婁ショウ=文 孫志軍=写真 |
中原文化と西域文化が集まり、出会い、融合してきた、シルクロードの要衝、敦煌。4世紀から石窟の開削が行われた莫高窟は、千年以上の歴史の積み重ねによって、豊かで多様な石窟芸術、中国独特な様式を持つ仏教芸術を生みだした。悠久な歴史を持ち、巨大な規模の莫高窟は、中国さらには世界の仏教芸術の至宝である。 |
敦煌は、中国甘粛省の河西回廊の最西端に位置し、祁連山脈から流れてきた左氏置水(今の党河)が氾濫してできた、沖積のオアシスであり、周りはゴビ砂漠と砂丘に囲まれている。敦煌は地理上、重要な位置にあった。東は中原地区につながり、西は新疆と隣接し、漢代からずっと中原から西域へ行く交通の要衝であり、有名なシルクロードにある重要な町である。
敦煌は、玉門関、陽関という2つの重要な関所に守られ、東西を往来する旅商人が必ず通る、東西貿易の中心地、中継点であった。漢代になって、中原と西域間の交通ルートが開通して以来、中原の文化は絶えず敦煌に伝わり、そこに深く根を下した。西域と隣接している敦煌は、発祥地をインドに持つ仏教文化を早くから受け入れ、西・中央アジアの文化も、インド仏教文化とともに、絶えず敦煌まで伝わってきた。中原文化と西域文化はここに集まり、出会い、融合してきた。
前漢から十六国時代まで、歴代王朝により敦煌の造営と開削が行われ、長い間ここは、比較的安定していた。そのため中原文化は、敦煌と河西回廊で保存され続けてきた。また、多くの有名な儒学者がここに誕生し、館を設立し講義を行い、本を著し説を立てた。約2世紀前後に、敦煌は涼州文化の中で初めて頭角を現し、封建経済、封建文化がとても発達する地域となった。そして、西へ法を求めに行く僧や、東へ法を伝えに来る僧も敦煌を通過し、この地での仏教の発展を促した。敦煌莫高窟もその時運に応じて現れてきた。 絶えず造営された莫高窟
唐代の碑文には、莫高窟の造営年代についてこういう記載がある。晋の建元2年(366年)東方の禅僧、楽 は、西へ行く途中ここを通った時、向こうに暗い赤色の三危山が夕日に照り映え、さんさんと輝き、まるで仏が光を放っているような光景を目にした。楽ソンはその山の麓に足を止め、莫高窟に初めての石窟を開削した。
その後、法良禅師も東から来てここを通った時、樂ソンが開削した石窟のそばにさらに一窟を造った。その後、北魏末期ごろには、沙州(敦煌の古称)の刺史(昔の地方官の一種)である東陽王・元栄と、北周の建平公・于義も石窟の修築を提唱しつづけたため、この宕泉渓谷の岸壁に、大小あわせて多くの石窟が、絶えず造られてきた。唐の則天武后時代に建造された石窟だけで、千を超えている。そのため、千仏洞とも呼ばれたのである。
莫高窟は、敦煌の東南25キロ離れた鳴沙山の東麓に位置し、前方は宕泉に臨み、東は祁連山の支脈である三危山に面している。4世紀から14世紀まで、石窟の開削や塑像の制作は止まらず、南北方向で約1680メートルの石窟群が形成された。現在、歴代にわたり造営された石窟は合わせて735あり、高さ15〜30メートルの断崖に、上下、1〜4段に重なりあい、南北2つの区に分布している。 南区は、仏に礼拝する場で、492の石窟があり、彩色の塑像が2000体以上、壁画は約4万5000平方メートル、木造のひさしが5基、保存されている。北区には243の石窟があり、僧侶たちが修行、居住し、埋葬された場所である。中には、修行や生活のためのオンドル、オンドルに通じているかまど、煙突、龕(仏像を納める厨子)、燭台などがあり、塑像や壁画はない。 塑像と壁画が織りなす仏教芸術
莫高窟は、もろい礫岩の断崖に開削されているので、細かく彫ることができず、泥塑像と壁画が主な芸術様式となっている。彩色された塑像は、木枠を骨とし、それを葦で縛り、草を混ぜた泥をその骨組みにつけ、膠を練った白土を塗る。そして細かい造型と彩色は、人物の肌や表情、服装の質感を表現している。壁画の制作は、窟中の壁に草を混ぜた泥を2、3層塗り、絵の構図を決め、下図を描き、色を施し、最後の仕上げをして完成する。莫高窟の石窟芸術は、建築や彩色の塑像、壁画が一体となった総合芸術である。 石窟の形と構造は、内容と機能によって異なっている。彩色の塑像は、石窟芸術の中心である。崇拝の主な偶像は、窟中の壁や中心塔柱窟の中心柱にある龕、或いは仏壇(須弥壇)の目立つところに安置され、周りの壁画の内容と関係し、統一されている。壁画は、石窟芸術の重要な構成部分である。その多くは、複雑な場面や豊かな内容を表現し、龕や壁、天井に、色とりどりに描かれ、中心となる塑像と相互に映え、完璧な石窟芸術を構成している。
