馮進=写真・文


江西省北部に位置する廬山は現在、中国で唯一の「自然と文化景観遺産」といわれる名勝区である。その名勝区は、山上の?嶺、山の南側とふもとの東林、潯陽、石鐘山、竜宮洞、ハ陽湖、など7つの部分で構成される。なかでもふもとの5大景観区には数多くの史跡と名勝があり、山上の遺跡と相呼応して、すばらしい景観を形作っている。

潯陽楼に登る

東林寺大雄宝殿内に供養された釈迦牟尼像と文殊菩薩像、普賢菩薩像

 どんよりとした厚い雲が江西省九江市の上空を覆い、逆巻く河川とともに薄暗い風景を生みだしていた。ただ雄大な潯陽楼だけが河畔にそびえ立っており、それがじつに壮観な眺めであった。

 潯陽楼は九江市街区にある九華門外に位置し、高さ二十メートル。外観は三階建てだが、内側は四階になっており、ひさしの反り返った宋代建築の風格を持っている。敷地面積は千六百平方メートル。「江南の四大名楼」の一つと称えられている。

宋代建築の風格をもつ潯陽楼

 千二百年以上の歴史をほこる潯陽楼は、かつて歴代の名士が雲集するところであった。唐代の詩人・白居易、韋応物、また「唐宋八大家」の一人として知られる詩人で文学者の蘇東坡などがいずれもここで詩句を詠んだ。韋応物は江州(江西省九江県)の刺史に任ぜられた際、「始罷永陽守、復臥潯陽楼」(始め永陽守を罷り、また潯陽楼に臥す)という詩句を書いた。江州の司馬・白居易は『潯陽楼に題す』という詩句のなかで、潯陽楼の四方の景色に重きをおいて表現し、潯陽楼の名声を大いに高めた。元代末期から明代初め、有名な小説家・施耐庵は小説『水滸伝』のなかで、梁山泊の統領・宋江が潯陽楼で酒に酔って謀反の詩を詠んだという物語を描いている。それにより、潯陽楼の名声はさらに高まることとなった。

 潯陽楼はその昔、民間の酒楼であった。「九江」の古称が「潯陽」であったので、その名前を得たとされる。戦乱の世を過ぎて、その建築は何度も破壊されてきた。現在の潯陽楼は、一九八九年に新たに改築されたもの。楼閣に上ると、はるかに洋々と流れる長江が見える。独特な味わいを持つ「水滸宴」でもてなされ、その昔、宋江が飲んだという美酒「藍橋風月」をたしなんだ。風に吹かれて酒を飲むとは、また格別な趣を覚えたことだった。

甘棠湖畔の煙水亭

煙水亭にある周瑜の指揮台

 河畔から市の中心地へと戻った。繁華街を通り抜け、ひっそりとした甘棠湖畔にある李渤堤に沿って散歩した。甘棠湖の水は清らかで、鏡のように澄んでいる。湖岸にはしだれ柳が寄り添うように伸びており、雨上がりのさわやかな風が柳の枝葉をゆらゆらと揺らす。しっとりとした空気が、人を陶酔させるようだ。

 湖名の由来は、言い伝えによるととてもロマンチックだ。周の時代、召公という賢臣がおり、甘棠(ヤマカイドウ)の木の下で公務を行い、人々のために多くの善行を積 だ。召公の死後、平和に暮らす人々は、召公を祭るために甘棠の木を彼の化身と見なした。そこから民のために良いことをする役人を「甘棠」と呼ぶようになった。こうして、湖に甘棠湖という名が付いたのである。また、唐の長慶元年(八二一年)、江州の刺史・李渤は在任期間に田租を免じ、甘棠湖の堤防を築き上げた。つねに民のことを考えたので、後世の人々がその堤防を「李渤堤」と名付けたのだった。

