安徽省・宏村、西逓
民家の「博物館」

写真・ 文 劉世昭

 
 

 

   

   安徽省の南部は、その昔「徽州」と呼ばれた。二千年余りの歴史を持ち、9800平方キロの広さを誇る徽州には今も、明、清代の民家建築が5000軒ほど残されている。とりわけ人々を魅了してやまないのが、古い民家の「博物館」と称される安徽省イ(黒に多)県にある二つの村、宏村と西逓だ。2000年にはここが、ユネスコの世界文化遺産として正式に登録された。  

 徽州は古来より、多くの名士を生み出した地として知られる。宋の理学者・朱熹、清の哲学者・戴震、商人・胡雪岩、近代の鉄道工事専門家・・天佑、画家・黄賓虹、教育者・陶行之、文学史学者・胡適など、徽州出身の名士は枚挙にいとまがない。また明、清代に繁栄をきわめた「徽商」(徽州の商人)は、この地の文化的発展に貢献した。それは、新安理学、新安画派、新安医学、徽派建築、徽派篆刻、徽派版画、徽派三彫(木、石、レンガの彫刻)、徽劇、安徽料理、徽墨などに代表され、世界的にも影響を与えた中国三大地域文化(その他はチベット文化、敦煌文化)の一つ「徽派文化」の形成にも、大きな影響を与えたのである。

 宏村を訪ねると、村の南側に位置する大きな湖にクギ付けになった。長さ200メートル、幅40メートルの弓形の湖で、土地の人たちに「南湖」と呼ばれる。岸辺には巨大な古木が生えそろい、そこから向こう岸を見渡すと、民家の濃灰色の瓦としっくいの白壁が湖面に映り、まるで一幅の水墨画のよう。人々が「中国画の村」と親しむのもうなずける。

  湖岸に残る往時の私塾「南湖書院」(別名「以文家塾」)は、清の嘉慶19年(1814年)に住民の出資によって建てられた。格子造りの玄関をくぐると、そこが書院の大広間「志道堂」(講義が行われた部屋)である。広間の梁には「万世師表」(孔子は永遠の師)と四文字で記された扁額が、両側の木柱には木彫りの対聯(吉祥の対句を書き分けたもの)が、それぞれ掲げられていた。往時の書院をしのんだ対聯には、「漫研竹露裁唐句 細嚼梅花読漢書」(竹や梅の花を前に、唐詩を詠み、漢書を読む)という風雅なものもあった。正面の壁には、封建時代の道徳思想「朱子治家格言」が掲げられていた。

 さらに奥へ進むと、書生たちのために孔子の位牌を祭った文昌閣があった。このほか、啓蒙教育や文人たちの集会のために使われた場所も含めて、書院の敷地総面積は6000平方メートル余り。記録によれば、17世紀半ばに南湖の附近には六カ所の私塾があり、「倚湖六院」と呼ばれたという。宏村は小さな村だが、三、四百年も前の人々が、いかに教育を重視していたかがわかる。

 村の中心部へ向かうと、路肩に石で築かれた水路が続き、清らかな水が流れていた。住民たちがその水を使って、洗濯をしたり、野菜を洗ったりしていた。「牛腸水セン」(牛の腸のような水路)と呼ばれるその水路は、明の永楽年間初め(1405〜1407年)、土地の人々が地勢の落差を利用して、西の渓流と東の地下水をこの地に引くため、築いたものだ。これにより、人々は便利で快適な生活を得たばかりか、火災などの被害も免れることができた。

 宏村で最も雄大なサユ派古民家建築が、「民間の故宮」と親しまれる承志堂だ。歴史上からも明、清時代は徽商の繁栄期だが、承志堂は清末の塩商人・汪氏が、咸豊五年(1855年)に建てた住宅である。

   

