35年の敵楼が続く長城の粋
北京・司馬台

写真 文・劉世昭

 

 

 

 

 カメラを職業とする私だが、撮影の勉強を始めた当初から万里の長城には特別な思いがあった。記憶をたどるとそれはもう二十三、四年も前のことになる。晴、雨、雪、霧と様々な天候のもと長城を撮った。長城はどんな天気でも魅力的だったのはもちろん、初期に撮っていた白黒作品でも、後から撮りだしたカラー作品でもそれぞれの美があり、今もそれが目の前に蘇ってくる。

 長城に特別な思いを抱くなというほうが無理だろう。長城は、広大な中国の大地を東西に走る古代の城壁であり、人類史上最大の建造物である。それは中華民族の精神的シンボルなのだ。

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 万里の長城の「万里」は、約5000`だという。ただし、考古学者の研究によれば、現在までに発見された長城の遺跡を加算していくと、なんと約5万`にもなるという。中国の大地の至るところ――新疆、甘粛、寧夏、陝西、山西、内蒙古、北京、天津、河北、山東、河南、湖北、湖南、黒竜江、吉林、遼寧など、16の省、直轄市、自治区に遺跡がある。最近では南方の雲南省弥勒県でも300`もの石堤の遺跡が発見され、長城と呼べるのかどうか、専門家の判定が待たれているところだ。

 長城の築造はいつ始まったのだろう。史書『左氏伝』には紀元前656年、春秋五覇の一人、斉の桓公(かんこう)が諸国を率いて楚を攻め、楚は数百里の方城を築き敵を防いだとの記述がある。斉の桓公は最後には講和し、退軍を余儀なくされた。専門家は、方城が万里の長城の始まりであるといい、そうならば長城の歴史は2600年以上ということになる。

 長城が紛れもない「万里の長城」となったのは、秦の始皇帝が6国の統一を成し遂げてからだ。紀元前221年、秦は中国史上初の強大な中央政権制封建国家をうちたてた。始皇帝は、国境を固め北方の匈奴を撃退するため、前215年、将軍・蒙恬が率いる30万の大軍を遣わした。その後、30万の兵士と50万の人夫を徴用し9年の歳月をかけて、秦、趙、燕の三国が築いた長城の基礎の上に、西は臨とう(現在の甘粛省岷県)から東は遼寧東部にいたる五千`を超える長城を築いた。

 秦以降、漢、北魏、北斉、北周、隋、遼、金、明と各王朝では長城の築造が続き、なかでも漢代と明代には大規模に行われた。

 漢代に築造された長城は、もっとも長かった。新疆のロプノールから甘粛に沿って、内蒙古、さらに黒竜江省西部までに至り、全長はほぼ一万`となった。

 長城は数々の唐詩に描かれている。
 長風幾万里、吹度玉門関。
 (長風幾万里{ちょうふういくばんり}、吹き度{わた}る玉門関{ぎょくもんかん} 李白『関山月』)
 勧君更進一杯酒、西出陽関無故人。
 (君に勧む更に尽くせ一杯の酒 、西のかた陽関を出ずれば故人無からん 王維『渭城曲』)

 明の太祖は北方のタタール族と東北地方の女真族の脅威に備えるため、建国直後から長城の築造を開始した。以来百年の歳月をかけて、西は甘粛省嘉峪関(かよくかん)から東は遼寧省鴨緑江にいたる長城が完成した。今私達が目にすることができる比較的保存状態がよい長城は、ほとんどが明代に築造されたものである。嘉峪関、山海関、八達嶺、居庸関、古北口、いずれも絶景を誇る有名な場所だが、なかでも古北口長城の一部、司馬台は壮大な眺めで知られている。長城の粋と呼ぶことができるだろう。

 北京では長城の「通」は司馬台に行く。私は1977年からもう十数回訪れているが、少しも飽きず、毎回次に訪れたい場所を残して引きあげることを繰り返している。昨年秋も一人司馬台を訪れ、夜は城壁の上で過ごした。

 司馬台は北京中心部から北へ約140`、密雲県と河北省らん平県の境にある。明の洪武元年(1368年)築造が始まり、今にいたるまで当時の長城の風貌をとどめている。5.4`にわたる長城に、35の敵楼(敵を見張るために守備兵が住むほか、食糧、武器の貯蔵庫としても使用する建物)がある。1987年、ユネスコは司馬台を中国の長城を代表するものとして世界文化遺産に指定した。

 司馬台長城は、鴛鴦湖を境界として、東西に分けられる。東辺と西辺を比較して、西は秀麗、東は荘厳な味わいがあるといわれる。一方を女性的、一方を男性的とも言い換えられるだろう。

