世界遺産めぐり(22)  北京・昌平


明・清時代の皇帝陵A 明の十三陵
為政者の「永遠の権力」を浮き彫りに

                   写真・文 劉世昭


 明の十三陵は、北京の西北郊外、市の中心から約五十キロ離れた燕山の支脈・天寿山の南麓にある。中国に現存する最大の皇帝陵墓群である。東、西、北の三方を山に囲まれ、すばらしい地理環境に恵まれている。
十三陵は燕山の支脈を「ついたて」に、こんもりと茂る緑の中に点在している

高さ14メートル、幅28・86メートルの石牌坊は、十三陵の最南端にある建築物だ。明の嘉靖19年(1540年)に建設された
神道の両側には18対の石人、石獣が配されている。獅子、カイ豸(かいち、想像上の神獣)、ラクダ、ゾウ、麒麟、馬など六種の石獣と、功臣、文臣、武臣の三種の石人がある

  明の洪武31年(1398年)、明の太祖・朱元璋が亡くなり、皇太孫の朱允 が皇位を継いだ。年号は「建文」、すなわち明の恵帝である。藩王(諸侯の王)の勢いが絶大であった当時、建文帝は朝廷の安全を守るために、藩の勢力を弱めようとする政策を取った。それは、藩王たちの利益を犯した。ちょうどそのころ、大軍を率いて帝位を奪い取ろうとしていた朱元璋の四子、燕王・朱棣は「建文帝の政策に同意できぬ」と、それを口実に兵を起こし、都城・南京を攻めはじめた。四年の戦いを経て、朱棣は建文帝の帝位を奪い、明の成祖・永楽帝となったのである。

 朱棣は、卓越した政治的能力をもつ皇帝だった。皇帝となった後、すぐに翰林院(唐代からある官署で、国史の編修、経書の進講などをつかさどった役所)の学士・解縉に命じて3000人あまりを集め、2万2877巻の大著『永楽大典』を編纂させた。永楽2年(1404年)から永楽18年(1420年)、大量の労働力をもちいて、北京の宮殿(紫禁城)を建設し、その城壁を改築した。永楽19年(1421年)には

、正式に北京に遷都し、北京はこの時から中国の政治、経済、文化、軍事の中心になったのである。さらに、永楽3年(1405年)から永楽22年(1424年)、太監(宦官)の鄭和に命じ、膨大な数の船隊を率いて、アジア・アフリカ30数カ国を探訪させた。いわゆる鄭和の「大航海」だが、それによって明王朝と諸外国との文化・経済交流を促進したのである。

定陵・地下宮殿の後殿は、皇帝と皇后のひつぎを安置した殿堂だ

 北京に遷都する前、永楽帝は永楽7年(1409年)、北京のそばに陵墓の場所を選ぶため人員を派遣、天寿山麓に自らの陵墓となる「長陵」の工事をスタートさせた。

 明代276年間には、16人の皇帝がいた。太祖の朱元璋が南京に葬られ、恵帝・朱允ブンのゆくえが知れず、代宗・朱祁ギョクが北京の金山に葬られたほかは、13人の皇帝がこの天寿山に埋葬された。

 十三陵は、成祖・永楽帝の長陵を中心として、その他12の陵墓が東西の両翼に点在している。陵墓の規模はそれぞれ異なり、その中からは主人の生存期の歴史的背景や暮らしぶり、性格などがうかがえる。

 長陵の主人は明代の全盛期をつくり上げた。その陵墓は、中でも最大規模である。「献陵」「景陵」の主人は、かつて朱棣とともに南征北戦をした子孫で、天下取りの苦労をじゅうぶんに味わっている。陵墓はわりと簡素である。「昭陵」「徳陵」は、主人の死後にようやく建てられたものだ。「慶陵」「思陵」は他人の陵墓を利用して皇帝を葬ったため、その規模には限りがあった。ほかの六つは、いずれも宮殿に長く住まい、ぜいたくに溺れた皇帝たちの陵墓である。そのつくりは豪華絢爛たるものである。

長陵・リョウ恩殿の内部
永陵

 十三陵一帯の「陵園」から南へ7キロ下ったところに、6本の柱と5つの門、11の棟をもつ漢白玉製の「石碑坊」がそびえ立っている。これが、十三陵の南端にある最初の建築物である。その碑坊の後方(北側)が三つの門をもつ「大紅門」で、これが陵園の正門である。この門をくぐり、陵園に入るのだが、大紅門の門前にある石碑には、「官員人等至此下馬」(役人らはここに至りて下馬せよ)という8文字が刻まれている。かつて大紅門の左右には、長さ40キロの壁が巡らされ、それは陵園を取り囲んでいた。今ではほとんど崩れ落ち、残壁がわずかに見られるだけだ。

 大紅門をくぐると、長陵に向かう「神道」(参道)となる。陵園全体における主だった神道だ。神道にある最初の建物は、高さ25・14メートルの「碑亭」で、亭内には高さ7・91メートルの石碑「大明長陵神功聖徳碑」が建てられている。石碑には3500字あまりの碑文があるが、これは明の仁宗・朱高熾が、その父、成祖・朱棣のためにつくったものだ。

