日本の定年後の生活は、精神的にも惨めで貧しいと感じた私は、時をおかず、ゼロから中国語を学習し、将来は日中の友好に貢献しようと中国に留学した。そこで、中国版『ロミオとジュリエット』と言われる、日本であまり知られることの少ない美しい愛情物語、悲恋の伝説に出会った。それが梁山伯と祝英台の愛情伝説である。
これを卒論のテーマに選び、伝説の真相を解き明かそうと、中国各地を回り、その結果を中国語で論文にまとめた。これを日本語に訳し、日本僑報社の段躍中さんの薦めで出版し、日本に正しく紹介して根づかせようと、壮大な目標を立てた。
梁(山伯)祝(英台)の愛情物語の歴史は長く、中国民間の伝統文化の長い流れの中で、珠玉の如くきらきらと輝くものの一つである。その出会いは中国語の教材の中にあった一篇の文章であった。梁山伯と祝英台の悲しい愛情物語は、私を感動させた。しかし物語の内容に対しては、多くの疑問を持った。
これはいったい、いつの時代に、どこで起こった物語なのか。梁山伯はどこから歩き出し、途中のどこで祝英台に出会ったのか。教科書の文章には「杭州」という地名以外に何の記載もないが、痕跡はどこかに残っていないのか。17歳の祝英台は、女の身でありながら男装して学問をしに出かけ、その後、どこで墓に行き、蝶に化身したのか。その墓は一体どこにあるのか。
これら一連の疑問は、大きな興味を引き起こした。中国では、梁祝の物語は単なる愛情伝説という認識が大部分である。こうした状況下で、伝説の墓が存在するとされる中国各地を巡り、真実に迫った。
碑文に見る梁と祝
宋代の大観年間(1107〜1110年)、寧波府の知事だった李茂誠という人によって建てられた「義忠王廟記」の石碑の記載によれば、梁山伯は浙江省会稽(現紹興、寧波一帯)の人である。また梁山伯の出生年月と、彼のために廟が建てられた時期については、次のように記されている。
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寧波にある梁祝の墓 |
「梁山伯は東晋の永和8年(352年)の3月1日に生まれ、寧康元年(373年)8月16日に亡くなった。享年21歳で、まだ結婚していなかった。祝英台は浙江省上虞(現在の上虞市)の人で、嫁入りの途中、梁山伯の墓前で墓が裂け、蝶に化身した出来事は、374年の春のことである。梁山伯廟は397年に建設された」
また寧波の梁祝文化公園の展示室には、中国各地に、梁祝の墓が全部で10カ所、梁祝学問所が6カ所、その他に梁山伯の廟が1カ所あるという一覧表の展示がある。梁祝伝説が真実であるとすれば、墓は1カ所であるべきであり、また梁祝学問所もそんなに多くあるはずがない。しかもこの記載にある地点はすべて、それぞれ遠く離れた地点にある。
私は、この伝説の真実を明らかにしようと、梁祝伝説の歴史的研究、遺跡の実地踏査、梁山伯と祝英台の人物像を分析研究することを決意した。
寧波には、墳墓とともに美しくてロマンチックな愛情物語の主人公とは似ても似つかない梁山伯の銅像があり、それは深遠な理想を抱いて仕事をしている若者のように見える。梁山伯とはいったいいかなる人物なのか。
梁祝伝説が語り継がれる時間の中で消滅した、別の伝承があるのだろうか。
実地調査を始めた初期においては、私は梁祝愛情物語の真実性について、はっきりとした確信はなかった。最初は、大多数の中国の人たちと同じように、梁祝の物語は単なる単純な愛情悲恋伝説と考えていた。しかし、その見方は、徐々に変化し始めたのである。
「清官伝説」では
梁山伯と祝英台は、杭州に赴き、学校に入り、3年後に祝英台は上虞に帰り、やがて梁山伯も戻り、寧波・ギン県(梁祝伝説発生地)で、たった一年であるが役人になった。そして任務の途中、日夜の懸命な仕事のはてに、心ならずも亡くなったのである。
彼は寧波・ギン県で役人として清廉潔白であり、民を愛し、人々のために数多くの善行を成し、人民大衆の敬愛と崇敬を受けた。「義忠王廟記」の中には、彼の一生の事績が記載されている。
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寧波に建てられた梁祝の像 |
また、祝英台の婚約がすでに成立していることを知ったとき、彼は「男たるものはこの世にあっては立派な役人となり、さらに死後も人々の尊敬を受ける人になるべきであり、(思う女性と結婚できないという)こんな小さな事は、取るに足りない事である」と慨嘆したとされる。その後、知事に推挙され、若くして殉職した、と記載されている。
死後、民衆の間から、彼のために廟を建設しようという話が持ち上がった。祝英台は、親の決めた嫁入りのその日(374年)、在学中から恋い焦がれていた梁山伯の墓前で、覚悟の自殺をした。
周囲の人々はこれに同情し、二人は合葬された。この事を、石にまで刻んで後世に伝えるということは、よほどのことであったのだろう。李茂誠本人も、一度は寧波府の知事であったことから考えると、彼自身の管轄区域内に伝わる人民を感動させた伝説をよく理解し、あるいはまた梁祝の美しい愛情伝説に自ら感動したのであろう。
そしてこの伝説の由来を調べ始め、はからずも人々にあまり知られることのない別の一面を見つけ出したのではないか。自らも清廉潔白の傾向のあった李茂誠は、この伝説に対し粛然と襟を正し、この一文を石碑に刻むという挙に出たと考えられる。
梁山伯の清廉潔白な役人としての数々の事績に、自らも朝廷に仕える役人として憧れと尊敬の念を抱き、事績を石に刻み、自らの思いと敬意、憧れの情を梁山伯に託したのである。なんとこの故事は愛情伝説ではなく「清官伝説」なのである。
梁祝の愛情物語の背後には、一人の偉大な人物と、認識し直さなければならないものが、隠されているのである。
もしかすると支配者側は、梁山伯の清廉潔白なイメージがあまり喧伝されるのを好まず、後に、愛を貫いた祝英台の節操の側面を言い広めたのかもしれない。このために梁祝の物語が愛情伝説とされ、全国各地に広く伝播し、その影響で梁山伯のイメージが、一般民衆の苦しみに共感を寄せる、清廉潔白な役人としての一面を凌いでしまったのである。(2006年8月号より)
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