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朋友に囲まれて(中央が筆者)
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友を作る、というごく何気ない行為にこそ、中国と関わることの意義も壁もあると思う。
中国語で友だちは朋友と言う。中国語の学習としては、ただそれだけのことである。しかし、中国の知り合いが増えるにつれ、友だちと朋友の似て非なる関係に気づくはずである。
たとえば、北京に住む友人は「私たちは朋友ですから、あなたのためなら何だってします」と言い、頼みもしないのに北京空港に迎えに来て、家に泊めてくれ、カネも貸してくれる。反対に、もし中国の友だちができて、彼が成田空港の送迎を頼んだり、家に泊めてくれと言ったら、辟易する人が多いに違いない。
朋友と友だちの間のギャップは、中国独自の文化と言うよりは、日本が特殊なのではないかと思う。つまり、今の日本は友だちがいなくても生きていける社会で、友を持つことの必然性が見えないのではないのかと。
朋友を意識するようになったのは、1987年に初めて中国に行った時からである。ハルビンに行き、旅社という中国人向けの宿泊施設に泊まったら、泥棒に遭って一文無しになってしまった。警察に届けることも考えたが、その宿の主人と妙に気が合い、彼に頼んで内緒で宿の従業員として働かせてもらった。まだ配給制が残り、中国人が旅行をする際には証明書がいるような時代で、就労ビザも持たない外国人が働いていいはずがなかった。
旅社には主人のほかに、農村から出稼ぎで来た同年代の少年少女が同僚として働き、客は主に全国各地からやって来た行商人たちだった。仕事がさほど忙しくないこともあって、ぼくは彼らから中国語や中国の習慣などをあれこれと教わった。中にはとても親切な人もいて、なにかとぼくのことを気にかけ、タバコや食べ物をくれた。彼らのいわゆる「熱情」さはうざったいほどだった。
そもそも宿の主人は、役に立たない外国人のぼくを雇ってくれ、帰る際には交通費まで出したが、いかに盗難に遭った宿とは言え、被害者のぼくにそこまでしてやる義務はない。日本のビジネスホテルあたりではありえないことだった。中国でもてなされることは多いが、そこにありがたみを感じることはなかなかない。しかし、一文無しだったぼくにとってそれらは必要なもので、その温かみを感じた。
日本でぼくは積極的に朋友を作ることを心がけた。折しも日本では中国人留学生が増え始めた頃で、日本で友だちができずに孤独感を抱えている者が多かったが、それは友だちができないというよりは、彼らが友だちに求めるのが朋友に対するそれだったからだと思う。
朋友は探すもの
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北京でロックミュージシャンと話す。挑戦をする朋友たちとの出会いが、自分が生きる上での刺激をもたらす。そうした新しい出会いを求めて中国に行く |
それから15年以上のあいだ、ぼくの周囲にはたくさんの朋友ができた。老若男女、職業も研究者、学生、会社員、バーのホステス、個人経営者など、さまざまだった。
ぼくがハルビンの宿で働いていた頃、同僚や客の朋友は食べ物があれば分け与えてくれたし、何か困ったことがあれば必ず助けてくれた。そういった関係を、ぼくは高校や大学の頃に日本で体験したことがなかった。
しかし、人生観や職業のかけ離れた人たちの全員と親しくなることは不可能であるし、無理もあると思う。学生の頃、中国のあらゆるタイプの人と朋友になったが、それは学生だから、さらには中国に触れたい気持ちが強かったからできたに違いなかった。社会に出て、歳を取れば、次第に忙しくなるし、中国への理解を深めていけばいくほど、中国人と接すること自体への新鮮さも薄らぐ。
30歳を過ぎた頃、ぼくは自分がどう生きていくべきかで悩んでいた。アルバイトをしながらミニコミ誌などでカネにならぬ原稿を書き、中国の人の朋友であり続けることが当時のぼくの日課だったが、そうした生き方に行き詰まりをおぼえていたことも、朋友に関して疑問を抱いた原因なのかもしれない。けれども、そんなぼくに新たな道筋を示したのは、ほかならぬ朋友だった。
1997年から98年にかけて、北京の郊外で集団生活を続ける前衛アーティストたちの村に飛び込んだ。あてもなしに押しかけたのだが、圧倒的多数がぼくと同世代だった彼らもやはり、市場経済へと急変する中国での身の置き所について暗中模索を続けていて、行き詰っていたぼくを温かく受け入れてくれた。市場経済化が進むにつれて、はてしない欲望を肯定するだけでいいのか、競争社会を肯定すべきなのか、個人主義が弊害をもたらすことはないのか、など、ぼくが日ごろ感じる問題を彼らも共有していた。そして、迷いつつも、アートに人生を賭けようとしていることがぼくを後押しした。ぼくは文筆で身を立てていくべきではないのか、と。
同じような問題意識を持ち、刺激を与えるような存在、そのような人と互いに助け合いつつ前進していく……。朋友とはきっとそんなものなのだろう。だとしたらそれは、漠然としていても見つからない。なによりも自分が問題意識を突き詰め、あるいは日々をいかに生きるかを問いかけながら、周囲に目を配る時に出会うものなのだろう。すなわち朋友は探して見つかるものだし、また、それは生きることと同義と言ってよいのではないか。
草の根をいかに高めるか
友を探すことをぼくは中国で学んだ。それは、生きる上で友が欠かせないものだとの実感を与えた意味でもあるし、中国があまりにも大きく、同じ中国人と言っても人により考え方が異なることにもよる。中国でもう一つぼくが学んだのは、中国がわからない、ということだ。中国人、という普遍的概念でとらえることの無理を感じ、普遍性よりも一つ一つの具体的事実と深く関わりたいと思う。
さまざまな事情で日本では友を探すことの意義は見えづらくなっているし、また、国民を全体として一つの人格であるかのように扱う視座が形成されているのではあるまいか。反日デモについても、あたかも中国全土が反日一色で染まっているかの報道を目にするにつけ、中国を見ることの難しさを実感する。
よく「中国(日本)は嫌いだけど中国人(日本人)は好きだ」という意見があって、そうした個々人の交流を草の根交流と言うが、反日デモのような大きな出来事があった場合にも草の根交流が揺らがないためには、交流がもっと各人の思想と共通利益に根ざした強固なものでなくては太刀打ちできない。そうした意味も込めて、ぼくも含めて日本や中国の人が自分なりの問題意識や世界観に根ざした朋友を獲得して、その総和として交流が進展する社会になることを切に願っている。(2005年8月号より)
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