我が家の郵便受けに簡素な茶封筒が一通、配達されたのは、1999年の年末も近いある日だった。のっけから余談になって恐縮だが、日本の集合往宅では共同の郵便受けを設置することが法律で義務付けられている。私の家は東京郊外の典型的集合往宅の八階にある。世帯数は150世帯ほどで、共同玄関のわきに郵便受けが並んでいる。私は帰宅するとまずこの郵便受けに配達されたものを取り出す。少し悪い癖があって、郵便物の中に見知らぬ差出人の名前をみつけたり、なつかしい人の名前を発見したりすると、すぐに封を開いてしまいたくなる。たいてい、エレベーターの中で封を切るので、鋏を使わず、ぎざぎざに千切られた封筒が残ってしまう。社会科学院の許金竜先生からの封書も、そんなふうにして開封された。
|
左から3人目が中沢さん |
手紙の内容は急いでお目にかかりたいというものだった。帰国までにとある。ところがその帰国までに残された日数が3日ほどしかなかったので、私はたいへんあわてた。年末というのは思いがけない急用が飛び込んできたり、様々な雑用が押し寄せてきたりする時期だ。もし許金竜先生の手紙が届くのが1999年ではなく、2000年の年末であったら、私は先生にお目にかかることはできなかっただろう。なぜなら、2000年の年末には、私は初めての中国旅行に出かけていて、北京、成都、上海を巡っていたからだ。エレベーターの中で、許金竜先生の手紙を見た私は、何とかお互いの都合のつく時間はないだろうかと思案した。
いざ、お目にかかってみると、日本の女性作家10人の選集を中国で出版する計画があるとのお話だった。中国の女性作家10人を加えて、全20冊の『中日女作家新作大系』として出版されたシリーズである。許金竜先生は帰国までにできることならリストアップされた10人の作家に会いたいというご希望だった。しかし、そう言われても、日にちに余裕がないので、10人全部は無理ではないかと思われた。中には外国へ出掛けている人もいるかもしれないし、幸い、津島佑子さんは別の用件で、数日前に電話で話をしていたので、東京にいることが確実で、「津島さんだけなら、都合を聞いてみることができる」とお返事した。許金竜先生に津島佑子さんをお引き合わせしたのは翌日の夕刻だった。この時は、出版を記念して両国の女性の作家のシンポジウムを開催できるといいというのは、まだ単なる希望だった。それから一年半ほどの時間をかけて、シンポジウムは具体的に準備されたのだが、その間、私はしばしば最初のおおあわてを思い出しては、一人で笑みを含むことがあった。
日本国内に中国の作家の作品が紹介されることは少ない。男女を問わず、中国の文学作品は断片的単発的に紹介されることが多く、中国現代文学全体の動向は、一部の専門家をのぞけば、ほとんど知られることがない。私は今度のシンポジウムを一つの機会として、中国現代文学の全体的な動向を知ることができたことと、個性と才能に富んだ女性の作家がたいへんな活躍をしていることを理解したことが大きな収穫であったと思う。
|
万里の長城に立
つ女性作家たち
|
シンポジウムに参加した中国の女性作家では残雪さんの作品は、翻訳で読み、幾つか書評も書いていたので馴染みがあった。もちろんご本人と直接にお目にかかるのは初めてである。社会科学院内で開かれた記者会見に向かう前にホテルのロビーまで我々を迎えに出て下さった残雪さんを見た時、私は「おや、この人は誰だろう」と不思議に思った。残雪さんの親しみのある態度は、私が中学校の時に教えていただいた体育先生に似ていたのである。まさか残雪さんとは思わなかったので、その人と聞いて意外であった。作品の繊細さから想像して、もっと神経質そうな人物をイメージしていた。先に述べたような状況で、私が最初に許金竜先生と話をしたいきさつから、シンポジウム関係の雑用を引き受けていたので、残雪さんと直接に話す機会はなかなか訪れなかった。しかし、張抗抗さんと残雪さんのお二人は、交流のためのバスツアーにもお付き合いいただき、とうとう、最終日の昼食の席で率直な意見の交換を私と残雪さんの間で交わすことができた。同じテーブルに日本語が堪能な、東京在往の中国人作家である唐亜明氏がいてくださったのも幸いした。外国作家との交流は、いつでも言葉の壁に悩まされ、言葉に対する運動神経を試されているような状況に置かれ、そして、改めて言葉が通じる喜びをかみしめる経験をさせられる。
