劉世昭=写真・文


 

 「洛陽之郊、山水之勝、竜門首焉」(洛陽の郊外、山水の名勝といえば、竜門を筆頭とする)―唐・白居易『修香山寺記』

古陽洞の内部

 かつて13王朝の都であった、河南省洛陽市。その南の郊外、伊河の東岸に「香山」と呼ばれる小山がある。洛陽で、18年の晩年生活を送った唐代の大詩人・白居易は、まさにここに眠っている。香山と河をへだてて相対しているのが、全長約1キロにわたる石窟芸術の宝庫「竜門石窟」の西山部分であり、また香山の南側が石窟の東山部分である。

 竜門石窟は、北魏の孝文帝・元宏年間(471〜499年)に造営がはじめられた。その後も東魏、西魏、北斉、北周、隋、唐、五代、北宋などの歴代王朝が、400年以上も開削をつづけてきた。そのうち、北魏と唐の時代に造営されたものが最大の規模である。竜門の洞窟で、北魏時代のものは全体の30%、唐代のものが60%を占めている。その他の時代に造られたものは、わずか10%ほどである。

古陽洞の北壁『竜門20品』第2品。長楽王・丘穆陵の夫人・尉遅が、弥勒像を造ることを記した碑

 統計によれば、竜門に現存する石窟は2345、石像は11万体あまり、仏塔は70以上、銘文や図などが刻まれた石碑は2860あまり、残されている文字史料は30万字以上。中国においても、古い石碑がもっとも多いところだという。2000年11月、竜門石窟はユネスコの世界文化遺産リストに登録された。
 
 北魏の太和17年(493年)、孝文帝は北方の大同にあった都城を、中原の洛陽へ移して中国を統一、長年にわたる大業の夢をかなえた。遷都の際に、仏教を崇拝していた孝文帝は、仏教の中心地を大同から洛陽へ移すことを忘れなかった。つまりこの年に、竜門西山の南側にある天然の鍾乳洞において、竜門石窟の造営がはじめられた。それが「古陽洞」と呼ばれる洞窟である。

賓陽三洞の外観
古陽洞の北壁にある小龕のわくの細部

 古陽洞は、竜門で初めて開削された石窟なので「竜門第一窟」とも呼ばれている。そればかりではない。竜門石窟のなかで、もっとも仏教的な内容に富み、書道芸術にも優れた洞窟なのである。

 造営当時、北魏の皇室や貴族、官吏、僧侶らは、この洞窟に龕(仏像を納める厨子)や仏像を造っていった。それらは内部の壁から天井に至るまで大小さまざま、多種多彩に造営されて、洞窟全体が華麗かつ壮観なものとなっていった。そのうち、もっとも価値があるのが、洞窟の壁に刻まれた仏像の銘文である。ここには世にも名高い魏碑書道の逸品『竜門20品』の19品がある。ここを訪れた観光客たちは、その目でこれらの逸品を鑑賞するのを幸せに思うことだろう。

賓陽中洞の主仏・釈迦牟尼

 北魏時代に造られた洞窟のうち、「賓陽中洞」という洞窟も代表的なものの一つだ。それはまた、皇室の風格をもった典型的な洞窟でもある。「賓陽」という名は、「太陽を迎える」という意味である。洞窟は、南洞、中洞、北洞の並列した三つの石窟からなり、北魏の宣武帝がその父・孝文帝の功績をたたえるために造ったものだ。

 賓陽三洞は当初、宮廷内で起こった政変などのために、完成したのが中洞だけであった。その後、初唐(618〜742年)の時代になってようやく南洞・北洞の主要な仏像(主仏)が完成したとされている。中洞の天井には、蓮の花の宝蓋(仏像などの頭上にさしかける傘、てんがい)が刻まれており、それを美しい姿態の伎楽飛天のレリーフがとり囲んでいる。

蓮花洞

 ここの主仏は、「三世仏」である。その服飾は、大同・雲岡石窟にある右肩を出した袈裟とは異なり、長衣の幅が広く、そでの大きな袈裟に変わった。こうした変化は、北方遊牧民族の鮮卑人であった孝文帝が、洛陽に遷都してから、一連の「漢化政策」(漢民族化する政策)を行った現れであろう。

蓮花洞の入り口にある張世祖造像に見られる高麗服姿の人物のレリーフ

 洞窟前壁の南北の両側には、上から下まで四段になった美しいレリーフがある。その内容は、仏経故事と神王像からなっている。もっとも価値が高いのは第三段だ。もともと、そこには歴史的・芸術的価値が高く、世にも名高い北魏彫刻の傑作『帝后礼仏図』という大型レリーフが刻まれていた。その北壁には「孝文帝が仏を祭る隊列」が、南壁には「文昭皇后が仏を祭る隊列」がそれぞれ彫刻されていた。

