花」(中国での菊の別称)は、日本に「持ち込まれ」てから、権勢や尊厳、崇高のシンボルになり、皇室や貴族の愛玩する珍しい花となった。皇室や貴族の紋章は、もとは蓮の花だったが、後にみな、菊花に変えられた。
豊臣秀吉は1595年、自分以外、すべての家臣は菊を紋章に使ってはならないと命じた。菊は、江戸時代になってはじめて宮廷から民間にだんだんと広まり、文人、学者や庶民まで菊を栽培する権利を得たが、菊の使用権は皇室にほぼ独占されていた。
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写真・劉世昭 |
1868年、日本の『太政官布告』195号は、菊花を最高権威の象徴として天皇のみがこれを独占し、天皇の専用の紋章とすることを規定した。もし民間で誰かが菊の紋章をみだりに使えば、「不敬罪」で厳しく処罰された。
戦後、菊は皇室の独占ではなくなったが、菊を尊重する風習は今日でも日本の至るところで見られる。――皇室の「菊のご紋章」のほか、警視庁の徽章、国会議員たちが胸につけている議員バッジ、日本国パスポートの表紙の図案まで、みな菊である。日本で非常に有名な清酒は「菊正宗」である。毎年秋、京都で行われる有名な競馬は「菊花賞」という。神社や寺の提灯に描かれた図案までも菊花である。桜はいくら美しくとも、菊のような特別の栄誉を得ることはできないのだ。
1999年3月2日、日本の農林水産省は「第28回日本農業賞」を「牛の肥育」「米の生産」「無農薬栽培」「花の栽培」などの分野で大きな成果をあげた専門家に授与し、これを奨励したが、受賞者たちの胸には大きな菊の花が付けられていた。このことからも、日本の菊がいかに輝かしい地位を占めているかを見ることができる。
日本は外国の文化を「持ち込む」のが非常に上手な国である。一生懸命にそれを吸収し、できる限りそれを理解し、改良を加え、元のものをはるかに超えるものにしてしまう。中国から「持ち込まれた」菊を「国花」に昇格させたのは、実によい証拠である。
「高尚な歴史を持ち」「雅やかな風俗がある」我が中国では、菊は聞一多の『菊に思う』で書いているように「四千年の中華民族の名花」であり、日本とはまったく異なる含意が込められている。それは、中華民族が菊を詠んださまざまな詩作から見てとることができる。
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写真・劉世昭
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もっとも有名なのは、当然のことながら東晋の詩人、陶淵明(陶潜)が詠んだ「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る」である。この詩は広く世の人々に好かれ、朗詠されてきた。高潔な志や世俗を超越した境地がこの詩に表されている。その境地のなかで、菊と人間は渾然一体となっている。
また、唐末期の農民蜂起の指導者・黄巣が詠んだ『菊花』という詩は
「秋9月8の来るを待ち、我が花開く後 百花を殺す。天に冲る香陣は長安を透し、満城ことごとく黄金の甲を帯びる」とある。
さらに彼のもう一首の『菊花を題す』という詩では
「颯颯たる西風 園栽に満ち、蕊寒く香冷え、蝶の来るも難し。他年 我もし青帝(春をつかさどる神)と為らば、報いるに桃花と一処に開かん」と詠んでいる。
これらの詩では、晩秋に孤高を保ち、他の花々を圧する菊花の気概が明らかに感じられる。
南宋の詩人であり、画家でもある鄭思肖も、『菊を画く』という詩の中で、同じような胸の内をこう吐露している。
「寧ろ枝頭に香を抱いて死すべし、なんぞかつて北風の中に吹落せん」
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中国人は秋になると、
菊を観賞する習慣があ
る(写真 楊振生) |
黄巣の天地を覆そうとする反逆の詩にしても、鄭思肖が菊を「寒風を恐れない」と詠んだのも、また菊を賛嘆して聞一多が「金の黄、玉の白、春耕の緑、秋山の紫」と詠ったのも、その着想はいずれも陶淵明の「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る」というあの詩と相通ずるものがある。強調されているのは菊の「美」ではなく、菊の「魂」である。
たとえば、黄巣の詩にある「反逆」や、鄭思肖の詩にある「傲然」、聞一多の詩にある「優雅」、陶淵明の詩にある「悠然」・・・・・・こうした「魂」は、実は高潔で、世俗にこびず、自立を求める知識人の品性を投影したものといえるであろう。その意味で菊は、松、竹、梅と同じように、一種の精神と品格のシンボルとなっている。
ところが、中国人がほめ称えた菊の「魂」は、「大和民族」の「国民性」とは融和しえないようだ。日本の社会で強調されているのは「忠」であり、絶対的服従である。芳賀矢一は『国民性十論』のなかで、日本の国民性の特徴は第一に「忠君愛国」であり、次いで「祖先崇拝」だと書いている。
「大和民族」が重んじているのは実利である。『国民性十論』では、日本の第三の国民性として「現世的、実際的」をあげている。陶淵明は「悠然」を重んじたが、日本人は忙しさを貴しとし、閑なことは恥ずかしいと思っている。
その「大和民族」も、菊と陶淵明の係わりを知ってはいるし、陶淵明のような生活感覚を大いに称賛している。だが、彼らは陶淵明のように「すごす」つもりは毛頭ない。陶淵明の詩が特に好きだった夏目漱石でさえ、こう書いている。
「(陶)淵明だって年が年中南山を見詰めて居たのでもあるまいし、(略)矢張り余った菊は花屋へ売りこかして(略)。かう云う余も其通り。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿する程非人情が募っては居らん」(『草枕』から)
ここからも分かるように、日本人が愛するのは菊の「魂」ではなく、「黄花」の純粋な姿とその味である。実際、日本には「食用菊」という食べられる菊があるのだ。
あるいは、日本の菊の「魂」は、単に「高貴」という一つの含意しか込められていないといえるのではないか。私たち中国人が菊について言う「孤吟」「傲衷」「鉄骨霜姿」「寒香」「味苦」などという形容は、「大和民族」にはおそらく理解されないだろう。
毎年秋、日本各地で「菊花展」が開催され、実に多くの品種の菊が出展される。例えば、「精雲」「大輪」「天寿」「翠玉」「魚子」「星の子」などで、すべて日本の園芸家たちが育てた品種だという。聞一多の『菊に思う』に書かれている「鶏爪菊」(花弁の形が鶏の爪に似ている菊)や「繍球菊」(刺繍を施したまりのような菊)などの貴重な品種が日本に伝わったのだろうか。それらが日本に「持ち込まれた」後で、改良されて、「魚子」とか「星の子」とかになったのかもしれないが、はっきりしない。
数年前、ある文章に、日本に「東籬」や「南山」という菊があると書いてあるのを読んで、ほっとした気がした。だが、日本に滞在した二年間に、私はこの二品種を見つけることはできなかった。たぶんこの二品種は存在するのだが、見つけられなかっただけなのだろう。あるいはこの二品種が改良されてしまったのかもしれない。なぜなら、「東籬」や「南山」は、陶淵明の詩から付けられた名前であり、「和風」ではないことはすぐ分かるからである。
「改良」を得意とする「大和民族」は、本当にまめできびきびと働く民族だが、「改良」好きのこの民族に対して、私は心の中で「いかんともしがたい」と思うのだ。なぜなら菊はすでに日本の「国花」になってしまったのだから。(2001年12月号より)
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