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平泉の発掘現場で発掘作業中の筆者 |
はじめて平泉の発掘調査に参加したのは、1985年の春のことだった。
それまで数千年前の縄文時代の遺跡の調査しかしたことがなかったため、出土した白磁碗の破片を見たときは驚いた。そのあまりの見事さに「本当に当時のものだろうか?」と疑ったほどである。実はこれと同じ印象を、往時の人々も間違いなく持っていたと、後から気づくことになる。
12世紀の百年間、奥州藤原氏の拠点である平泉は、日本の中で有数の都市だった。平泉をそこまで押し上げたものは、藤原氏の政治力と膨大な量の砂金であった。平泉から発せられた金は、国内を巡り、やがて中国にもたらされた。のちにマルコ・ポーロにより記された『東方見聞録』に見える「黄金島チパングの宮殿」は、平泉中尊寺の金色堂のことともいわれている。
莫大な富を背景にした平泉には、多くの物資が集まった。それは、国内のものにとどまらない。象牙や東南アジア産の木材である紫檀などが、金色堂に使用されている。
それらの中で、中国から輸入された陶磁器について紹介したい。かつて中国産陶磁器は、産地なども分からず、さらに流通経路も判然としないことから、「もの言わぬ」陶磁器とされてきた。しかしながら日中の研究者の努力により、今はなかなか「おしゃべり」になってきている。はたして中国産陶磁器は、何を語っているのだろうか?
中国各地の窯の陶磁器 12世紀に限定するならば、平泉は、中国産陶磁器の出土量では、博多と京都に次いで第3位を誇っている。輸入港である博多、首都の京都に準ずるというのであるから、当時の平泉の特異性がうかがい知れよう。
陶磁器に「しゃべらせる」のは骨が折れた。出土した何千点という破片を整理し、さらには東京の博物館が所蔵している中国の窯から採取された破片と見比べる。気の遠くなるような作業だった。それらの地道な検討によって、やっと陶磁器片たちは「しゃべり」出したのである。
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白磁水注 |
磁器では白磁や青磁や青白磁、陶器では黄色や褐色や緑色の釉薬をかけたものが多い。器種としては、白磁は壺類と碗や皿、青磁は碗や皿、青白磁は碗や皿や瓶、陶器は多くが甕であり、まれに大皿が含まれる。
白磁は、福建省の徳化窯や福州窯で焼かれたものが半数以上を占め、次いで広東省の潮州窯と南部のものが多いが、まれに北部の河北省の定窯製品も見られる。全体的に数が多くない青磁は、江西省の龍泉窯で焼かれたものが多く、少数派として福建省の同安窯製品もある。
高級品の青白磁の多くは、江西省の景徳鎮のものである。陶器の大半は福建省や広東省で作られたと推定されているが、窯まで特定できているものは少ない。少数ではあるが、河北省の磁州窯や江西省の吉州窯の陶器壺も認められている。
12世紀後半、福建省で焼成された白磁水注(高さ25センチ)は、完全な形で出土した(写真)。4半世紀にわたる私の発掘調査人生の中で、最高の出土品である。今でも発見したときのあの感激は忘れられない。発掘品で破損していないものは珍しく、さらにその美しさから重要文化財に指定されている一品である。
権威の象徴だった陶磁器 当時の日本国内では、わずかに釉薬をかけた陶器の壺を作るのが精一杯であった。国産の磁器を生産できるようになるには、さらに400年の歳月が必要だったのである。ガラス質の磁器を初めて見た時、当時の人々は私と同様に、非常に驚いたことだろう。それらを入手できる階層は、その地方の経済と交通を掌握している有力者のみである。藤原氏はまさにその代表格であった。
藤原氏は、多くの中国産陶磁器をさまざまな場で使ったはずである。そして初めてそれを見た人の目には、中国産陶磁器そのものが、権威の象徴として映ったことだろう。日本では作りえない中国産陶磁器は、それを持つことができる人々の権威そのもの、すなわち「威信財」だったのである。今もよく見られるが、高価な壺などを床の間や玄関先に飾ることにも似ている気がする。
陶磁器は何を語る 平泉には、中国の南北からの陶磁器が集まっていた。これは、中国国内に、各地の陶磁器を輸出するための基地があったことを示している。その場所は、当時の明州、現在の寧波である。
当初は6000帖ほどあったうちの一部の『宋版一切経』が、中尊寺に伝えられている。その中には、「明州城下吉祥院大蔵経」という朱印が認められるものがある。明州の吉祥院に一時期収められていたものが、何らかの理由からその後、中尊寺にもたらされたものであることを示している。
陶磁器に限らず、さまざまな文物、さらには文化やイデオロギーまでもが、中国から平泉に伝えられたのであった。人類すべてが平等である平和な社会の建設という藤原氏が求めた壮大な理想は、広大な大地の中国からもたらされたものと考えるべきだろう。
平泉から出土する中国産陶磁器は、国際交流の証であり、さらには「威信財」として使われた。中国側から見るならば、生産地から出荷港へのルートや船、それらを運ぶ集団など、貿易業が中国国内ですでにシステム化されていたことを如実に物語っている。
中国産陶磁器研究は、いまだ道半ばである。それでも両国にとって貴重な事実が数多く判明している。奇しくも平泉も寧波も現在、世界遺産登録を目指している。往時のように日中両国がさらなる協力をし、多くのことを研究するような環境を実現できれば、まだまだ陶磁器は面白いことを「しゃべる」に違いない。(2007年4月号より)