 西辺に登ると、長城は山の連なりに沿って複雑なカーブを描きながら走り、そこには18の敵楼が建てられている。ある場所は上伸し、ある場所は下伸し、ダイナミックな変化が素晴らしい。司馬台は、後に修復されていないので、今も600年前の風貌をそのまま留めている。歴史の風雪を経て損なわれた場所も、比較的原形を留めている場所もある。

 司馬台の敵楼には様々な特色が見られる。

 敵楼は一層、二層、三層と楼によって階数が違っている。おそらく当時それぞれの敵楼を守った軍人の官位の違いによるのではないかと私は想像している。敵の様子を偵察したり、矢を射るために、敵楼には射眼がある。この数も少ないものは一カ所、多いものは五カ所になる。当地の人々はこれらの敵楼を区別して、単眼楼、双眼楼、三眼楼、四眼楼、五眼楼と呼んでいる。

 よく観察すると、城壁のレンガの製造年号と担当した軍隊の名前が刻まれていることがある。例えば「万暦五年山東左営造」「万暦五年寧夏造」など。

 長城の上を歩いて移動すると、時には敵楼の手前で壁が分断されているのに出くわすことがある。そうしたところでは一度長城を下り、城壁の内側に設けられたアーチ型の門から城壁内に入り、細い通路を通って敵楼の下までいく。そして梯子を使ってようやく敵楼の門にたどりつける仕組みになっている。こうした工夫によって敵楼の防衛能力は強化されている。麒麟楼と呼ばれる鴛鴦湖から 13番目の敵楼には、麒麟の浮き彫りが施された影壁(目隠しの塀)がある。私は勇んでそこに向かっていったのだが、その場に到着して初めて、敵楼に上がるには3b以上もの梯子が必要なことが分かった。大汗をかいてたどりついた私は、まるで長城からバケツ一杯の冷水を浴びせられたような気分になった……。

 鴛鴦湖から今度は東辺に進むと、「障墻」(ジャンチィアン)と呼ばれる独特の仕組みが見られる。

 長城は普通、その上を兵士や馬が移動できるほど厚い城壁になっているが、司馬台では山の傾斜が非常に険しい場所では、「単面墻」(ダンミィエンチィアン)と呼ばれる薄い壁が設けられている。「単面墻」の内側にはドミノ牌のように、さらにまた壁が何枚も並べられている。こうした壁を「障墻」と呼ぶ。前方から敵が攻めてきた場合、兵士は「障墻」を防御壁として抗戦するため「障墻」には射眼がいくつも開けられている。

 東辺のいちばん険しいポイント天梯(てんてい)では「障墻」がつらなり、そのわきの幅わずか四十aの階段を使ってようやく上に登ることができる。「障墻」はこうして通路をふさぎ、攻守ともに有利になる仕掛けでもある。

 「天梯」の傾斜は約60度。隣に目をやれば深さ100bの崖である。登る時は四つんばいになり、足元をしっかり固め、両手で石をつかみ、そろりそろりと重心を移す方法しかない。もし手をすべらせでもしたら……その結果はあまりに恐ろしい。だからわずか200bの天梯をのぼるのに30分以上はかかってしまう。

 天梯をすぎると、次は天橋だ。ここはカルスト地形の一部として形成された洞窟の上に築かれた長城で、司馬台だけに見られる非常に珍しいものだ。100bほどの長さだが、幅はわずか40a。丸木橋でも渡るかのように慎重に移動するしかない。このような長城を渡るためには敵軍も一時休戦せざるを得ないだろう。

 天橋を過ぎると、山上には敵楼が集中している。明代の規定では、一里(500b)ごとに敵楼を建てるとされていた。ただし司馬台では、敵楼は100〜200bごとに建てられている。なかでも東辺では、敵楼と敵楼の間の最短距離は、わずか43・8bという場所もある。

 敵楼の間の複雑にまがりくねった城壁を進むこと四時間、ようやく最高地点の望京楼につく。海抜986bの望京楼からは、夜には北京中心部のネオンが見えるという。

 司馬台に行く人は誰でも望京楼をめざし、到達すると誇らしい気持ちになる。この場所にいたるのは簡単なことでなく、勇気と脚力が必要とされる。数年来、転落死亡事故が一度ならず起きているのだ。それでもここに魅せられ訪れる人は跡を絶たない。もちろん私もその一人というわけだ。

  望京楼から四方を眺めると、透き通る青い空のもと野の花が咲き乱れ、ここは仙人の住む場所では……ふと、そんな思いもわいてくる。西方を眺めると険しい山並に沿って長城が走り、その先は空のかなたに消えていく。私も仙人になったかのようで、路上の苦労や恐怖もどこかに飛んでしまう。

 これこそ私の長城、私達の長城。――気がつけばそんな言葉が心に浮かんできた。(2001年1月号より )