婁ショウ=文   孫志軍=写真


第112窟 伎楽図(中唐)

  敦煌莫高窟を華やかに彩る壁画は、仏像を中心に、飛天や舞楽人、供養人が、時代ごとの画風で、生き生きと描かれている。

  その技法と題材からは、東西文化が敦煌に集まったことを示し、描かれたすばらしい壁画からは、描き手たちのたゆみない創造への追求と、確かな技術を垣間見ることができる。


多様化する壁画 

第257窟 古代インドに伝わる、九色に変化する鹿「仏鹿」の物語を描いた一部分(北魏)

 敦煌の壁画は、尊像画、本生図、因縁画、仏伝故事画、伝統的な神話を題材にした画、仏教史跡画、仏典に説く説話的な内容を描いた変相図、供養人物画、装飾画に分かれる。

 北朝時代(386〜581年)は、四面の壁の上部を天宮の伎楽が取り囲み、壁画の大切な部分である中部には、壁一面の千仏や、仏の説法図、釈迦の前世、縁起、仏伝故事が描かれ、下部には、金剛力士や装飾が取り巻いている。

第412窟 飛天(隋)

 仏教の尊像画は、説法図を除いて、仏教信仰の多様化によって、薬師如来像、盧遮那仏、観音菩薩、勢至菩薩、地蔵菩薩、密教を題材にした菩薩像など、単体の仏の像も多く現れた。

 故事画は主として、前世の釈迦牟尼仏が、菩薩としての善行、衆生を済度した本生故事や、釈迦牟尼が仏になった後、衆生に説法教育し、外道の信者を教え導き救済した因縁故事である。これは、勧善懲悪、因果応報、仏法威力といった仏教思想を広めることだった。

第420窟 菩薩(隋)

 北朝時代後期の故事画は、民族化が進み、中国伝統の忠君、孝悌、仁愛、和順、父子の恩など、儒教思想が入ってくる。

 故事画の構成は、一つのテーマを描いた一枚の壁画から、横に長い連続壁画に発展した。また、違う時間、違う場所で起こった、移りゆくいくつかの出来事を一つの画面に描くという、とても独特な表現を用いている。

 北朝時代後期、中原で流行した道教神話の人物画が、莫高窟に描かれるようになった。竜や鳳凰の模様の輿に乗った東王公と西王母、体は蛇で人間の顔を持つ伏羲と女豢、青竜、白虎、朱雀、玄武、脇に羽の生えた長生不死の「羽人」、腕を振って太鼓を叩く、獣の顔で人間の体をした雷神などがある。

敦煌式の西域様式

洞窟で敦煌壁画巻頭の語を研究している樊錦詩・敦煌研究院院長

 西魏時代(386〜534年)の285窟では、西方の日の神アポロ、月の神ダイアナ、中国の日、月の神とされる伏羲と女豢が同時に描かれ、インドの金剛力士や、中国戦国時代、秦国の勇士、烏獲も見ることができ、東西文化が一堂に会したことが、顕著に見て取れる。芸術上の特徴は、敦煌式の西域様式と、上品で美しい南朝時代(420〜589年)の漢族様式である。

 技法は、西域の凹凸画法と中国のぼかし染めの手法が使われており、この技法で描かれたものも多い。これは、東西文化芸術の交流が深く、仏教芸術が絶え間なく中国化したことの反映でもある。

第285窟 五百強盗成仏図(西魏)

 供養人像は、開窟、塑像の功徳を施した主やその眷属で、幸福を祈り、願いをかなえるために描かれた。窟内に制作された『礼仏図』は、そのほとんどが、高さ一尺もないほど小さな人物画で、男女分かれて行列をなし、身分の順に、壁画の下方や、龕の下部に描かれている。

