写真 文・馮 進 |
「チベットへ行こう、ポタラ宮へ行こう……」。機内には、旅情をそそる美しい歌声が流れた。北京発ラサ行きの旅客機4112便は、定刻どおりに北京空港を離陸した。チベット平和解放50周年にあたる今年、「聖地」といわれるチベットのポタラ宮を取材する機会にめぐまれた。
エアバスがラサのクンガ空港に降りたつと、すでに私の胸は高鳴りはじめた。緩やかにドアが開き、機内にまぶしい陽光が差しこんだ。ゆっくりとタラップを降りると、純白のハダ(薄絹)をささげ持った人たちが飛んできて、あっという間に取り囲まれた。敬意と慶賀を表す、チベット族の歓迎のマナーだ。ハダを首にかけてもらい、藍天白雲と雪山を眺めるうちに、ようやくチベットに来たという実感が沸いてきた。 チベット自治区は、中国西南部の辺境に位置する五大自治区のひとつである。面積は、国土面積の8分の1にあたる122万8400平方キロ。平均標高が4000メートル以上あることから「世界の屋根」と呼ばれている。旅行者や探検家たちが、シャングリラ(理想郷)として恋こがれる場所である。
ラサ市にそそり立つ宮殿(寺院)のポタラ宮は、チベットの仏教文化の中心で、敬虔なチベット仏教徒や、世界各地の参拝者の聖地でもある。彼らの多くが、何年もかけて五体投地(三歩進んでは全身を地に投げ出し、合掌する仏教徒の最高の礼法)を繰りかえし、ポタラ宮参りのためにはるばるやってくるのだ。夜明け前には、ポタラ宮の周りを参拝する人の波が、チベット第一の川・ヤルツァンポ川の流れのように途絶えることはない。
ポタラ宮という名は、仏教からきている。チベット仏教によれば、古代南インドの観音菩薩の住む山を音訳した「普陀」からとられた。『チベット図考』には、こう記されている。「普陀山に三つあり、一つはエナト国の南海にあり、これすなわち普陀なり。二つが浙江省定海県にあり……、三つが図伯特の布達拉にあり、これすなわち観音の化現(仏や菩薩が衆生を救うために、さまざまな姿を現すこと)の場なり」と。この「図伯特の布達拉」が、チベット・ラサのポタラ宮を指すという。 ポタラ宮の造営は、633年に始まる。当時すでにチベット高原の各部落を領有し、統一王国吐蕃を樹立したソンツェンガンポ王は、都をラサに定め、紅山の頂に壮大な城塞を建てた。これが最初のポタラ宮である。
その後、ポタラ宮が再建されたのは17世紀、五世ダライ・ラマのときだった。1645年、五世ダライが政務と宗務を執り、執政官ソナム・ロテンが紅山の遺跡の規模を拡大した白宮を主とする宮殿建設をとりしきった。1653年に再建されたポタラ宮は、このときから、歴代ダライの住居兼チベットの政治・宗教の中心地となった。 1682年、5世ダライがポタラ宮で円寂した。1690年2月、執政官サンゲギャンツォは、五世ダライの霊塔と霊廟の工事をとりしきり、同時に紅宮の拡張建設を始めた。史料によると、各地から集められた工匠と人夫は5700人余り。絵画や彫刻、石造、鋳造、鍛冶、金・銅細工、象眼、縫製、紡績、建築などの工匠1760人、また清の康熙帝が派遣した漢民族の職人百十四人。隣国ネパールからも工匠たちがやってきた。
建築面積は13万平方メートル。陸屋根の高層建築が、複雑に入り組んでいる。宮殿、霊廟、仏殿、経堂などのほか、住居と要塞の用途をあわせもつ、チベットの伝統的な建築様式が施された。また、漢民族の工匠がデザインや施工にかかわったため、梁柱の彫刻や、とがた(柱の上に設けられ、棟木を受けるための方形または長方形の木)、天井の装飾など、漢民族の伝統様式も用いられた。一部にはネパールの建築様式も取り入れられたという。 宮頂には、金メッキ銅瓦の六つの金殿、金塔などがあり、金殿の屋根の先には神獣の像や金メッキの共命鳥、塔式宝瓶などが施されていた。また金色の経幢(六角形または円形の石柱に仏号や経文を刻んだもの)が一列に並び、陽光を受けて、さんぜんと光り輝いていた。
紅宮は、ポタラ宮の中央に位置する。主に歴代ダライの霊廟や仏殿で、様々な仏事が行われた場所だ。ここには霊塔が八基(5世と7世〜13世のもの)建てられている。とくに5世と13世の霊塔が最大で、塔の高さは14メートル以上。史料によると、13世の霊塔には金1万8千両余りが、5世の霊塔には金11万両がそれぞれ使われた。霊塔に象眼された各種の宝石は、使われた金の十倍以上の値打ちがあるという。
(2001年9月号より) |