劉世昭=文・写真


水辺に建てられた亭の「水心シャ」

 1701年の秋、清の康煕帝(在位1661〜1722年)は、文官と武官を率いて、24度目の北部への巡視に出かけ、木蘭猟場で狩猟を行った。

 熱河の宿営に着いたとき、奇異な峰がそびえ立った、すばらしい景観が目に入った。そして康煕帝は、この山と水に囲まれ、広々とした土地に、行宮を建設するよう直隷(河北省の旧称)総督に命じたのだった。

 それ以来、89年の間、わずか二十数戸しかなかった小さな山村は、世界最大の皇室庭園になった。


「康乾72景」
避暑山荘の正門「麗正門」

 総面積564万平方メートルを占める、河北省の承徳市にある避暑山荘。地形の変化に沿って作られた庭園には、山や川、谷、平原、湖、森林、草原など自然の景観が再現されている。そしてその風景の中には、多くの中国の名勝の姿を見ることができる。

正宮の楠木殿「澹泊敬誠」

 この宮殿と御苑が一体になった皇室の庭園には、合わせて152組の景観があり、そのうち最も代表的なのが「康乾72景」である。「康煕36景」は、康煕帝によって4つの漢字で扁額が書かれており、「乾隆36景」は、乾隆帝が3つの漢字で扁額を書き記している。

 山荘の景観が分布している区域には、9つの宮門以外に、4つの大きな宮殿区や、9つの湖と10の島のある湖区、平原区や山地区がある。

正宮午門の上に掛けられた康煕帝の筆による「避暑山荘」の扁額

 「麗正門」は山荘の正門で、「乾隆36景」の第1景である。門を入ると、正宮、松鶴斎、万壑松風、東宮という4つの大きな宮殿があり、現在、東宮は遺跡だけが残され、ほかの三大建築は完全な形で保存されている。

 山荘の宮殿建築が、北京の紫禁城と違うのは、皇権を象徴する黄色の瑠璃瓦や、漢白玉(大理石)の欄干、ベンガラ色の壁が見られず、梁や棟木に彫刻も絵も施されていない点だ。黒いレンガと灰色の瓦で建てられた宮殿は、山荘の風景と調和し、いっそう上品に見える。

楠木殿と呼ばれる殿堂

「澹泊敬誠」の中の皇帝の玉座

 正宮は、清代の皇帝が承徳にいる際、日常政務を執り行った場所である。山荘の中でも大切な建物で、「天子が九重に身を置く」という理念に基づき、南北方向の中軸線に沿って建てられた。

 二つめの中庭にある内午門には、康煕帝が書き記した「避暑山荘」という、周りに竜が彫刻された扁額が掛かり、「避暑山荘」の文字は金が塗られている。

皇帝の寝室である「煙波致爽」の「西暖閣」

 内午門に入ると、大きな四合院式の建築があり、真ん中の殿堂は、皇帝が政務を行った場所「澹泊敬誠」である。

 殿堂は、康煕50年(1711年)に建築が始まった。乾隆19年(1754年)には、楠木で改築されたことから、楠木殿とも呼ばれ、全ての殿堂には、今でも楠木の香りが漂っている。

「澹泊敬誠」の外の軒下に掛けられた、乾隆帝による詩の扁額

 殿堂の真ん中には、康煕帝が記した「澹泊敬誠」の扁額が掛けられている。殿内には、乾隆帝自筆の3つの対聯があり、東側の壁には、乾隆帝の『賦得澹泊敬誠』の詩、殿堂の軒下には、竜と雲で縁取られた金泥を塗った額が3枚掛けられ、その上には、乾隆が太上皇になった後、ここで作った3つの詩が刻まれている。

 「澹泊敬誠」の後ろには、清代の皇帝が朝廷に出る前、休憩や着替えをし、上奏文に目を通し指示を与え、主な少数民族の首領や、近臣と接見した「四知書屋」がある。「四知書屋」を通り過ぎると、正宮の朝廷と寝室の間に、一列に並んだ19間の平屋「万歳照房」がある。

「松鶴斎」の宮門

 皇帝の寝室「煙波致爽」は、「康煕36景」の第一景である。当時ここで皇帝は、皇后や妃の拝謁を受け、近臣と朝政を討議し食事をとった。清代の嘉慶帝と咸豊帝は、この場所で病気のため亡くなっている。

