世界遺産めぐり(16) 江蘇省・蘇州
庭園に見る江南文化の爛熟美
写真・陳健行 周仁徳 鄭翔 劉世昭  文・劉世昭

太湖石で築きあげられた冠雲峰は、留園ひいては蘇州庭園のシンボルである

 

 江蘇省蘇州市にある四つの古い庭園――拙政園、留園、網師園、環秀山荘は1997年12月4日、ユネスコの世界文化遺産リストに登録された。その3年後の2000年11月30日、同じく蘇州の滄浪亭、獅子林、芸圃、グウ園、退思園の五つの古い庭園が、またも世界文化遺産リストに登録された。

林泉耆碩之館の装飾や陳列品には、重厚な趣がある。古い庭園建築の逸品である

 蘇州は、2500百年以上もの歴史をほこる古都である。最も古くは春秋時代に、呉の国がここに都を築いた。呉王・闔閭(前514年〜前496年)は、都の西南部にあたる姑蘇山に「姑蘇台」を、呉王・夫差(前495〜前476年)は美女・西施のため、蘇州の霊岩山に「館娃宮」をそれぞれ設けた。それらは蘇州にある最も古い庭園だ。現在も霊岩山のいただきにある「山頂花園」は、館娃宮「御花園」の遺跡だとされている。

霧に包まれた秋の留園。空間がより生かされていた
留園の中心部にある明瑟楼(右側)の春景色

 蘇州の庭園は、「皇室庭園」と「寺院庭園」、「私家庭園」の三つに大別されており、現存するものの多くが私家庭園である。それは後漢の時代に起こり、唐代に流行し、宋・元代に発展し、明・清代に最も栄えた。

網師園には、蘇州最小の宋代の石橋(左側)がある。橋の長さはわずか2メートルほどしかない

 現存する庭園の中で、最も古い歴史をほこるのが滄浪亭だ。滄浪亭はもともと五代十国時代に、呉越の国のある皇族がつくった庭園の遺跡である。慶暦4年(1044年)、北宋の進士(科挙の最終合格者)であった蘇舜欽(字は子美)が左遷され、蘇州に居を構えた際に、四万銭(銭は青銅製の穴あき銭)でここを買い取り、水辺にあずまやを築いた。滄浪亭という名は、中国古代の詩人・屈原の『楚辞・漁夫』から取られたようだ。「滄浪之水清兮, 可以濯吾纓;滄浪之水濁兮, 可以濯吾足」(滄浪の水=漢水の下流=が澄んでいれば、冠のひもを洗うことができる。滄浪の水が濁っていれば、自分の足を洗うことができる)。

蘇州といえば庭園観光

 造園後、蘇舜欽は親しい友人で文学者の欧陽修に本を送った。欧陽修は「滄浪亭」という詩を詠み、返礼とした。「子美寄我滄浪吟, 邀我共作滄浪篇, ……清風明月本無価, 可惜只売四万銭」(子美 我に滄浪吟を寄せ、我をむかえて滄浪篇を共作す、……清風明月 本価なし、惜しむべくはただ四万銭で売るを)。こうして滄浪亭は、天下にその名をとどろかせたのである。

 
グウ園の美しい飾り 窓   園内にしつらえられた花窓。建築家の創意工夫が凝らされている
 
グウ園の中の「宛紅
杠」は、蘇州市内に
わずかに残る赤い欄
干の曲橋だ
  グウ園にある曲廊わきのレンガに刻まれた対聯。造園の趣旨が明示されている

 拙政園と留園は、蘇州を代表する庭園である。それは北京の頤和園、河北省承徳市の避暑山荘とともに「中国の四大名園」と称されている。頤和園と避暑山荘はいずれも清代に建てられた皇室の庭園で、その広大な敷地と絢爛豪華な建物が、皇帝の位の高さを明示している。

建築物と景観が美しい空間をつくりだす拙政園。5・2ヘクタールの敷地が、さらに広々として見える

 拙政園は、蘇州の中でも最大規模をほこる庭園だ。敷地面積は5・2ヘクタール。頤和園など北方の皇室庭園に比べると見劣りがするが、建築家たちがあずまやや楼閣、高殿、築山、池、回廊などを、巧みなまでに配置した。彼らは「障景」(景色をさえぎる)、「借景」、「換景」(景色を換える)などの技巧をつかい、上下の空間を利用して対比を転換させ、庭園を歩く人に「一歩一景」である、いたるところすばらしい景色であると思わせた。中国の古典小説『紅楼夢』の作者である曹雪芹は、少年時代に家族に連れられ、よくここを訪れた。それで小説の舞台である「大観園」の描写は、ここでの印象がかなり生かされているという。

滄浪亭は1100年の歴史をほこる。蘇州に残る最古の庭園だ

 留園は、蘇州第二の規模をほこる庭園ではあるが、敷地面積は拙政園の半分にも及ばない。建築がはじまったのが、明代の万暦21年(1593年)。蘇州庭園の中でも、ここは建築物の配置にすぐれ、広間の華麗さ、空間処理の巧みさなどでも有名になった。

とくにライオンに似ている獅子林の石
環秀山荘の築山は、「江南庭園の傑作」と称えられている

 留園の石や広間、回廊は、じっくりと味わうべきである。石とは、園内の東花園にそびえる太湖石(穴やくぼみが多く、築山や庭石に利用される太湖産の石)からなる「冠雲峰」を指している。北宋・徽宗の時代に江南で珍木奇石を集め、大運河を通じて開封の都に輸送した組織「花石綱」の「遺物」で、石の輸送が北宋の滅亡に間に合わず、蘇州に残ったものである。蘇州では、造園に太湖石はつきもので、人々は太湖石を「峰」と呼び習わしている。

