劉世昭=写真・文


 

明の孝陵は明代(1368〜1644年)の初代皇帝・朱元璋(洪武帝)と、皇后の馬氏の陵墓だ。その独特なまでの設計理念や制度構造は、明・清時代の皇帝陵における新たなルールを打ちたてた。それは中国皇帝陵の発展史において、里程標となる価値と地位をほこるのである。

大明孝陵神功聖徳碑

 明の孝陵は、江蘇省南京市の東の郊外、紫金山の中峰南麓にある。明の洪武14年(1381年)に創建され、永楽11年(1413年)に最後の「大明孝陵神功聖徳碑」を建設して完工。この間、32年の月日を要した。

  陵墓の場所を選ぶにあたり、明の孝陵は中国古代の「天人合一」(自然と人との一体化)という伝統的な哲学思想をうけつぎ、建築物と自然環境の調和に強くこだわった。北は鍾山を背にして、四方は山々にとりかこまれている。また、山河の地形をたくみに使って、陵墓の造営に「拱衛」(周りから守る)、「環抱」(とりかこむ)、「朝揖」(丁重な礼をする)という風水の構造をとりいれた。この文化と自然の有機的な結合は、それ以降も明・清時代の皇帝陵のモデルとなった。

神道の石獅子

 明の孝陵は「下馬坊」(下馬を示す鳥居型の建築物)を起点とすれば、そこから陵墓の中心建築物まで、道のりは3キロあまりに達するという。下馬坊から陵墓の正門「大金門」までの間には、もともと陵区に通じる長さ750メートルの神道(参道)がつづいていたが、歴史的な原因により、いまではその跡形もない。また、陵墓全体が建てられたとき、その周りに長さ22.5キロ、高さ約4メートル、幅約1.5メートルにわたる「護衛城郭」が建築されたというが、いまでは、ただ大金門が残されているだけである。

 大金門から北へ70メートルのところには、俗称「四方城」という碑楼(石碑を納めた楼閣)がある。天井はすでに消失したが、四方にはそれぞれアーチ形の門がある。中央には、高さ8.78メートルの石碑があるが、それは明の成祖・朱棣(永楽帝)が父の太祖・朱元璋の功績を称えるために建てた「大明孝陵神功聖徳碑」である。

大金門

 石碑の建造にまつわる、次のようなエピソードがある。

 甥の建文帝・朱允ブンの帝位を奪い、明の第3代皇帝になった朱棣は、権力を強化して、自らが「正統」な後継者であると顕示したいと考えた。そのため、親孝行を名目にして、死去した父親のために記念碑を建て、伝記を刻んだ。

石カイチ
 
石麒麟
神道の石象
 
石馬

 その石碑は、かつてない規格と規模を求めたために、孝陵から25キロも離れた陽山へ工匠たちを送りこんで、碑材を採らせた。朱棣が選んだ碑材は、高さ62.8メートル、重さ千トン。着工してから9カ月間かかっても運搬不可能だったため、その碑材はあきらめざるを得なかった。別の碑材に刻んだものが、いまに残る石碑である。

 巨大石碑を建てるため、多くの工匠たちが任務を果たせず、死刑に処された。その亡骸は、この地に埋められたのだという。陽山にはいまでも採掘途中のまま山体に残された碑材と、「墳頭村」と呼ばれる村がある。

 孝陵の神道は、全長が千百メートルに達する。孝陵の精華ともいえる遺物である。歴代皇帝が採用していた「直線コース」の神道とは異なり、それは地形にそって造られたために、くねくねと曲がっている。

神道のレイ星門の遺跡

 神道の石像は、前後の2段に分かれている。前段は、西北方向の神道の両側に、12組6種の瑞獣(吉祥の獣)石像がならび、後段は南北方向の神道の両側に、1組の「石望柱」と4組の「石翁仲」(武将や文臣などの石像)がならんでいる。

東配殿と享殿の遺跡

 前段の神道脇にならぶ6種の瑞獣とは、獅子、箋豸、駱駝、象、麒麟、馬であり、、それぞれに異なる寓意や物語がこめられている。獅子は百獣の王であり、帝王の威風や尊厳を示している。箋豸は伝説中の神獣で、是非を見分けることができ、「法」(法理・法則)の象徴であるという。

 駱駝は北方の砂漠に、象は南方の熱帯に生きているので、領土の広さと皇帝の権力が四方におよぶという意味がある。麒麟は伝説においては、平和や吉祥を象徴する神獣である。ここでは、政治が公正であることを示している。馬は人間に使われる動物であり、死去した帝王の魂が冥界で使うものだ。

