チベット自治区レプン寺・ショトン祭り
車がラサ西郊に12キロほど進むと、ゴンウズェ山のふもとに、巨大なチベット式の建築群が見えた。チベット仏教の一派であるゲルク派四大寺の一つ、レプン寺である。チベットの歴史上、最大規模で、かつては一万人以上もの僧侶が暮らしていたレプン寺は、広く名前を知られている。毎年8月(チベット暦では7月)、レプン寺ではショトン祭りが開催される。 ショトン祭りは、チベット語では、「ヨーグルト祭り」の意味になる。11世紀、仏教の不殺生の教えを守るため、十数日にわたる長浄の間、僧侶たちの外出を禁じ、地上の生命に害が及ばないようにしたのが起こりという。この期間、寺では開帳が行われ、信者たちはヨーグルトを用意して喜捨した。ダライ・ラマ5世の治世の間、ショトン祭りは次第に変化し、ヨーグルトを飲むほかに、チベットの伝統劇や、歌舞が行われるようになった。それは次第に、ラサのノルブリンカ離宮とポタラ宮に場を移して開催されるようになり、宗教的行事から大衆の祭りとなっていった。そしてレプン寺には、大タンカ(チベットの仏画)の開帳の儀式だけが残されることになった。ラサのショトン祭りは、いまもこの開帳の儀式を祭りの序幕としている。
開帳の際には、1年のあいだ秘められていた巨大な仏像が姿を見せる。文物保存の上からいえば、こうして陽のもとにさらすことは、カビや虫害を防ぐことになる。また、それ以上に重要なのは、巨大な巻物の仏像を僧侶と信者たちに拝ませる行為にある。巨大なタンカは、天然の鉱物顔料で染めた糸を使って刺繍した巻物である。それは少しも退色しないまま色鮮やかで、特別に貴重な品といえる。 開帳の日、東から太陽が上り大地に日が射した瞬間が、タンカを広げる時となる。開帳はまた「仏を晒す」とか「タンカを晒す」という言い方をされることもある。チベットには、大小の寺院が数百あるが、開帳を行う寺院はわずかしかない。だからこの行事は寺院の財力と、規模の大きさの証明でもある。 伝説では、当時、レプン寺の僧侶たちは彼らの信仰心を表すため、当地の刺繍が巧みな少女たちを集め、81日をかけて仏像の刺繍を仕上げ、それがレプン寺の宝となった巨大なタンカとなったという。
8月22日のショトン祭り、私が早朝に起きあがり、カメラやフィルムなどの準備をすませたところで、旧友であるチベット自治区林業庁、アブ庁長が迎えに来た。彼は、もとアリ地区の行政専署に勤めており、九七年、私がアリに取材に行った時に知り合い、写真好きの彼と私は友人になったのだ。七時前(北京時間でいうと5時前になる)私たちは出発した。 思いもかけないことに、ラサを出たところで、道路は混雑し始め、乗用車、ジープ、ミニバン、ミニバス、三輪車、自転車などで押し合いへしあいになった。これらの車もみなレプン寺の開帳を拝みに向かうということだった。 レプン寺は、チベット語で「山積みの米」という意味になる。寺の建物は白が基調に使われ、山の中腹まで米が積み上げられたようにみえる風景は、豊穣の象徴でもある。 寺の創建は1416年、総敷地は25万平方メートル。山肌にそって建物が連なり、一棟また一棟と高くなっていく。廻り廊下や細い石畳みの道に、石壁、石の建物が連なり、堅牢そのものだ。 緑に包まれた白い建物は土色の山に溶け込んでいるが、高原の強い光が雲の層を透かして差し込んでくると、屋根の金色の飾りに反射して光輝く。ほのかな光から鮮やかな色彩への移り変わりが、レプン寺にいっそうの神秘を添える。
曲がりくねった石畳の小道をすすむと、そこは寺院の背となる山肌になり、ここで開帳が行われている。遠くから望むと、青い煙がたちのぼり、清らかな香りが漂っている。これは信者たちがチベット語で「ワイサン」と呼ぶ低木で、この木を燃やして参拝する場面はチベットではよく見られる。 開帳のための巨大な台は十数メートルもの高さで、数キロ遠くからでもその姿がみえる。 すでにタンカの上部は台の上部にとりつけられ、そのまわりは、人でごったがえしていた。中心に向かって進むと、人々の歓声があがるなか、総重量は半トン近い絹刺繍のタンカが徐々に広げられ、集まった人々は次々と手中の「ハタ」をそれに向かって捧げた。タンカに近い人々はそれをさすり、さらに多くの信者たちは、手を胸の前に組み合わせ経文を唱え祈りを捧げる。五体投地で祈りを捧げる人もいる。また仏像や仏典が印刷された色鮮やかな紙を空中に投げる人もいる。歓声のなか紙が舞う光景は、実に美しい。 やがて仏像の足元は、人々が捧げた「ハタ」で埋まる。像とその周りの人々の身を守るため、年若い僧侶たちは、ひっきりなしに押し寄せる人々をとどめ、その場の秩序を保とうとする。 台の下の坂は、平地になっており、そこは人垣で二重三重にも取り囲まれている。やっとのことで人ごみをかきわけて進むと、5、60平方メートルほどの平地の上に20人ほどの僧侶が仏像に向かって座り、目を閉じて念仏を唱えている。
伸び上がって見ると、銅製の壷を抱えた僧が人々に聖水を与えているところだった。人々は先を争って聖水を手で受けようとする。手でうけた聖水は指からこぼれるが、なかには、口で聖水を受け、一滴も無駄にしまいとする人もいる。聖水を得た人々は喜びいさみ、余った水を顔や頭にかける人もいる。 この場面を見た人は、それが信者であれ、ただの観光客であれ、みな慰めと満足を得る。たとえそれが一時のことでも、かまわないのだ。 青い煙のなかから現れる寺院、金色に輝く絹織物のタンカ、山谷にあふれる数万人の信者は、それ自体が神秘的な絵巻物のようである。 私も身をかがめてタンカにそっと触れてみた。仏の姿は美しく、チベット族の知恵を結集した傑作であることが感じられた。(2001年9月号より) |