写真 文・馮進 |
山西省中部に位置する平遥は、悠久の歴史と文化に彩られた古い街である。西周時代の宣王年間(前827〜前782年)に興され、すでに2700余年の歴史をほこる。
さらにさかのぼれば新石器時代、人類の祖先がここに生息していたという。また、伝説上の五帝の一人・堯が、ここを初めて領地にしたと伝えられることから、古くからその名を馳せた。 紀元前221年に中国が「郡県制」を敷いて以来、ここは県の都・県城(県庁所在地)となった。「礼」(規則、制度)を基本とした街のつくりは整然としている。城壁で四角に囲まれた街のつくりは、中心線を軸として左右対称に配されている。築城のための第一級の制度規範を忠実にまもり、つくられた街だ。それは、明・清代の漢民族の歴史と文化の面影を、完全なまでに今に伝えているのである。 山西省中部地方は、土地面積が少ないわりに人口が多く、土地もかなりやせていた。そのためここの人々は、外地に赴き、商いにいそしむことで生計をたてた。その足跡は全国にわたり、絹織物や染料、特産物や骨董品などの商いをだんだんと牛耳るようになっていった。
漢代にいたると、平遥は物資の集散地として栄えた。明・清代には、山西省の商人である「晋商」と安サユ省南部の商人「徽商」が、「中国二大商人」としてその名をあげた。 晋商は、とりわけ商いに長けていた。1670年ごろには、その勢力範囲を北方から南方の江南地方へと広げ、地域を超えた経営組織システムを徐々に確立していった。昔、民間ではこんな言葉がはやったという。「スズメのいるところに、平遥人あり」。そこからは、平遥の人がいかにたくさん全国を回っていたか、その経済がいかに発展していたかがわかる。 清代半ばの1823年、物流と貨幣運用の需要から、顔料問屋の主であった雷履泰の建議が通り、顔料問屋は金融機関に生まれ変わった。それが中国最初の金融機関「日昇昌」である。これにより、平遥は中国最大の金融中心都市となった。大規模な金融取引が行われ、各地の物資が流通し、平遥経済はいっそう発展したのである。
平遥はかつて、「物資が入れば、すぐに出て行く平遥城」「小北京」などと呼ばれたが、それは当時のようすを明らかに写し出している。また経済発展が功を奏し、古城の建築や保護が積極的に進められた。
新中国成立後の1960年代、平遥古城の城壁は、省クラスの重点保護文物に指定された。70年代後期、国家は巨額の資金を投じて、平遥の修復プロジェクトをスタート。80年代には、国務院(中央政府)により、ここが全国重点保護文物に指定された。その後も、城壁や堀を原型通りに直すため修復作業が続けられ、1993年、城壁の壁部分の修復が基本的に終了、97年には平遥の「一城両寺」(平遥古城、双林寺、鎮国寺)が、ユネスコの世界文化遺産リストに登録された。
平遥古城は、面積わずか2・25平方キロの四角い小さな街である。東・西・北部の城壁はまっすぐ続き、南部のものは河(中都河)沿いに曲がりくねって連なっている。 城壁の周囲は約6・2キロ、高さは約10メートル。下部の幅8〜12メートルに対して、上部の幅2・5〜6メートルと、それはかなりのばらつきがある。構造は、土を突き固めた部分(内部)と、それをレンガで覆った部分(外部)からなる。 城門は南北に各一つ、東西に各二つあり、いずれも二重の「重門」と「瓮城」(城門の前につくられた防御用の小城)からなっている。その形が亀の甲羅に似ていたことから、別名「亀城」とも呼ばれた。 城壁の四隅にはそれぞれ、「角楼」と呼ばれる楼閣が置かれている。さらに、のろし台の「敵楼」が計71、見張り台の「奎星楼」が一、凹型の狭間射眼「ドォオ口」が三千カ所設けられている。中国において最も完全な形で残された、明代初めの県城城壁である。
城内には、大小の通りが縦横に走っている。立ち並ぶ民家のほとんども、明・清代につくられたものだ。街道が碁盤の目のようにハッキリと分かれているため、昔はよくこう称されたという。「四本の大通り、八本の横町、曲がりくねった72本の小さな道に、数えきれないひとすじの天」 現在は、城内に大小の通りが199本ある。大通りは幅約5メートル、最も狭い小さな道は一メートルにも満たない。大通りは横町に通じ、横町は小路に分かれ、縦横に交差してどこへでも行くことができた。
通りには、古寺や民家が整然と立ち並んでいる。古い民家や老舗の屋号が至るところで目に入ったが、多くの人が今も住み続けているという。修復された一部の住居は博物館になっている。参観するのももちろん可能だ。
晋商のふるさと・平遥の民家や商店、大邸宅の建築は、格式が高い。その多くは「二進院」(中庭が前後に二つある家屋)、または「一進院」で、レンガの壁に瓦屋根を配した四合院(東西南北の四棟で庭を囲む中国北方特有の住宅)の様式を取り入れている。 財力のあった商人の邸宅は「三進院」が多く、小庭園を東西に一つずつ持つ家もある。三進院など「多進院」には、通り抜けることができる広間や、屋根の部分に彫刻を施した門などがあり、室内は広くゆったりしている。 母屋の多くは窰洞(洞窟式の住居)式の建物で、二階建てになっている。一階は、渡り廊下と柱からなり、見た目にも美しく、頑丈につくられている。 現在、古城に残る四合院は3797カ所。そのほとんどは保存状態がよく、歴史的価値のあるものも400あまりに上るという。
文化保護のため、城内は昼間、自動車の進入が禁じられている。しかし観光客用に、バッテリー式自動車や人力三輪車が準備されているので心配はいらない。 平遥の人々は、心温かく客好きだと言われる。多くの家々で遠来の客を迎え入れるほか、誰しもがベテランガイドになることができる。祝祭日や週末になると、山西なまりで観光客を呼び込む彼らが目に入るだろう。 バッテリー式自動車に乗って、平遥古城を眺めるのも一興である。運転手による詳しいガイドを聞きながら、古城の風情を味わうのである。交通費とガイド料は、合わせて1日20元(1元は約15円)もあれば、十分だろう。
城内の西大街と南大街は、歩行者と自転車以外は進入禁止となっている。重要な観光スポットが集まる場所で、通りに面して民家博物館をはじめ金融博物館、運輸護送博物館、県庁博物館、質屋博物館、老舗や旅館、商店などが軒を連ねる。 中国最初の金融機関「日昇昌」は西大街にあり、その昔は預金や貸付、為替業務などが行われていた。日昇昌が采配を振り、平遥には前後して「蔚盛長」「日新中」「百川通」などの22の金融機関が設けられた。為替業務のために、アメリカのニューヨークやサンフランシスコまで出張した機関もあったという。 金融機関の発展は、それ自体が巨大な経済効果を生み出したと同時に、資金運用が高まり、金融市場が拡大され、平遥の経済も大きく繁栄していった。卸売や運送業なども発展し、全国各地の貨物が次々と入っては、送り出された。それは古城を、日増しに発展させたのである。 平遥古城はこんにち、世界文化遺産の一つとして注目を集めている。明・清代の建築物や歴史をほこる寺院芸術、平遥の素朴な人々とその風景が、訪れる人に深い印象を与えるのである。(2002年3月号より)
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