石望柱

 これらの石獣は、それぞれが一塊の石材から彫刻されたもので、見上げるほどに大きく、なかには重さが80トン以上に達するものもあるという。彫刻ラインは丸みを帯びてなめらかであり、しかも全体的な風格に勇ましさがある。明代初期における、中国石彫芸術の特徴を表すものだ。

 後段の神道は、高さ6.28メートルの一組の望柱を起点としている。その後方にいならぶ石翁仲が、高さ3メートルあまりの2組の武将像と、2組の文臣像である。武将は甲冑を身に着け、手には金吾(武官の持つ棒)を持ち、腰には宝剣をさしている。文臣は頭に朝冠(朝廷に出仕するときにかぶる帽子)をかぶり、手には朝笏(朝見の際、手に持つ細長い板。この裏に上奏したいことを書きとめる)を持っている。いずれも孝陵の忠実な守護者であることを示す石像である。

方城

 神道を過ぎると、孝陵の中心となる建築区である。孝陵の「陵宮」は、皇帝が生前に住んだ宮殿の構造どおりに建てたもので、「前朝後寝」の様式をとった。前後に合わせて3つの中庭が配されており、前から順に2つが「前朝」(前に朝廷)、1つが「後寝」(後ろに寝殿)のエリアとなっている。

常遇春の陵墓
 
徐達の陵墓
李文忠の陵墓
 
仇成の陵墓

 その最初の中庭が「陵宮門」から「享殿前門」までとなっており、そこには皇帝が陵を拝謁するときに休憩したり、着替えたりする「具服殿」、供え物をつくる「御厨」(台所)、それに2つの井戸が設けられている。しかし、いまでは廃墟となった遺跡しか残されていない。

 2つ目の庭は「享殿前門」からはじまる。庭内には正殿となる「享殿」と、その東西両側に建てられた「配殿」がある。

碑殿内にある康煕帝の「治隆唐宋」碑(中)と、乾隆帝の題詩を刻んだ石碑(左右)

 もともと享殿前門の敷地であったところには、現在、清代に再建された「碑殿」がある。そのなかには、清代の石碑が合わせて五基ある。中央の一基は康煕38年(1699年)、康煕帝が南方を訪れたときに題した文字を刻んだ「治隆唐宋」碑である。「朱元璋が国を治めた功績は、唐太宗・李世民と宋太祖・趙匡胤の功績を超えた」ことを称える内容である。

 その他の四基のうち、二基は乾隆帝が南方を訪れたときに孝陵を拝謁したことを示す詩碑であり、残りの二基が康煕帝が南方を訪れたことを記録した石碑である。いずれも当時、少数民族による清朝の統治者として一国を治めるために、こうした手段で人心をつかみ、政局を安定させようとしていたことを表している。

 享殿は、陵宮における主要な建築物であり、陵寝(天子の陵)で祭祀活動を行う際の中心的な殿堂である。いまに残される3層になった石造「須弥座」(仏教の世界の中心にそびえるという須弥山をかたどったもの)の台基(台座)と柱の基礎から、もとの広さがわかろうというものだ。享殿の幅は9間、奥ゆきは5間である。木造の殿堂には、直径約1メートルもの「金絲楠木」(クスノキの一種)の柱が56本使われていた。その規模は、北京の明の13陵でも規模最大の「長陵・リョウ恩殿」(幅66.56メートル、奥行き29.12メートル)に相当するといわれている。

明楼の西券門

 惜しいことに、享殿は清の咸豊3年(1853年)に、戦火にみまわれ消失している。いまでは須弥座台基の上に、だいぶ小型化された殿堂が建てられているが、これは清の同治年間に政府が大臣を遣わして、わずか740両の白銀を使って再建したものである。

 享殿と明の太祖を埋葬している陵墓の間には、アーチ型の門がある。門の東西両側は、陵墓の城壁とつながっている。そこが「内紅門」である。内紅門は、人々に現世と冥界との境目だと考えられているため、「陰陽門」とも呼ばれている。

内紅門

 内紅門を入って大きな石橋を渡ると、宝頂(皇帝の円墳)を守るための「方城」と「明楼」がある。方城と明楼が置かれたのは明の孝陵が初めてであり、明代以前の歴代の皇帝陵に、こうした建築物は見られない。

 明の孝陵においては、宝頂前に高くそびえる雄大な方城と明楼を建て、朱元璋が帝王としての至上であることと、その威厳を示している。これ以降、明・清時代の皇帝陵では、こうした建築制度が例外なく採用されることになった。(2005年9月号より)


 
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