林立する太湖石は、獅子林と呼ばれている

 冠雲峰は、蘇州庭園の太湖石で最大の一枚岩だ。高さは6・5メートル。天然が生み出した、じつに美しい姿をしている。この岩には太湖石の穴やくぼみ、シワなど「漏、透、痩、皺」という四つの特徴がそろっているため、人々は異なる角度からそれを観賞したり、感じたり、想像したりすることができる。

 留園には、その「五峰仙館」と「林泉耆碩之館」にすばらしい大広間がある。豪勢な五峰仙館は、人々に「楠木庁(クスノキ広間)の建物」と称されている。大広間の梁や柱、家具に使われているのが、みなクスノキだからである。

環秀山荘の「蘇州刺繍研究所」。蘇州刺繍の精華が集まる場所として注目されている

 広々として美しい林泉耆碩之館は、古典的でユニークな「鴛鴦庁」(おしどり広間)だ。それは文字通り、男女の客がそれぞれ分かれて利用した二つの広間となっている。中国の封建社会では、男女は親しくやりとりをせず、男性の客は男性の主人が、女性の客はその夫人が接待をした。男女の客が、それぞれ異なる広間を使わなければならなかったのだ。

江南の水郷・同里鎮にある退思園

 林泉耆碩之館は、門扉やついたてなどが、広間の中央からそれを南北の二つの部屋に分けている。北が男性、南が女性の部屋である。注意深く見ると、二つの部屋のしつらいの違いに気がついた。北の部屋は精緻をきわめて美しく、南の部屋は質素であった。床に敷かれた青いレンガは、北の部屋の方が大きく、南のそれはやや小さかった。男尊女卑という封建的な思想は、庭園建築の中にもハッキリと現れていた。

 留園をさらに進むと、700メートルあまりの長い回廊がある。雨にぬれたり、日に焼けたりする心配はいらず、年中いつでも、園内のどこへ行くにも、客を送ってくれるのだ。蘇州の庭園では、ただ一つの回廊である。

 敷地面積がわずか0・73ヘクタールのグウ園は、ある夫妻の庭園だった。清代の光緒年間(1875年〜1909年)のはじめ、安徽地方の民政・軍政長官で、江蘇・安徽・江西地方の総督代理の沈秉成が退官後、夫人の厳永華とともに蘇州に移り、隠居する際、この庭園を買いとった。庭園は「グウ園」と名付けられたが、それは「オウ」と「偶」の発音が同じため、夫婦二人が隠居して、仲むつまじく暮らすという意味合いがあった。

 その名が示すとおり、園内の景色はいたるところ、主人の「偶」の字への思いや理想が込められている。詩文や崑曲に親しんだ夫妻は、ここでの8年の隠居生活に多くの詩作と絵画を残した。

小ぢんまりとしているものの、精巧なつくりの芸圃

 園内の西花園の曲廊には、「枕波軒」という小さな広間があり、広間の東の窓の上には「枕波双隠」という文字を刻んだレンガの横額がある。また、その両側には、対聯(対になっためでたい文句)を刻んだレンガがはめこまれており、いわく「グウ園住佳偶, 城曲築詩城」(グウ園に住むよい夫婦、庭園に作詩の部屋をつくる)とある。グウ園の女主人の手によるものだという。対聯は、主人の造園の趣旨を述べるとともに、ロマンチックな愛の物語を表現している。

 西花園の池の上に、赤い欄干の曲橋が設けられていた。歴史的にも、蘇州ではこうした赤い欄干の橋が数多くつくられた。かつて蘇州の太守でもあった唐代の詩人・白居易は、当時の蘇州の情景を描いた七言絶句の詩をのこしている。

 「黄リ巷口鶯欲語, 烏鵲河頭氷欲消;緑浪東西南北水, 紅欄三百九十橋」(黄リ巷口 鶯語を欲し、烏鵲河頭 氷消を欲す。緑浪 東西南北の水、赤欄三百九十橋)

 こんにち、赤い欄干の橋は蘇州では二つしか残っておらず、市街地ではこの一つだけである。日本の庭園においては、こうした橋は変わらぬ人気があるようだ。

延光閣の池の端に建てられた亭は、芸圃の中でも、山水の美をきわめている
芸圃の中央につくられた小池

 さらにもう一つの庭園――網師園は、優雅さと巧みさを兼ねそなえた庭園とされ、専門家には「小庭園のお手本」であるといわれている。敷地面積は、退思園よりも小さく、わずか0・5ヘクタールしかない。その配置は、東宅と西院に分かれており、邸宅の正門から入ると、大広間の前にはレンガを精巧に彫刻した門楼があった。門楼の真ん中には「藻耀高翔」の四文字の彫刻が、その両側には「郭子儀上寿」と「周文王訪賢」という二つの戯曲を表した透かし彫りがそれぞれ施されていた。それは精緻で美しく、人物の彫刻などは生き生きとして躍動感にあふれていた。幸福と長生きを祈り、徳と賢がそろうことを願う意味が含まれているという。蘇州庭園における、レンガ彫刻の逸品とされている。

 西側にある庭園は、池の周りにいくつかの建物が配されていた。庭園の中に小庭園があり、庭園の建築はみな池や水の流れに沿って建てられていた。いたるところ「水に依って」つくられているのである。網師園は、退思園の「依水園」とはまた異なる優雅さであった。

 網師園は、蘇州の庭園では唯一、夜間も開園している。池の端のぬれ縁にすわり、向こう岸から聞こえる簫の音に耳をすました。しなやかで美しい簫の音は、あたりに大きく響いた。それは水面からはね返り、さらに園内のすみずみまで響きわたった。まるで庭園のすべてが共鳴するかのようだ。こうした時に、人はみな蘇州庭園の本当の「美」を感じとることができるのかもしれない。(2002年11月号より)