私が教えている『都市社会学』の講座に、二人のカナダ人留学生が聴講している。その中の一人は、「司馬」という中国の姓を名乗っているのだが、ある日のディスカッションの時間に、彼は黒板に、彼がこれから話そうとするキーワードの「infantalisation」(インファンタライゼーション)という英語を書き、そして中国語で「孩子気化」と書いた。これはいずれも日本語の「幼児化」のことである。
司馬君の言う「幼児化」とは、大人が子どもと同じように振る舞う行動様式を指す。彼は最初、日本の東京と大阪でこのような現象を発見し、驚いた。その後、台湾でも類似した現象を見た。さらに今日では、上海でもときたま似たような情況を見つけたという。しかし彼は、日本、台湾、上海の現象が、同じかどうかはあえて断言しなかった。
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可愛いから大好き……。漫画の世界から抜け出してきたキャラクターに人気が集まる(cnsphoto) |
彼はいくつかの例を挙げた。例えばおもちゃや「ドラえもん」である。これは西洋にもあるが、しかし西洋では子供のおもちゃでしかない。しかし日本や台湾では、大人たちの玩具になっている。また、子供向けの漫画やアニメーションを大人たちが見て、褒め称えている。中国の大人たちにこんな傾向があるだろうか、と彼は提起したのだった。
司馬君の言う意味を理解した中国の学生たちは、一人ずつ積極的に意見を発表した。何人かの学生は、現代の都市の市民は、精神的圧力があまりに大きく、緊張した生活をおくっているので、おもちゃで遊ぶのは、ただ気分を楽にしたいからだけなのだと説明した。またある学生は、司馬君の発言の中に含まれている、中国や日本などの若者文化に対するある種の否定的な評価に、賛成しなかった。学生たちは、大人が子供の服を着て喜ぶのはなんら悪いことではない、子供の世界はもともと清潔さや可愛さなどを象徴しているのだ、と主張した。
「インファンタライゼーション」という言葉の意味は、若者文化の中の幼児化傾向や大人の「甘え」の心理まで及ぶ。司馬君が日本に言及したため、学生たちは日本の若者文化の影響を受けた中国の若者文化の現象について意見を述べた。だから私も、日本人の「甘え」から説き起こそうと思う。
日本の現代社会科学理論の骨組み中で、「甘え」はすでに、非常に普遍的な基本概念になっている。精神分析家の土居健郎氏の著作『甘えの構造』は、彼の学問の基礎を定めた一書だが、甘えの心理と日本人の国民性や精神とを結びつけている。一部の学者が土居氏の理論に対して異議を唱え、批判することがあっても、一種の社会の病理とするか、それとも基本的な国情とするかにかかわらず、日本人の「甘え」の精神的特徴は、いまや日本の「日本論」でも外国の「日本論」でも、ほとんどその基本的な構成要素の一つになっている。
「甘え」はもともと、日常使われる言葉である。しかし、心理学者はそれに、心理学的な意味を付与し、学術的な解釈を行った。つまりそれは、日本人の、人と人との関係の中にある依存願望と定義されたのである。これは人間が他人との一体化を追求する一種の愛情の欲求である、と土居氏は解釈した。
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おもちゃはもはや、子どもだけのものではなく、大人のものにもなった。大人のための「玩具バー」で、大人たちは喜々として遊ぶ(newsphoto) |
日本人の家庭の構造と親子関係は、西洋人とは異なる点が非常に多い。たとえば子供は生まれてからずっと「自分の部屋」がなく、幼い時から成長するまで、畳の上や風呂桶の中などで、ずっと父母と密接な関係を保ち続ける。(もっとも近ごろは、居住条件の改善につれて、こうした状況はすでにかなり変わってきてはいるのだが……)。
日本人の母親は、家の中では、精神的な指導者と生活上の家政婦を兼ねていて、さらに子供を心の面で支える役割を担っている。ある学者は、日本社会を「母系性社会」と呼び、これを西洋の「父系性社会」と対比させた。前者は母性を原則とする社会で、上から下への寵愛はあるが厳しい規律はない。後者は、父性を原則とする社会であり、それは厳格さと規律の厳しさを意味している。
現在、日本人や日本の社会のさまざまな現象の、その大きな特徴を説明する時、日本人の「子供っぽさ」が、固有の思考パターンとなって、人々の思考に影響を及ぼす。
具体的には、次のような状況だということができる。もし人間が、精神的、心理的に「母離れ」のプロセスを完全に終えずに、精神的に独立した能力を備えることができないとすれば(こうした能力は、徹底的で真の個人主義の条件の一つだと、一部の学者は考えているのだが)、その人間は、精神的に何かに依存したいという欲求を持ち続けるだろう。そしてその依存の欲求はおそらく、母親からその他の対象へと絶えず広がって行くだろう、ということだ。
このような状況の下で、その人間はおそらく、その他の客体に対して精神的に一体化したいという傾向を示し、あるいはきわめて親密な愛を示すよう要求したり、あるいは「甘え」といった類の感情を、ほしいままに撒き散らしたりするのだ。こうしたことは、日本の学校、団体、会社での人間関係の中に、確実に普遍的に存在する現象と考えられている。
こうした特徴は、今日の日本の若者の文化の中にも表れている。時代の流行にそって言えば、「可愛いさ」(これは本来、子どもたちが大人から言われたい誉め言葉なのだが)が、いまや青少年の服飾の基本となり、また青春スターたちの共通した特徴にもなっている。
心理面から言えば、「ドラえもん」を例に取ると、それはまさに、若い人々のなにかに依存したいという感情の産物である。母親から離れて一人暮らしを始めたが、心理的にはまだ精神的に独立した能力を備えていない若い人が、自分とともに喜び、ともに悲しむ対象である「ドラえもん」によって、寂しさを慰める必要があるのだ。