 十三陵では、これを除いた陵墓前の石碑はすべて「無字碑」である。この不思議な現象には、ある歴史が隠されている。明の太祖・朱元璋はかつて「亡くなった皇帝の陵碑の碑文は、かならずその後継ぎの皇帝が記さなければならない」という規則を定めた。しかし、長陵以降の献、景、裕、茂、泰、康の各陵墓の陵門前には、建築時に碑亭と石碑が建てられなかった。現在、これらの前にある石碑はみな明の仁宗・嘉靖年間に増築されたものである。そのため、碑文は嘉靖帝が記すはずであったが、彼は執政をきらった暗愚の君主であった。それほど多くの碑文を記すという気持ちがどこにあったろう。それで碑文は空白になった。のちの皇帝も多くは暗愚の君主であり、嘉靖帝のやり方を真似たために、それらの無字碑が残された。

 敷地面積10ヘクタールの「長陵」は、十三陵を代表する最大規模の陵墓である。永楽7年(1409年)に創建され、4年の月日をかけて完成、すでに600年の歴史をほこり、十三陵の中でももっとも保存状態がよい。

献陵
裕陵
泰陵 康陵

 とりわけ、その「享殿」(または 恩殿)は、明の皇帝陵の中で唯一、今に残る陵殿である。大殿(本堂)の幅66・5六メートル、奥行き29・12メートル、高さ25・1メートル、総面積は1956平方メートル。明・清代の宮廷、故宮の「太和殿」(皇帝が執政した殿堂)の規格によく似ている。

 殿内は「金磚」(故宮建築のさい、殿内の床に敷いた蘇州などで焼成された大型レンガ)が敷き詰められている。また、木材はすべて雲南、貴州、四川、広東、広西などの地の銘木「金絲楠木」が使われている。とくに、殿内にそびえる高さ12・58メートル、32本の巨大立柱は、いずれも直径1メートルを超える金絲楠木で、世にまれに見る逸品である。当時、これらの巨木を伐採するには、夫役に駆り出された者が、獣が出没するような人里離れた山奥に入らなければならなかった。多くの命が、山奥で失われた。「入山一千、出山五百」(千人入山しても、下山するのは五百人)ということわざがあるが、それは彼らの労苦と危険な作業を描写している。

 長陵のほか、もっとも特色のある陵墓を挙げるとすれば「永陵」と「定陵」である。

 永陵は、明代の第11代皇帝、世宗・朱厚 と彼の3人の皇后の合葬墓である。規模の大きさは、長陵に次ぐものである。崩壊がかなり進んでおり、現在、ほぼ完全な姿でのこっているのは「明楼」だけだ。しかし、それは十三陵の「明楼の冠」、明楼の粋である、と言われている。

昭陵の明楼と、その前に置かれた石製の「五供」(五つの供え物)
思陵には明代最後の皇帝・朱由検が葬られている。李自成の農民蜂起軍が北京を攻めたさい、朱由検は故宮北側の煤山(今の景山)で首をつって自殺した。のちに清代の統治者が、朱由検の皇后・田氏が眠るこの墓に、彼を埋葬した

 永陵の明楼は、外側の石段から上ることができる。仔細に見ると、その斗拱(梁や棟を支える柱の上の弓形の角材)、垂木、梁などは、いずれも木材を使用せず、石材で構成されており、その工芸技術はきわめて繊細である。のちの定陵の明楼もすべて石造りであるが、工芸技術のレベルは永陵の方が上手であった。永陵の明楼は、古代の工匠たちの叡智と勤労ぶりをじゅうぶんに表している。

 定陵は、明代の第13代皇帝、神宗・朱翊鈞と、彼の2人の皇后の合葬墓である。十三陵の中では唯一、発掘された陵墓だ。朱翊鈞は、明代における在位期間が最長の皇帝である。48年の長きに及んだが、贅を尽くし財をむさぼった、歴史上に名を残す暗愚の君主であった。万暦12年(1584年)に起工し、6年の歳月をかけて、万暦18年に完工した。その白銀800万両に及ぶ工費は、当時の国家税収2年分に相当した。

 1956年5月、考古学者らが定陵の試掘をはじめた。1年の歳月をへて、人々は分厚く強固な「金剛壁」(地下に埋没している壁の総称)の中に、墓室の「玄宮」に入るためのアーチ型の門を発見した。

 定陵の玄宮は、俗に「地下宮殿」と称される。総面積1195平方メートル、前殿、中殿、左配殿、右配殿、後殿の5つの殿堂で組み合わされている。地下宮殿には一本の柱も梁もなく、天井はすべて石をアーチ型に組んだものである。後殿は最も高いところが9・5メートル、ほかの殿堂も高さ7メートルを超えている。その工芸技術は、中国古代建築においても最高レベルにあるだろう。

慶陵・ショウ恩殿の遺跡前にある竜の石彫
茂陵
景陵
徳陵

 後殿の中央には、神宗皇帝と孝端、孝靖という二人の皇后のひつぎが置かれている。ひつぎの両側には、副葬品を入れた24個の大木箱が置かれている。中殿には、前方から後方に向かって順に、孝靖皇后、孝端皇后、万暦皇帝の漢白玉製の宝座が三つ置かれている。宝座には、鳳凰と竜が彫刻されており、その形は皇帝・皇后が生前使っていた木製の宝座とそっくりである。

 地下宮殿から出土した多くの文物には、金器、銀器、磁器、玉器、絹織物などがあった。現在、文物の一部は、長陵の 恩殿と定陵の二つの陳列室にそれぞれ展示されている。2003年11月号より