莫高窟は、北涼、北魏、西魏、北周、隋、唐、五代、宋、西夏、元など十時代を経て、伝統的な芸術のもとに、外来の芸術を吸収、融合させ、千年以上の歴史の積み重ねによって、豊かで多様な石窟芸術、中国独特な様式をもつ仏教芸術を形成した。 莫高窟は、その悠久な歴史や巨大な規模、奥深い内包、精巧な芸術で、国内外で名が知られている。また、完全に保存されているため、中国ないし世界の仏教芸術の至宝となっており、中国と世界の文化史上、重要な地位を占めている。
莫高窟の建築芸術は、十時代にわたる多種多様な建築様式が完全に保存されている。時代の変遷や仏教の発展につれ、莫高窟の石窟は、主に禅窟、中心塔柱窟、殿堂窟、仏壇窟、涅槃窟、大像窟など、6種の形と構造の変化を経てきた。そこは塑像や壁画を設置する神殿であり、僧侶たちが宗教活動を行う場所でもあった。 莫高窟の早期の石窟芸術は北朝時代にさかのぼり、北涼、北魏、西魏、北周の4時代が含まれる。この時期の石窟は、主に禅窟、中心塔柱窟、殿堂窟の3種であり、いずれもインドや西域の仏教の深い影響を受けており、中国本土の芸術の特徴も現れている。
禅窟は、禅僧の修行の場である。この石窟は、インドの毘訶羅窟から発展してきたもので、中心となる室は長方形や方形で、真正面の壁には龕を設け、塑像を安置し、そこで修行者が礼拝する。両側の壁にそれぞれ2つ或いは4つの小さな室を設け、修行者がその中で座禅し修行する。第268窟と第285窟はこの種の石窟である。
中心塔柱窟は、中心柱窟や塔廟窟とも呼ばれる。この時期に流行した主要な洞窟の形である。インドの支提窟からきている。中心となる室の形は長方形であり、室の中央部から少し後に、天井と地面をつなぐ四角の柱を造り、柱の四面に龕を掘って塑像を安置し、修行者が柱を回り仏像に礼拝する。室の前半部の天井は、漢代の建築様式を模した、切妻形を表している。第254窟と第428窟はその種である。 殿堂窟は、修行者が仏に礼拝する場である。この窟の形は、中国の伝統的な殿堂建築の影響を受けており、中心となる室は方形で、真正面の壁に龕を開き、塑像を安置し、或いは龕を設けず、塑像だけを安置する形をとっている。あとの三面の壁には壁画が描かれている。天井は、斗を伏せた形の伏斗形や切妻形である。 時代とともに移り変わる石窟の形
隋・唐時代になると、石窟芸術にも、多様で、民族的、世俗的な傾向が現れはじめる。殿堂窟はそれが最も多く見られ、衰えることなく絶えず発展してきた。 唐の後期には、新たに仏壇窟が現れる。中心となる室の中央に方形の仏壇を設け、仏壇の後に伏斗形の天井に繋がる石屏風を造り、前に階段を造る。彩色の塑像群は仏壇の上に高く聳え立ち、信者たちは仏壇の右方向へ回り、仏像に礼拝する。第196窟はこの種の石窟である。
涅槃窟は、涅槃像があることで有名である。中心となる室は、横に長い長方形で、真正面の壁ぞいに両側の壁と繋がっている仏の床が設けられ、その上に涅槃像が横たわっている。唐の中期の第158窟は涅槃窟である。 大像窟は、窟中にある大きな弥勒仏の座像で名を知られている。莫高窟にある初唐の第96窟や、盛唐の第130窟はこの種である。大像窟は天井が高く、中心となる室の平面図は方形で、真正面には、石を原型にして、その上に泥を施して造られた大仏があり、大仏の後を信者が回り歩けるように、馬蹄形の通路が掘られている。採光のために、前壁の上部、中ほどに大きな窓が開けられており、石窟の外は、木造のひさしが幾重にも造られている。 この時期、中心塔柱窟は衰退しはじめる。修行の簡略化や仏教の世俗化によって、中心塔柱の機能はだんだん弱くなり、殿堂窟の仏龕の形に近づいてくる。
五代、宋、西夏、元代の石窟の形は、唐代後期の建築様式を引き継ぎ、中心となる室の真正面に龕を開き、中央に方形の仏壇を設ける殿堂窟が流行した。五代、宋代の殿堂窟の規模は、前の時代をはるかに超え、西夏、元代の殿堂窟には、多層の円形仏壇が現れた。第465窟はその種である。 崖の表面に残っている遺跡と文字によれば、隋・唐代各石窟の前室の外には木造のひさしが造られ、さらに各窟は木造の桟道で繋がっており、非常に壮大な景観だったと記載されている。(2005年11月号より) |
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