【放談ざっくばらん】


日中民族楽器きのうきょう

                                     作曲家 三木 稔

 

 昨年11月、第一回竜音杯中国民族楽器国際コンクールの筝(撥弦楽器。日本では十三弦が主流だが、中国では五弦に始まり、唐宋のころに十三弦となり、現代では二十一弦が広く普及している)の審査を頼まれて北京に行った。期待を超える若い人材を発見でき、国際的なソリストとして成長するであろう彼らと同時に、その作曲も随分洗練されて来たことを嬉しく思った。ここまでの20年近い体験が、私の感動を倍加させたに違いない。

*    *

 私が日本音楽集団を連れて最初に中国を訪れたのは1983年。当時、中国音楽界は文化大革命で禁じられていた西洋音楽に接して、自分の行く道に迷っていた。その折、数人の邦楽器奏者に中国の西洋楽器ソリストも交え、私の八作品が北京3回、上海2回の公演で演奏された。

 伝統を生かしながらラジカルに新鮮にトライした上演形態は、沢山の若い作曲家や民族楽器関係者の印象に残ったようで、その後、世界の人気作曲家となった譚盾はじめ、多くの中国人音楽家からそれぞれの思いを聞いた。興味の対象となった私の音楽の中には、中国と同じ二十一弦を持つ筝の作品があり、その音楽内容と楽器用法が関心を持たれたことは、次に北京を訪問した1989年6月の中国楽器世界コンクールの筝部門を審査するなかで強く感じられた。

第一回竜音杯中国民族楽
器国際コンクールにて

 しかしその折に演奏された曲には、実験性が強烈に現れたものの、作品の統一感や質感の上ではアンバランスの印象が極めて強かった。演奏も同様で、例えば私の『華やぎ(中国名=華麗)』を二人の学生が弾いたが、ただテンポが速いだけで、作品が自然に求めている闊達自在な大きい表現に近づくには、まだまだ時間がかかると思われた。楽器そのものも、精選されていない木やスチールのように思われ、高価な素材を使った日本の筝と格段の質的差異があった。

 また日本に倣って演奏中に柱を動かすのはよいが、現代を意識したせいであろうか、多彩な表現を求めて過剰に行ったり、好んで騒音を出すケースが目に付き、芸術的洗練からはほど遠かったと記憶する。

*    *
天才琵琶奏者との出会い

 89年からしばらくは中国との交流もなく、93年に日中韓三国の民族楽器を網羅して発足してオーケストラアジア(亜州楽団)のツアーが毎年始まって、再び中国の民族楽器奏者たちとの楽しい交歓が生まれた。特に96年、初めて東京の公演に加わった琵琶奏者が私の中国伝統楽器への既成概念を打ち砕いた。今、私がシズカと呼んでいる楊静である。彼女の演奏スタイルとその驚異的な技術にまず惹かれた私は、彼女が83年、まだ学生だった時に作曲したという作品の、当時の中国作曲界の風潮からは想像もつかない洗練された作風にも感嘆した。さらに彼女の英語能力と未来を望む芸術観を知るに及び、私は、楊静が私の作曲の弟子になることを喜んで受け入れた。

 たまたま長野オリンピック芸術プログラムからオーケストラアジアへの新作を委嘱されていた私は、97年、彼女の技術を想定した『琵琶協奏曲』を作曲し日本と韓国六カ所で初演した。その西洋オーケストラ版は東京都響はじめ幾つものオーケストラで演奏されて、そのソリストである楊静は、聴衆と批評家たちからまさに絶賛を受けている。また、2000年アメリカで世界初演され、2001年日本初演された私のオペラ第七作『源氏物語』では、その器楽ソリストとしてオペラと並んで高度の注目を浴びた。九八年に日本各地で始めた、彼女の琵琶だけのリサイタルはここ数年で30回近く、アンケートはいつも全ての人が最高の評価で、「血がさらりときれいになった」などのコメントにもみられるように、異常な感動をするファンが激増中である。アジアのアーチストを紹介する者として、こんな嬉しいことはない。4月20日東京津田ホールの「楊静と結アンサンブル」コンサートで、彼女は大活躍する。www.m-miki.comから申し込めるので、とにかく聞きに来てください。