 役人と商人の一体化が特徴だったサユ商は「故郷に錦を飾る」ため、ふるさとに豪邸を建てるのが慣わしだった。承志堂の玄関を入り、中庭の八字門(八字形の門)を抜けると、ようやく主体建築の門楼(屋根付きの門)の前に出た。どっしりと構えた門楼は、なんとも威厳があった。レンガと材木で造られた建物の上部には、レンガや材木、石を用いた精巧なレリーフが施されており、当時の主の豊かさやこだわりのほどがうかがえた。レリーフには戯曲や故事、民俗の祭事、吉祥動物、書の対聯などの内容が、それぞれに刻まれていた。「文化大革命」が始まった1966年、人々はレリーフに泥を塗り、その上に毛沢東語録を張りつけたため、結果的にはレリーフが最良の状態で保存された。その後、86年に泥が取り除かれて、レリーフが再び日の目を見たのである。

 一方の世界文化遺産・西逓は、宏村の南から約15キロに位置する。村の入り口にそびえる石牌坊(鳥居の形をした石の牌楼)は、一キロ離れた外から見てもそれとわかる大きなものだ。明の万暦6年(1578年)に神宗皇帝の批准を受けて、四品朝列大夫(朝廷役人)・胡文光のために建設された。明、清代当時、西逓にはこうした石牌坊が十五カ所あったが、歴史の変遷を経て現存するのはこの一カ所だけとなったという。

 西逓村に入ると、徽派民家の「博物館」に足を踏み入れたかのようだった。小道に面して古い家屋が建ち並び、しっくいを塗った白壁や濃灰色の瓦、ひめがきや玄関上部のレンガのレリーフなど、いずれも徽派民家の特徴をよく表していた。

 唐代末期、昭宗皇帝の太子・明経は反乱から逃れて西逓へたどり着き、胡姓に改姓した。その子孫がここで繁栄し、西逓の歴史を築いた。それでここでは先祖の祭祀が重視され、宗族の祠堂が村の至るところに建てられたのだ。祠堂はまた、大きさによって宗祠、総支祠、分支祠、家祠の四種に分かれる。歴史的に徽商は、商いで富を得て官吏になった人が多く、出世したら必ず故郷に祠堂を建て、先祖を祭った。西逓の商人も例外ではなく、最も栄華を極めた時にはここに二、三十カ所もの祠堂が築かれたという。現在は、完全な形で残るのは、わずか四カ所しかない。

 民家の中に入ると、整然と区画された間取りが印象的だった。中央に広間が、両側に左右対称の寝室があり、また、どの家にも吹き抜けの方形の中庭があった。自然の明かりを取り入れ、風通しをよくするためである。庭には明代に造られた水路や、下水道もあった。

 路上から民家全体を眺めると、二階の窓の多くが小さいことに気がついた。地元の人に聞くと、「昔、男は商売に出たきり、何カ月も何年も帰ってこないことがあった。それで、妻の浮気を防止するため舅姑が階下に住み、二階の窓も小さくして出入りを禁止した。この辺一帯の牌坊には、貞女や烈女を称える『貞女坊』や『烈女坊』も多いのですよ」と教えてくれた。

 大きな窓の家もあったが、それはみな新しい建物だという。「小さな窓」にも「大きな学問」があり、時代の証にはこれほど強烈で深いものがある、と認識を新たにした。  村の商店には、直径約10センチ、厚さ5センチの中央がくぼんだ丸い食べ物があった。西逓特産の臘八豆腐だ。焼いた後、塩漬けにして乾燥させるため、出来上がるまでには約半月もかかる。試食してみると、歯ごたえがあり甘辛く、なんともいえないおいしさだった。

 臘八豆腐の由来も、徽商と関係があった。その昔、人々は商売で走りまわると食事がろくに取れなかったので、日もちがよく、栄養価の高い携帯食として、この臘八豆腐を「発明」した。今日では、西逓の特産として知られるようになった。西逓をたつ時、私のカバンの中にも臘八豆腐が数枚、収められた。

(2001年7月号より )