 乾隆14年(1749年)に建てられた「乾隆36景」の第3景「松鶴斎」は、乾隆帝が母親の孝聖憲皇后のために建築した保養の場所である。「松鶴」という名前は、不老不死を象徴する意味でつけられた。庭の全体はとても静かで、かつて乾隆帝の母は、ここで鶴を放し飼いにし、自由に飛びまわらせていたといわれている。

江南の風景を再現

上湖と如意湖の間にある「芝径雲堤」は、杭州西湖の蘇堤に模して作られたもので、「康煕36景」の第2景である

 「康煕36景」の第6景「万壑松風」は、南向きに建てられる皇室建築と違い、湖に向かった北向きになっている。この場所は、康煕、乾隆の両皇帝が読書し、休養をとり、景観を楽しんだ場所だった。

 「万壑松風」の北にある見渡す限りの湖区は、総面積59万平方メートルで、山荘全体の約10%を占める。湖区は、9つの湖と10の島からなり、島と島の間は堤や亭などによって結ばれている。 

青蓮島の「煙雨楼」

 康煕帝や乾隆帝が、何度か江南へ巡視に行った時、江南の景色を特に好んだことに由来しているのか、湖区にある数多くの建築物や景観からは、江南の名勝の名残を見ることができる。それは、蘇州の獅子林に模した「文園島」、鎮江金山の「金山島」、杭州西湖の蘇堤の「芝径雲堤」、蘇州滄浪亭の「滄浪嶼」、嘉興南湖の煙雨楼の「煙雨楼」などである。

 「水心鯀」は、乾隆36景の第8景である。彩色された3つの亭が、下湖と銀湖をつなぐ石橋に南北に並び、その橋の両端には、それぞれ絵が描かれた木製の鳥居形の牌坊が立っている。橋の下には、もともと山荘の排水閘門があったが、山荘の改築によってここが湖の中心になった。建設者は、周りの景観を借景に橋や亭を作り、山荘に一つの風景を加えた。

芝居や雲を観賞した「一片雲」

江蘇鎮江の金山の風景に似せて建てられた「金山島」

 「如意洲」は、山荘の中で面積がもっとも広く、景観がもっとも多い島で、「康乾72景」の中の12景がここに集まっている。正宮が建設される前は、ここで皇帝が朝政を執り行い、日常生活を送った。

 正宮が完成した後、皇太后や皇后、妃らはここに住み、皇帝もここで保養した。島の中央にある主要な建物「無暑清涼」は、「康煕36景」の第3景である。

当時シフゾウが群れをなしていた山荘は、今では、多くのニホンジカが放し飼いされている

 3つの中庭がある住宅は、中国北方の四合院の様式を取り入れている。「康煕36景」の第4景の主殿「延薫山館」は、かつて康煕帝が政務を執り行ったところで、その東側の「一片雲」といわれる小さな庭が、「乾隆36景」の第18景である。

 庭の北側には、2階建ての芝居を見るための建物があり、南側には舞台が設けられている。ここは、皇帝や皇后、妃、大臣らが芝居を見、雲をめでた場所だった。

皇室の寺院「般若相」

 「一片雲」の東南の隅には、「般若相」という独立した建築物がある。これは、「乾隆36景」の第16景で、インド仏教の寺院に模して建てられた皇室の寺である。

「金山島」の「香遠溢清」前にある「流杯亭」では、曲水の宴が楽しまれた

 寺の正殿には、無量寿仏が安置され、東西の配殿には天神と竜王、後殿には雨、雷、風、雹を司る神が祭られている。当時、毎年旧暦の6月24日になると、熱河の総管がここで竜王と各天神を祭祀し、順調な天候、穀物の豊作と人々の健康を祈った。

 湖区の北へ行くと、山荘総面積の9.8%を占める平原区があり、その北は、総面積の77.8%を占める山地区である。439万平方メートルの面積に及ぶ自然の山地は、峰々が起伏し、溝と谷が縦横に走っている。夏の時期ここの気温は、山荘のほかの区より2度低く、承徳市内より4度も低い。

 避暑山荘は、10キロにおよぶ石の城壁で守られている。小長城と呼ばれる北城壁に登って周りを眺めると、極彩色に輝く寺々を一望に収めることができた。(2006年7月号より)


 
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