煙水亭の蔵剣匣

 甘棠湖にある煙水亭は四方が水に囲まれており、曲がりくねった石橋が陸路へと通じている。湖の周辺では、唯一の古代建築群だ。史料の記載によると、甘棠湖にはその昔、「浸月」「煙水」という二つの亭が置かれていた。唐の元和十一〜十三年(八一六〜八一八年)、江州の司馬である白居易が、まずここに亭を建てた。有名な七言詩『琵琶行』のなかに、「醉不成歓惨将別、別時茫茫江浸月」(酔うて歓を成さず、惨としてまさに別れんとす、別るるとき、茫々として江は月を浸す)という名句があり、そのため亭に「浸月亭」という名が付けられた。

 北宋の煕寧年間(一〇六八〜一〇七七年)に至ると、理学者の周敦頤が、甘棠湖堤にまた「煙水亭」という亭を建てた。伝わるところによれば、ここは三国時代に東呉の大都督・周瑜が水軍を訓練した際の指揮台だった。当時、周瑜は石鐘山から赤壁へと兵を進め、曹操の八十万の大軍を打ち破ったのである。

長江ほとりの「潯陽楼」

 指揮台後方の橋の下には一対の石槽があり、その名を「蔵剣匣」という。石槽の上部は凹型にうがたれている。またその全体に、からまる草紋、わきたつ雲紋のデザインが陽刻で施されている。伝わるところによると、この蔵剣匣はもともと役所前に置かれていた。役所の正門はちょうど廬山の双剣峰と相対していたので、それは風水に差しさわりがあると考えられた。そのため専門の者を派遣して、岩石で二つの蔵剣匣を作り上げた。剣匣をもって鋒を収め、その不利に克つというわけだ。二つの蔵剣匣がここに移された理由は未だに考証されていないが、それもまた同じような作用があったのだろう。

 浸月、煙水の二亭は、歴代の興廃を経て、現存するのは清代末期に再建されたものである。しかし、今でも昔のままの風格とその様式を保っている。

「理学」の聖地

煙水亭に陶淵明、白居易、李渤、周敦頤、王陽明を祭った「五賢閣」

 白鹿洞書院は、廬山五老峰から東南の幽谷のなかに建てられており、後屏山と左翼山、卓爾山に抱かれている。山林がうっそうと茂り、清らかな湧き水が渓流となって下っている。静かな山道を歩いてい ュと、そのまま書院正門へとたどり着く。

 白鹿洞書院は、古代中国の四大書院(塾)の筆頭である。五代十国時代の南唐の昇元四年(九四〇年)、李氏朝廷はまず、この地に中国の最高学府「廬山国学」を創設した。考証によれば、それは世界最古といわれる学府・エジプトのアズハル大学の創設より半世紀以上も前の学府だとされる。廬山国学はまた、「白鹿国学」「匡山国子監」などと称され、首都・金陵の秦淮河畔にあった「国子監」と同様に有名だった。

 求学者は百人を下らず、最も多いときで、二、三百人にも達した。『白鹿洞書院志』の記載によると、白鹿洞書院は北宋時代の初めに創建された。宋の太宗・趙・は、国子監が『九経』などの書籍を刻印し、書院に賜るようにと命じた。それは「駅送至洞」(駅伝によって洞へ送る)と言われ、学生たちの学問と研究に供されたのだ。

東林寺にある唐代の護法力士像

 咸平四年(一〇〇一年)、宋の真宗・趙恒は、全国の書院に国子監の印刷版・経書(十三経)を送るようにと命じた。宋の皇祐末年(一〇五四年)、廬山国学は焼失したが、南宋の淳煕六年(一一七九年)、理学者で教育者の朱熹がここを発見して、白鹿洞書院を再建した。朱熹が興したのは講義式の教育であり、彼はまた儒家伝統の倫理思想を基礎とした巨大な「理学」体系を打ち立てた。それは中国封建社会の主体思想となり、後に七百年もの間、中国に影響を与えることになった。一五九五年から一五九八年、イタリアの宣教師マテオ・リッチが江西に住んでいたころ、彼はなんども廬山の白鹿洞書院で講義を行った。天文、地理、数学などの自然科学知識を教え、書院の学生たちにたいへん歓迎されたという。

 白鹿洞書院には今も多くの貴重な歴史的文物と古跡が残されている。たとえば、礼聖殿内にある唐代の呉道子が描いた孔子の線刻立像、清の康煕帝が揮毫した「万世師表」の扁額、後壁の左右に立てられた、朱熹(朱子)の揮毫による「忠、孝、廉、節」の四つの大字の石碑、朱子祠内の朱子の自画像石刻などだ。