残雪さんの新しい感受性を生み育てようとする姿勢に深い感銘を覚えた。日本と中国は事情の異なる点も多々あるのだが、時代に相応した精神を語る言葉を創造しようという感覚は、私と共通のものを見出すことができ、たいへんうれしかった。
もうお一人、交流ツアーに参加してくださったのは張抗抗さんで、私は『斜塔』という作品を読み、建築や土木技術にも詳しい様子なので、お会いするのを楽しみにしていた。日本女性作家には、あまり建築や土木技術にまで興味を持っている人はいないが、現代の都市を描こうとすれば、こうした知識を持つことは重要だ。張抗抗さんはシンポジウムの間、そのユーモアのセンスで会議を常になごやかな雰囲気に保って下さった。また、錯綜する話題を整理し、反対意見をも受け入れ、全体の流れが有意義なものとなるように気を配っていただいた。「抗抗と方方ではまるでパンダみたいな名前ですが」と自己紹介なさった時には、会場が笑いに包まれた。抗日戦争と抗米援朝にちなんでご両親がつけられた名前だという。真剣な話題、真面目な問題ほど、それを語る時にはユーモアのセンスを必要とする。ユーモアのセンスはしばしばそれに触れた人の心をやわらかくし、頭を明晰にする力を発揮する。張抗抗さんとお話していると、そのことを思い出さずにはいられなかった。
方方さんとは、宿泊先のホテルのロビーで短い間だが、お話することができた。方方さんは日本のような資本主義社会での作家の経済生活に興味をお持ちの様子だった。この時は遅子建さんがご一緒であった。シンポジウムでは、方方さんは積極的に発言されて、私は中国現代文学の現状について、ずいぶん教えられることが多かった。方方さんが興味をお持ちになった事柄、つまり資本主義市場経済の下で、作家はどのような態度で収入を得て、かつ、質のよい作品を発表するためにどう工夫したらよいのかという問題は、日本の作家も常に頭を悩ましている点だ。
中国というのはやはり広い国だなと感じさせられたのは遅子建さんと林白さんのお二人だった。北と南と、まるで異なった風土を描いて個性に富んでいる。とりわけ、遅子建さんの意志的な風貌は印象的だった。詩的な叙情性に富みながら力強い精神性を感じさせる『じゃがいも』を私は目を見張る思いで読んだ。林白さんは南の中国を描きながら幻想的であり、失われたものを探す感覚が生きていた。『回廊の椅子』である。
才能煥発な池莉さんはシンポジウムでの論議を自由で活発なものにしてくれた。それまでは遠慮ぎみな発言が多かったのだが、池莉さんの登場によって、自由に感じていること思っていることを口に出して言う空気が会場にみなぎった。とてもお忙しいご様子で、会場においでになったのは短い時間だというのに、あっという間に活達なふんいきを作り上げてしまった。
陳染さんは終始、もの静かで、少し神経質そうな様子をなさっていた。作家の中には、人の中に出るのが苦手だという人がいるが、あるいは、そういうご気性なのかもしれない。
シンポジウムの最後は徐坤さんの明朗活達な話し振りをおおいに楽しませてもらった。会話を楽しむセンスは抜群で、私はこの軽やかな会話の中に現代中国の素顔を見たような思いを抱きながら、大笑いをした。
シンポジウムにはこのほかに、王安憶さんと鉄凝さんの出席を予定していた。王安憶さんには1999年の年末に上海でお目にかかっている。鉄凝さんは2000年の春、東京におこしになった時、神楽坂をご案内した。お二人との再会を楽しみにしていたのだが、ご都合がつかずに欠席書面参加ということで、この点は少し残念だったが、また、いつか、お会いして文学について語り合うことができることを期待している。(2002年2月号より)
|