筝の活況は中国に

 私は日本史に沿ったオペラ連作と、アジアの器楽の新しい道創りを自分のライフワークとしている。その方法の一つとして、楊静のような、ラジカルに未来を見据えるアジアのソリストたちとの国際的なツアーを夢見てきたが、筝については日本ではななか人材を見出していなかった。そんな時、昨年11月のコンクールでの、中国の若い奏者たちとの出会いはまことに新鮮であった。

 実は昨年12月初めには、日本のある筝コンクールの審査をした。残念ながら北京のコンクールで得たアジアの将来への明るい展望はそこになかった。それは、選ばれた審査員たちの何人かが、伝統保守と自己領域保全の意識が強すぎ、筝という楽器の新たな可能性や新たなスターを作り出さねばならぬ指導者としての責任感がないことに原因すると思った。

 私は、1960年代初めから80年代半ばまで、日本の楽器の現代化・国際化に全力を挙げて取り組んだ。ソロから合奏まで、あらゆる可能性に挑んだが、特に筝は十三弦が二十弦に、そしてすぐ二十一弦になる過程に参画し、日本で「二十弦筝」と呼ばれているこの楽器とその奏者たちが、音楽上、全方向での活動ができるよう創作を絶やさなかった。

 70年代にはスターが生まれ、それに憧れて多くの奏者が追随し、十三弦の筝の世界まで活況を呈した。それまでほとんどなかった筝の独奏曲が無数に生まれた。しかし日本には家元制度が張り巡らされていて、周囲は壁だらけである。二十一弦の筝を弾く人たちは何百人でとどまっていると思う。これでは楽譜の出版は思うに任せられない。

 一方、第二次世界大戦が終息した1945年まで、中国の筝も十三弦であったが、すぐ十六弦となり、60年代に二十一弦となって、今は二十一弦の演奏人口は百万人を超えるという。

 今回、北京の人民音楽出版社から強く望まれて、『筝譚詩集』全二十曲始め私の二十一弦筝の多くの作品が出版されることになった。おそらく日本に逆輸入されて、日本の奏者たちは廉価で買えるようになるだろう。北京のコンクールのスポンサーであった香港の業者は、優秀な奏者たちでもあり、その作品群のCDを作り、コンサートを日中各地でやりたいと計画している。

改革進む中国の筝

 今回の北京のコンクールを体験して、70年代に日本で感じていた熱気は中国に移ったように思われる。作品は国際感覚をつけてきたし、外国人である私の曲と演奏プログラムに並んでもおかしくなくなったかも知れない。表彰式後のパーティーで会った青年・プロの部の優勝者、袁莎が、自分が弾いた私の『華やぎ』のCDをくれた。後でそれを聞いた私は絶句した。この曲を得意とする日本の第一級のソリストたちの演奏の域にすでに迫っている、いや、もしかすると超えている。日本の演奏モデルがあるとはいえ、私が中国の筝恐るべしと実感したのは、まさにこのときであった。

 彼らは左右の手のそれぞれ四つの指に義爪をつけてでも、より高度の演奏をしようとする。その限りない可能性を望む精神状態を日本は忘れている。スチールの弦、軽い胴、伝統にこだわってわれわれが放置してきた楽器自体の問題も、中国の若い奏者たちが表現する音楽の進歩を目の当たりにすると、今度は日本が中国に倣って新たな改革をする番が来たと思う。

 1989年の大コンクールの時もそうであったが、15歳以下の少年に競い合う場を提供していることと、アマチュアの部があることは、中国の際立った意欲の現れであると思う。特に少年の部の技術の高さを見て、日本の筝は少年少女向けに弦の張力をやや緩めたり、義爪のクオリティーを変えなければならないと思い至った。中国では筝は、二十一弦筝をも含めてなぜか「古筝」と呼ばれるのが普通だが、いまや「新筝」とでも呼びたいほど、革新の最中にあるように思える。(2002年4月号より)