浄土宗の祖庭―東林寺

白鹿洞書院の礼聖殿は、またの名を大成殿という。宋の淳煕九年(1182年)の創建で、孔子を祭る場所である。殿内には唐代の呉道子が自ら描いた孔子の「線彫行教立像」が置かれ、上部には清の康煕帝が揮毫した「万事師表」の扁額が掛けられている

 白鹿洞書院を出ると、自動車は山間の道路に沿って廬山西北へ一時間ほどひた走り、東林寺に到着した。東晋太元十一年(三八六年)創建の東林寺は、廬山ふもとの開けた場所に置かれている。ちょうど満開の菜の花が、その古刹をいっそう引きたてていた。東林寺は、慧遠大師が建てた浄土宗の寺院で、香火が絶えず、僧侶たちがしきりに訪れ、かつては「中国仏教第二の中心」と見なされたこともあっ ス。

 東晋・孝武帝の太元三年(三七八年)、慧遠は二十五年つき従った恩師・道安和尚のもとを離れ、数十人の弟子を率いて広東の羅浮山へと南下した。太元六年(三八一年)、潯陽に至ったとき、廬山の絶景を目にし、その静けさが気に入って心身を十分に休めることができた。やがて離れがたくなり、「竜泉精舎」という家屋を建てて、そこに住みついたのである。

白鹿洞書院のレイ星門(明の成化2年に創建)

 住まいは水源から遠かったため、慧遠は杖を振り下ろし、地面をたたいていわく、「もしここが住まう場所であるならば、朽ちた土から泉が湧くべきであろう」と。そう言い放つなり、泉が湧いてきたのであった。まもなくして潯陽が大干ばつに見舞われたとき、慧遠が池の端で『竜王経』を読経していると、巨大なうわばみが空に上り、大量の恵みの雨を降らせたという。その後、ここを訪れる僧侶たちが多くなり、家屋が狭くなったため、太元十一年(三八六年)、西林寺の東側に寺院を建立、東林寺という名を付けた。そこから慧遠は禅を修め、経を広め、著述や説法を行って、廬山に住みついてから三十六年もの布教の生涯を送ったのである。

石鐘山にある銅鐘。胴体には宋代の大詩人・蘇軾の『石鐘山記』が刻まれている

 東林寺の建立は、中国南方仏教の中心を表すものとなっていった。東晋の元興元年(四〇二年)、慧遠は廬山に中国最古の念仏結社とされる「白蓮社」を興した。それは『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』『往生論』などの仏教経典によって観仏や念仏を提唱、阿弥陀仏の西方極楽浄土に往生し、成仏することを主な教えとして、浄土宗となっていった。やさしい教えで学びやすく、仏経に通じていることを求めず、必ずしも座禅を組んで修行する必要がない。ただ一心に、怠ることなく「南無阿弥陀仏」と念じれば、浄土に往生することができると説いて、ここから広く流布したのである。

 史料の記載によれば、唐代の高僧・鑑真が東渡をめざした際に、浄土宗の教義が日本に伝えられた。その「東林浄土宗」は今でも慧遠大師を始祖とし、東林寺を浄土宗の祖庭として見なしているという。

慧遠大師円寂後の墓

 東林寺の参観後、住職が寺の前にある「虎渓橋」まで見送ってくれたとき、それ以上前に進もうとはしなかった。不思議に思って聞くと、住職は笑いながら「慧遠客を送り、虎渓橋を越えず」の故事を話してくれた。――ある日、慧遠と陶淵明、陸修静の三人が手を携えて、道を論じながら歩いていると、熱中するあまり帰るのを忘れ、虎渓橋を渡ってしまった。すると山上の神虎が吼えて鳴きやまず、三人は顔を見合わせて大笑いしたと 「う。このときから僧侶たちは慧遠大師にならって、客を送るときに虎渓橋の前で足を止めるようになった。こうして「虎渓三笑」の故事が、今に伝わるのであった。(2004年11月号より)