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中国人画家・孫玉方さんと一緒に、十数年来、中国の貧困な山間部の教育のために力を尽くしてきた筆者(中央)。河北省の太行山地域や北京市の山間部の小中学校に物資を寄贈したり校舎を修築したりしている |
私が知人の紹介で、日本の美術を研究するために三重大学に留学していた北京師範大学の美術教師、孫玉方さんに出会ったのは、今から16年前のことだった。孫さんは、まもなく留学ビザが切れるが、できれば就労ビザを取得して東京で働き、お金を貯めて故郷に学校を建てたいと語っていた。
私はその話に感動したが、絵を描きながらアルバイト的に働いたのでは、東京では暮らしていくのが精いっぱいで、とても学校を建てる資金は蓄えられないだろうと思った。そこで、私の住む秩父に来ないかと、孫さんを誘った。
その時、私には1つの目算があった。それは、防災関係の会社を設立した私の教え子の笠原稔史さんが、1年前に3階建ての会社のビルを建てたところだったからである。1階には休憩室として和室が用意されていたが、そこはほとんど使われていなかった。ここからなら東京にも1時間半で行ける。
私は笠原社長に事情を話して、その部屋を孫さんに貸してくれないかと頼んだ。社長はすぐに了解してくれた。そこに移り住んだ孫さんは、たまに会社の仕事を手伝うくらいで、光熱費は会社持ち、食事も時々社長宅に招待されたり、奥さんの差し入れを受けたりといった厚遇を受けながら滞在し、3年後に帰国した。
私は、定年退職後は孫さんの学校を建てる仕事に協力することを約束していた。それはかつて自分が日本の軍国少年として育てられ、中国を敵視し、中国人を蔑視していたことの誤りを、歴史の学習を通して知り、何らかの行動を起こすことによって、精神的な清算をしたいと思っていたことに起因する。中国に学校を建て、若い人たちに将来の日中友好の精神を育むことができたら、それは単なる償いを超えて、有意義な発展を期することができるのではないか。
山村に学校を建てる
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2005年夏、長年援助している小学校や「里子」を訪問する訪中団を組織し、北京市平谷区を訪れた(筆者は左端) |
中学校教員の定年を迎えた1995年4月、私は笠原社長とともに、孫さんの待つ中国に渡り、孫さんの故郷である河北省石家荘市の賛皇県を訪れた。そこは太行山脈の中腹で、樹木の少ない荒涼とした地帯であり、農民の労働に対して自然の報酬の少ない地域だった。
しかし、人々は底抜けに明るく親切で、子どもたちの瞳は輝いていた。日本の経済発展のなかで、豊かすぎるほどの物資に囲まれた子どもたちが、そのことによって意欲が衰退させられている姿の、対極にある形だった。
この子らの学ぶ条件が整えられていないなんて、それは富を蓄積しているはずの人類の怠慢であり、罪である。県の文教局もそれを承知で、村々に学校を設立し教育の力による地域の発展を目指して、懸命の努力をしているところだった。
私と笠原社長は、とりあえず1つの小学校の建設資金の提供を申し出た。6月、私は退職金を手にすると再び現地に飛んだ。直ちに小学校の建設が着工され、村人総出の作業によって、その12月、3階建ての7教室、350人収容の総レンガ造りの校舎が完成した。
3階部分の壁面には、孫さんが友好を記念して、秩父夜祭の屋台と花火の絵を描いた。校名は軟棗会村中日友好小学。私たちが建設した日中友好学校の第1号校である。続いて、その下流の村に楼低郷中日友好中学、第3校は埼玉県幸手市議員の渡辺勝夫さんが中心となって建てた許亭郷中日友好中学、第4校は南延荘中日友好小学、第5校は黒石中日友好小学、そして第6校が中日友好東方中学である。
多くの人たちが賛同
第2号校以下は、私たちの呼びかけに応えたり、マスコミの報道を見聞して、積極的に協力を申し出たりした人たちからの資金提供によるものである。特に、日中戦争に従軍した兵卒としての償いの気持ちとして、30万、50万円と届けてくれた人が何人もいる。
冷静に考えれば、悔恨しか湧きようもない仕打ちを平然とやってのける人間を育てる間違った教育ほど恐ろしいものはない。まして、それが国家権力によって仕組まれた時には、国民全体が狂気となる。しかし、それも各国の人民同士が互いに交流を持ち、相互の理解と友好の関係を強めていれば、そのような権力の意図も未然に防ぐことが可能ではないか。
60年前までの日本の中国侵略は、歴史の発展途上において、日本人が閉ざされた環境の中で、偏狭なナショナリズムを煽られた結果引き起こした悲劇という側面が、強かったのではないだろうか。
今、日本の中には首相の靖国参拝をはじめ、侵略戦争肯定の教科書問題から憲法9条改悪の動きなど、予断を許さない状況があるが、だからこそ、このようないわゆる草の根の運動を強め広げていくことが大切だと考える。
相互扶助の考えを生かす
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小学校での寄贈式 |
私たちは多くの協力者とともに、贈った学校の子どもたちの学習条件を整えるために、日本の小中学校の児童生徒たちに、余った学用品の提供を呼びかけている。日本のあり余った文具を贈って、中国の子どもたちから元気をもらおうという、相互扶助の考えである。
集まった学用品は、協力者に学校や現地を見てもらうためにツアーを組んで、参加者の手荷物として運んでいる。かつて2回ほどコンテナで送ったところ、送料と関税のために割に合わないことがわかって編み出した手段である。航空会社の協力もあって、20人行けば約400キロの文具を運ぶことができる。「贈る旅」と称してこれまでに20回の旅で延べ400人ほどの人々を案内した。
「百聞は一見にしかず」というが、旅の参加者の協力態勢はさらに強まり、その方々を中心に就学困難な現地の子どもたちのために教育費を提供する教育里親制度を設立して、毎年120〜130人の子どもの援助を続けている。こうして、「贈る旅」は「里子訪問の旅」ともなって、そのたびにいくつもの感動的な出会いが生まれる。
日中間の歴史の清算がきちんとなされていないことによって、中国には全体といわないまでも反日デモに象徴されるような対日感情があることは事実であり、日本でもその感情を逆なでするような言動が時々立ち現れることも、また事実である。これを解決し、解消し、両国に真の友好関係を築くことができるのは、やはりより多くの人々の学習と交流をおいてはない。
そのために、中国の発展途上の地域に学校を建て、教育条件を整える活動を通して、日中両国の子どもたちの交流を図り、相互の理解と信頼を深めようと努めることは、教育を仕事としてきた私にとって、最もやりやすい仕事であり、またやらなければならない事業だと思う。
私は、これからの日中間の歴史を少しでも友好親善の方向に動かす一助にでもなればと願って、さらにこの運動を進めていくつもりである。(2006年3月号より)
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