 北朝時代の装飾模様は、基本的に石窟の建築形式を表現するためのものだった。その図柄は、火炎紋、スイカズラ紋、雲気紋、幾何紋などがある。

第296窟 中原と西域の隊商

 北朝時代の壁画芸術は、中国本土の文化芸術の基礎の上に、直接、西域の仏教石窟芸術の影響を受け、程度の差こそあれ、インド、ペルシャ、ギリシャなどの影響を受けたガンダーラ芸術の要素を含んでいる。

 壁画の下地は、その多くが代赭色で、人物の造形はたくましく、動きは素朴単純で、西域のぼかし染めの手法が用いられ、立体的に描かれている。色彩はとても自然で、厚塗り、描線は細いにもかかわらず力強いという、敦煌独自の西域式仏教芸術を形成した。

第220窟 仏法を聞く中原の帝王(初唐)(写真:張偉文)

 北朝後期の壁画は、中原の新しい手法が加わった。下地は白色を基調に、細身で、ほっそりした容貌を持つ、高襟のゆったりした漢族の長い着物を身につけた人物が、中原のぼかし染めの技法で描かれ、すっきりとした色彩で、線は力強く洗練され、筆運びは速くリズミカルである。

 北朝時代の敦煌石窟芸術は、敦煌芸術の発展に確実な基礎を築き、敦煌石窟芸術の中でも、もっとも価値のある部分である。そして隋唐時代(581〜907年)、敦煌芸術は、新たな境地に入っていく。

変化し続ける壁画

第322窟 説法図

 隋唐時代、政治が統一され、仏教思想と芸術様式にも、統一をもたらした。そして敦煌石窟も、中国と西域文化が融合した変革の時代にあり、仏経に基づいて制作された様々な変相図が、次第に形成されていった。

 統計によると、敦煌石窟には、30種類の変相図があるといわれている。壁画の構図は法会を中心とし、仏は中央に配置され、両側には菩薩、天竜八部衆が描かれ、生き生きとした飛天、歌い舞う舞楽人も見られる。

第323窟 張騫が西域に使節として赴く様子を描いた壁画(盛唐)

 変相図という仏経芸術の形式は、中国仏教芸術の独創であり、古代の芸術家たちは、複雑な題材を扱い、変相図を大作ですばらしいものに仕上げた。画家は、壮観な宮殿楼閣や、あでやかで美しい山水風景を通して、果てしなく広い境地を創造することに長けていた。また、豊かで光り輝く色彩を生かし、華麗な画面を作り出し、すばらしい極楽浄土の世界を表現した。そして厳かな光景には特に力を入れ、とても緻密に各人物を描き出した。

第103窟 仏法を聞く各国の王子の図(盛唐)

 盛唐時期、供養人画は大きく発展し、ますます家族化と歴史化が進んだ。人と神の地位に変化が見られ、等身大に描かれた人物像は、目立つ場所に配置された。

 第130窟の晋昌太守・楽庭?とその夫人・太原王氏一家の『礼仏図』は、盛唐時期の供養人画の代表作である。

 晩唐時期の節度使・張議潮は、開削した洞窟に、一家三代の姻戚眷属を一同に並べた供養人画を描いた。洞窟は先祖を祭り、その名を上げる祖廟となった。特に、晩唐時期、第156窟の『河西節度使張議潮統軍出行図』『宋国河内郡夫人宋氏出行図』は、大きな規模で構図的にもすばらしい、重要な歴史絵巻である。

第409窟 西夏王供養図(西夏)

 唐時代は、敦煌の装飾芸術の発展がピークに達した時期であった。その図柄は、綾、錦、絹、刺繍の模様を似せたもので、種々様々、造形も豊富で、構成もしっかりしており、色彩も華やかで美しい。壁画芸術は、隋時代の探求を経て、唐時代に、完璧な域に達した。

 盛唐時期の芸術は、中原の写実様式を継承し、人物の性格描写はきめ細やかで、整った構図に、自由豪放で簡潔、正確な筆致の「蘭葉描」という描線が用いられ、雄壮で健康的な、あふれんばかりの生命力が画面から感じられる。

