『友誼鋳春秋』の訳者  武吉次朗    
 
友人として扱われた「留用」日本人
 
 

 

日本僑報社で打ち合わせる筆者(写真左)

  「留用」という言葉をご存知だろうか。「一定期間留めて任用する」という意味の中国語だが、「留用」に人生を賭け、青春を捧げた日本人が、60年前の中国東北部におおぜいいた。

 日本軍国主義の降伏後米国の後押しを受けた国民党の解放区侵攻で内戦が不可避となった時東北の中国共産党とその指導する八路軍(当時の呼称は東北民主連軍。後の中国人民解放軍第四野戦軍)はさまざまな職種の日本人を残留させ協力を要請した。

 医師と看護師工場や鉱山の技師と熟練工鉄道技術者科学者、映画人……職場ぐるみもあれば、個別指名もあった。寄る辺がなく加わった人もいた。元「満蒙開拓青少年義勇隊」の少年たちは、負傷兵を搬送する担架隊員になった。

 中国側の史料によると、東北に進駐した八路軍の医療要員は千600人だったが、「留用」された日本人の医師・看護師など専門職は3000人(この他に補助要員が2000人)いたというから、担った役割の重さが分かる。「留用」者は全部で1万数千人、家族を含めると2万数千人にのぼった。

 毛色の違った分野もあった。たとえば、人民空軍創設のためパイロットと地上勤務要員の育成に協力したのは、林弥一郎氏の率いる元関東軍第四錬成飛行隊の300人だった。また民主連軍の蕭勁光副総司令官の運転手は元日本兵だったし、筆者の友人も、ある兵団司令官の運転手を務めた。

 民主連軍の進駐後ほどなく、日本人から恐怖感が消えたのは、その規律が厳正で態度が穏やかだったからだ。長春で寺の土間を借り宿泊した兵士たちが退去する時、家の中も外もきれいに掃除し、謝辞を述べたので、「これぞ天晴れな武士じゃ!」と感嘆した住職もいた。看護師や見習い看護師の若い女性が夜勤につけたのも、民主連軍将兵への厚い信頼があったからこそだった。

 とはいえ、初期のころは、不満を持つ人が多かった。「早く日本へ帰りたい」「でも、戦争に負けたのだから仕方がない」――これが共通の心情だったといえる。だが日本人特有の職人気質から、病院でも工場でも、与えられた仕事は決して怠けず、手抜きせず、細心丁寧にやり遂げた。

 これに対応して、中国共産党は次のような政策を定めた。「留用の日本人は捕虜ではなく友人である。政治面では日本軍国主義者と明確に区別し、一視同仁にあつかう。仕事の面ではその技術を尊重し、努力を信頼する。生活面では同等に処遇する」というものだった。

 同じ釜のメシを食べ、同じオンドルで起居を共にするうち、日中双方それぞれにあったわだかまりが消え、連帯感が芽生えてきた。野戦病院で負傷兵の手術中に国民党軍機の爆撃に遭いながら、決死の覚悟で手術を続行した麦倉元医師のような、日本人医師たちの獅子奮迅の活躍や、献身的に介護しながら進んで献血もする日本人看護師たちの姿は、中国の同僚に深い印象を与えた。

 何といっても、中国共産党幹部の人間的な魅力は忘れがたい。「為人民服務(人民のために奉仕する)」とは単なる理念ではなく、毎日接する幹部の言動そのものだった。上司たちからしばしば「何か困ったことはありませんか」と聞かれなかった日本人はいない。

1952年10月1日、天水−蘭州間の鉄道が開通し、一番列車の機関車を囲む日中の関係者(天水で)

 人生、意気に感ず。仕事にいっそう励むことによって表彰者が続出した。記録では、第四野戦軍で働いた日本人医療要員の80%以上が表彰されたとある。産業分野では、全国労働模範に選ばれる日本人もいた。

 重要なエネルギーだった石炭、機械設備から新聞・紙幣印刷用の紙まで、東北の近代工業は全中国の解放と経済復興にたいへん貢献したのだが、数千人の日本人技術者と労働者は、そのため工場・鉱山の復旧、増産と技術伝授に打ち込んだ。

 鉄道関係では、甘粛省の天水から蘭州までの幹線敷設という難工事に、東北から300人の日本人技師が配属され、技術の中核となり、2年余り奮闘して、8カ月繰り上げて完成した。開通式には毛沢東主席から祝辞が寄せられた。

 「留用」された日本人は1950年代に帰国したが、就職もままならぬうえ、白い目で見る向きもあって、苦労の連続だった。しかし、中国時代の職場や居住地ごとに、さまざまな会を作って励ましあい、また日中友好団体に参加して、新中国の紹介と国交正常化運動の一翼を担った。

 80年代からは訪中を重ね、経済や文化の交流に尽力し、中国からの留学生や帰国孤児の世話に努め、あるいは中国の貧困地域児童の復学を支援する「希望工程」に募金を続けるなど、地道に友好を堅持している人は、二世たちも含めて実に多い。

 もちろん、半世紀以上を経た今では、高齢化し、鬼籍に入った人も少なくない。だから、1999年に中国中日関係史学会が、「留用」日本人の事績を発掘、編集して、記録に留めることを決議し、実行したのは、ぎりぎりのタイミングだった。

 万事控え目の日本人の口から「貢献を語らせる」のに取材チームは苦労されたようだ。しかし、双方の関係者の努力、そして日中友好会館の協力を得て、「留用」日本人の壮絶な生き様を綴った『友誼鋳春秋』(中国語版)の第1巻が2002年に、第2巻が2005年に相次ぎ刊行された。また拙訳による日本語版は、『新中国に貢献した日本人たち』と題して、2冊とも日本僑報社から刊行されている。

 故・後藤田正晴元副総理から、拙訳の2書にそれぞれ推薦の言葉をいただいた。「本書に登場する人々は、戦争で破壊された日中両国の友好を、自らの汗と血で修復して、今日の礎を築かれた。両国関係がきびしい状況にあるとき、地道な草の根交流という原点に立ち返るよう、本書の人々は呼びかけている」という推薦の言葉が、絶筆となった。

 中国語版第2巻の出版記念会が昨年9月、国際交流基金の後援により北京で開かれた時、日本人教官に教わって航空学校を巣立った元中国人民解放軍空軍司令官の王海将軍が挨拶に立ち、かつての日本人教官たちを偲んだ。

 また筆者たち数人は要請を受け、北京外国語大学など3大学で、「留用」の史実と体験を報告したが、目を輝かせて聞き入る中国の若者の姿に、友好が世代を越えて受け継がれていくに違いないと実感したのだった。(2006年1月号より)


 

 
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