当然のことながら、社会学的に言えば、いかなる文化もみな、社会的に、また歴史的に形成されたものである。今日、日本の若者文化の中に表れている「幼児化」の心理は、日本人の「甘え」の社会心理的な産物であるばかりでなく、現代社会の中の、人と社会との関係の変化が屈折して表れたものである。そしてまた若い人たちが「大人になりたくない」というのも、日本だけの現象ではない。
司馬君が提起したもう一つの問題は、いっそう説明するのが難しい問題である。それは、中国人も日本人と同じかという問題である。中国では現在、この方面の問題を研究している人は、きわめて少ないようだ。しかし、日本の一部の学者は常々、中国の伝統的な父権が中国人の精神構造に与える影響を強調している。これはもしかすると、日本の「母系社会」や「甘えの心理」と中国の精神構造との違いを互いに区別する根拠になるかもしれない。
しかしそう言えるかどうかは大変難しい問題だ。たとえば、中国の古典文学作品の中には、人口に膾炙している感動の母子の情が数多くある。またたとえば、本来の「母」という概念の中には、さまざまな神聖な意味が付与されている。中国人の母と子どもの間の親密な関係には、きわめて豊富で複雑な意味が内包されている。その中には、精神的に互いに依存し合うことも含まれている。
どうして今日、中国の青少年はあれほどまでに日本の若者文化のスタイルが好きなのだろうか。現代の若者文化の発祥地が欧米であり、かつまた中国人が文化の面で日本よりもずっと西洋を崇拝しているからだろう。それなら、精神構造の上で、中国の青少年と日本の青少年は通じ合うところがないということができるのだろうか。
そうだと言えるいくつかの現象がある。
中国人は、子どもを自立させたり、自律の精神を育てたりすることをあまりしない。また子どもの精神の発達をあまり重視しない。これはずっと言われてきた古い話題だが、これが変わってきたという兆しはなお見えない。
筆者はかつて、私の大学に在学している学生を対象に、「大学入試」に関する調査を行ったことがある。この調査の結果から、以下のようなことがわかった。
今日の多くの家庭では、子どもが大学に進学するという人生の大目標を実現するために、両親はできるだけ、受験以外の社会生活からは子どもを隔離し、さらに生活の面でも精神的な面でも、子どもたちの保母さんの役柄を演じるよう心を砕くのだ。だから子どもたちも、彼らの努力の結果が父母の人生における価値を実現することにつながっていることをはっきり知っている。子どもたちの努力は、両親のためにしているので、両親に頼って努力しているのだ。このように、子どもたちと両親とは、互いに依存し合っている。
こうして子どもが思春期に入るや、中国では18歳で成人式を迎える。しかし実際には、彼らは依然として子供であり、幼年期や少年期が終息するまでには、なおしばらく待たなければならない。
当然、家庭は子どもが社会化する唯一の場所ではない。子どもたちにはさらに、学校や友達グループがある。しかしこれもいったい、どのようなものだろうか。
子どもが学校に上がると、父母たちは先生に、自分の子どもだと思って言うべきことは言い、監督すべきは監督してくれるよう求めるのだ。だから生徒たちは、高校を卒業するまでずっと、先生、とくにクラス担任の先生との間に、一種の親子関係に似た関係を保ち続ける。先生もできるだけ、生徒たちの心の面でのさまざまな要求を満たすようにしなければならないのである。その代償として、多くの学生は、先生からのさまざまな、有形無形の干渉を受けたと思い、ひどい場合には傷つけられたと感じるのだ。
大学に入ると学生も両親も、また学生の身が大学に委託されたと考える。しかし大学の教師と指導員は大部分、父母の代理の役割を果たすことに熱心ではない。まして大学の制度も、こうしたことをほとんど求めていない。そこで学生たちは、これに不満を抱きながら、自ら努めて精神的に独立していくことを始めざるを得ないのである。
一部の学生たちはその後、外国へ行き、一人で暮らし、アルバイトしながら生活するという経験をする。これは外国の学生の間では普通のことなのだが、しかし中国の留学生の多くは、骨身にしみるほど深刻な精神的アンバランスを経験することになる。そこで彼らは泣いて訴えて、自分の精神のバランスを回復しようとする。留学生の書いた文学や映画・テレビの作品の中で、これはよく見られることだ。
これは別の一種の「甘え」であり、あるいは別の一種の類型的な(中国の特色を帯びた)、一体化を求める表現と言うこともできる。独りぼっちで外国で暮らす「大きな子どもたち」は、国内の読者や観衆を両親の延長線上のものと見なしているのだ。お年寄りたちが相槌を打ってほしいと思うのと同様に、読者や観衆の反応があると、彼らの精神はやっと落ち着き、満足するのだ。
1950年代のアメリカで、「ティーンエージャー」という社会的分類が最初に生まれてから、「青少年」はずっと、一種の特殊な身分となり、それによって若い人がしばらくの間、大人になるのを拒絶して、また両親から逃れる理由と権利を獲得したのである。
今のところ中国の若い人たちも、自立する必要性を感じ、居住空間や社会的交際といった自立するための条件を持ち始めている。しかし、日本の若い人たちと同様に、彼らはあの精神的な依存からも、相互依存への欲求からも脱することはできない。
例えば、「甘え」たいと思い、天真爛漫を装っている、日本大好きの「哈日族」たちが、心の中で慕うのは日本の風情ではなく、自分たちが体験してきた子どもの世界なのだ。彼らは間もなくこの世界に別れを告げようとしている。しかし彼らの精神構造は多少とも「甘え」の特徴を帯びるだろう。「甘え」はすでに、この社会、この時代の、一種の共通ロゴマークになっている。(2002年10月号より)
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