 晩唐時期になると、人物の内面的な表現、主題画の境地の創造、画面の芸術性や情緒は、いずれも徐々に衰えていった。唐時代の写実的な芸術創作の高まりは、装飾に傾いた様式になっていった。

第103窟 維摩詰変相(盛唐)

 晩唐時期、仏教は二度の廃仏により、大きな打撃を受け、各宗派は日増しに衰えた。また海上のシルクロードが興り、陸上のシルクロードは衰退し、敦煌石窟仏教芸術も同じ道をたどることになった。

 しかし、五代、宋時代(907〜1279年)、瓜州(現在の安西県)、沙州(現在の敦煌市)を統治した節度使・曹議金は、経済、政治、外交を的確に行い、仏教を尊んだ。また画院と伎術院を設置し、画家や彫塑家、職人たちを集めて、開窟や壁画の制作に当たらせ、院派の様式を確立した。そのため、莫高窟の石窟芸術は、繁栄の姿を持ち続けた。

 五代、宋時代は、大きな変相図が主であったが、題材の内容は、前代と変わらなかった。

第17窟 蔵経洞から出土した絹画 不空絹索観音菩薩図(北宋)(フランスギメ博物館収蔵)

 五代時代の第61窟『五台山化現図』は、莫高窟でも最大の仏教聖跡図である。これは、宗教性、歴史性、芸術性を巧みに組み合わせ、5つの峰を主体に、五台山の周囲数百華里内の不思議な現象と、仏教聖跡及び町の関所、店舗、道など190あまりの場所を一つの壁に描いている。それは、上から下まで、天界、神と人間が接する世界、この世の現実世界を、独特のリアルさと想像を結びつけて形作った地図であり、内容豊かで奥深い境地の、貴重な山水画でもある。

 しかし、石窟芸術の主要な制作者は画院の画師であったため、画院の統一した様式と、画一的な表現により、変相図の内容は一段と貧困なものになっていった。人物の生き生きとした表情は消え、表現は同一化し、色彩は単調で、描線も力のないものになった。人物の精神表現と画面の境地の創作は、内的な生命力や、審美の理想に欠けてしまった。

千余年の時間

第158窟 各国王子が死者を悼む様子を描いた図(中唐)

 西夏時代(1038〜1227年)の壁画は、曹氏画院の規範を継承し、漢民族化の基礎の上に、中原の様式とタングート族の特徴を持つ人物を造形した。そこには、タングートの民族の風貌が現れ、西夏壁画独自の道が切り開かれた。

 チベット密教芸術の影響を受けた元時代(1368〜1644年)には、曼荼羅、五方仏、明王、金剛など、チベット仏教の題材が多くなり、チベット密教絵画芸術の新しい要素や技法が取り入れられた。

第112窟 伎楽図(中唐)

 莫高窟第465窟の「薩迦派壁画」はその代表で、青、白、緑、褐、金などの色が多く用いられ、下地の色は濃厚で、神秘、畏怖、冷ややかな美しさであるチベット芸術の様式が描き出されている。

 莫高窟の第3窟「千手千眼観音」は、中原の漢民族文化と、密教芸術の様式が共に見られる代表的なもので、中国人物画を描く技法である「鉄線描」「折蘆描」「遊ヒソ描」「丁頭鼠尾描」など、多くの線描が用いられている。色遣いも淡く上品で、線描により描かれた仏教芸術では最高のものである。

第285窟 供養人(西魏)

  千余年経った今日でも、石窟に描かれた壁画の魅力は衰えず、私たちの目の前に、中国と西域の政治、経済、文化、芸術の交流を映し出した歴史絵巻を繰り広げる。

 敦煌莫高窟芸術は、世界でもまれに見る、完全な形で保存された仏教芸術画の宝庫である。(2006年3月号より)



 
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