 しかし惜しいことに1930〜40年代、アメリカから来た調査団が中国人の無法者と結託し、この歴史的な芸術の逸品を盗掘、国外へと運び出した。現在はアメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館と、カンザス州にある芸術博物館に展示されている。南壁の仏の立像の左右両側にあった脇侍菩薩像頭部も盗掘にあい、国外へ持ち出されている。現在は、日本の大阪市立美術館と東京国立博物館にそれぞれ収蔵されている。

東山万仏溝の北側にある看経寺の洞窟内の正面壁と南北両壁に彫刻された摩訶迦葉から菩提達摩までの29代にわたる伝法羅漢像は躍動感にあふれ、表情もそれぞれ異なる。唐代の彫刻で、もっとも美しい羅漢群像といわれている。写真の仏像はその中の一つ

 北魏時代に造られた「蓮花洞」という洞窟は、天井に直径3メートルを超える彫りの深い、大きな蓮の花のレリーフがあることから、その名がついた。蓮の花は「泥より出でて染まらない」ため、仏の「浄土」と見なされている。蓮の花の周りには、俗に「飛天」といわれる「供養天人」の6体のレリーフがある。天人は仏の侍者である。それらのレリーフは腰が細く、もすそが長く、姿態がじつにしなやかである。惜しいことに、それらの頭部も早期に盗まれている。

 蓮花洞は、じっくりと鑑賞するに値する洞窟である。内部の両壁にはさまざまな小龕があり、よく見ると、南壁の一部の龕には、仏経故事の美しいレリーフが刻まれている。また、北壁のある小龕からは、数年前に専門の担当者が水垢をとりのぞいた後、仏像の体に当時施された彩色上絵が残っていたことが発見されている。洞窟の入り口、南壁にある仏像には、高麗の衣服をまとった3体の人物レリーフがある。北魏時代に、各民族が融和・交流していたことを表している。

万仏洞・南壁の万仏像

  竜門石窟のほとんどが唐代に造営されたものであり、その時代を代表する洞窟の一つが「万仏洞」である。洞窟内には南北両壁に整然と並ぶ、1万5000体もの小さな仏像が彫りこまれている。そこから、万仏洞という名がついたといわれる。

 注目したいのは当時、この洞窟の造営を指揮していた2人の女性だ。1人は朝廷の二品女官の姚神表、もう1人は御用尼僧の智運である。石窟入り口にある通路の北壁には、次のような銘文が刻まれている。「沙門(僧)智運は、天皇、天后(皇后)、太子、諸王のために、仏像1万5000体の龕を建造してさしあげた」
 

奉先寺の文殊菩薩像
 
奉先寺の弟子・阿難像
奉先寺の力士像
 
奉先寺の天王像
     

 また、天井にある蓮の花の周りには、次のような意味の別の銘文がある。「大監(工事監督)の姚神表と内道場の智運禅師は、仏像1万5000体の龕を造り上げた。大唐永隆元年の11月30日に完成」。いずれも、当時の歴史を記録するものである。

 万仏洞の構造と規模は、大唐帝国の繁栄ぶりを現している。洞窟は前室と後室がつながっており、前室には2体の力士と2匹の獅子が、また後室には1体の仏、2体の弟子、2体の菩薩、2体の天王が、それぞれ彫刻されている。竜門石窟の石像のうち、バランスや組み合わせが完全な洞窟である。主仏・阿弥陀仏の背後にある52本の蓮の花の上には、各種の供養菩薩52体がそれぞれに座っている。それは両壁にある1万5000体の小さな仏像と相呼応して、仏教の限りない魅力を表している。

 竜門西山の南部の山腹にある「奉先寺」は、盛唐時期に造営されはじめ、唐の第3代皇帝・高宗の上元2年(675年)に完成したとされている。高宗がその父・太宗の冥福を祈るために造ったもので、武則天(則天武后、高宗の皇后)の資金援助もあったとされる。もとは「大盧舎那像龕」と呼ばれたこの露天大龕は、南北の幅が約40メートル、東西の奥行きも約40メートルと、竜門石窟のなかでも最大の石像である。

 その大龕には、大型の立体彫像があわせて9体造られている。正面壁中央に主仏の盧舎那仏が、その左に弟子の迦葉菩薩と文殊菩薩、右に弟子の阿難菩薩と普賢菩薩がそれぞれ配されている。南北両壁には、天王と力士が一体ずつ彫られている。

奉先寺の主仏・盧舎那仏の頭部

 慈悲深い顔立ちの盧舎那仏は、高さ17.14メートル。仏経において、盧舎那仏とは「諸悪をとり除き、衆徳をそなえ、浄色があまねく法界(衆生の本性)を照らす」という意味をもつという。そしてそれは、老成して慎重な迦葉、温厚でかしこい阿難、おだやかで美しい文殊と普賢、勇猛果敢でりりしい天王、勢いのある力士とともに、規模壮大な芸術群像をつくり上げ、盛唐時代の高度な文化を現している。
 
 1330年前に完成したこの大型の彫像群は、唐代という偉大な時代のシンボルであるばかりでなく、中国石刻芸術の伝統的な作品であり、また最高傑作でもあるといえよう。(2005年7月号より)

 


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