侯若虹=文 馮進=写真 |
1974年3月、陝西省臨潼県(現・西安市臨潼区)の晏寨郷西揚村の村人が、井戸を掘っているときに、思いがけずたくさんの素焼きの人形の破片を発見した。発見された場所は、秦の始皇帝陵の東1500メートルほどのところに位置する。考古学者の調査によれば、それは長方形の秦の兵馬俑坑であった。 |
1976年、最初に発見された兵馬俑坑の北側から20メートルと25メートル離れたところで、さらに2つの兵馬俑坑が発見された。発見された順に、それぞれ兵馬俑坑1、2、3号と命名された。3つの坑の総面積は2万2780平方メートルに及ぶ。長い間地下に埋もれていたこの軍陣こそ、世界8番目の不思議と称される秦の始皇帝兵馬俑である。1987年、この秦の始皇帝兵馬俑は『世界文化遺産リスト』に登録された。
西安市臨潼区の東、驪山北麓に位置する秦の始皇帝陵は、紀元前246年から紀元前208年にかけて建てられた中国歴史上最初の皇帝陵園である。その巨大な規模、豊富な副葬品は中国の歴代の帝王陵の中でも最高のものである。
20世紀の80年代から90年代まで、秦の兵馬俑の研究と発掘に伴い、兵馬俑博物館建設とそれに続く拡張プロジェクトが並行して展開されてきた。現在、博物館で見ることができるものは、すでに発掘され、きちんと整理された文物もあれば、今なお発掘中、修復中の文物もある。人々はこうしてより歴史に真実味を感じられるようになり、長い歳月埋蔵されていた文物の特殊な魅力を身近に楽しめるようになったのである。 威風堂々たる雄壮な地下軍陣
博物館の1号坑の展示室に入ると、地下5メートルの深さのところに、人間とほぼ同じ大きさの1000体以上の武士が整然と並んでいる。全身濃い古銅色で、高さ180から197センチにも及び、ひとつひとつが威風堂々たる雄壮な姿をしている。
古代の泥人形芸術の宝庫
中国の陶俑が最初に登場したのは戦国時代(紀元前475〜同221年)だが、その頃に制作されたものは比較的小さく、低い温度で焼いた、荒削りな作りであった。秦の兵馬俑は背が高いだけでなく、念入りに、精緻に手が尽くされ、非常に高い技術水準によって作られたものであった。
またその中には千軍万馬の間を戦ってきたであろう髭を蓄えた老兵もいれば、初めて戦場に臨むかのような青年もいる。身長196センチの将軍俑は、巍然と立ちはだかり、精神を集中して深く考え込んでいるような、たくましさのにじむ毅然とした表情をしている。武士俑は、やや頭をもたげて両眼で前方を直視しており、意気軒昂ではあるが、いくらか幼さが残っているようにも見える。 弩を持つ立射俑
2号坑の北東方向に位置する弩兵方陣から、多くの弩を持つ立射俑が出土した。身なりと体つきは基本的に同じような、みな鎧を身に着けていない軽装歩兵俑で、限りなく本物に近い姿をしている。左足が左前方へ斜めに半歩ほど出ていて、両足が丁字形を作っている。左足をわずかに曲げ、右足は後ろにぴんと張り、左腕を斜め左下に出し、右手を胸の前で曲げている。頭と体はやや左に向き、顔を上げ左の前方を凝視している。この立ち姿は弩を手に射る準備の動作であり、『呉越春秋』に記載のあるものとほぼ一致している。立射俑は両手の手のひらを広げており、弩を持たずに射る動作の練習をしているに過ぎないことを物語っている。その足、手、体の格好はいずれも理にかなったもので、非常に科学的である。これは、秦の始皇帝時代の射撃のテクニックがすでに非常に高いレベルに達していただけでなく、規範化したモデルを作り出し、後世に継承されていたということを十分に反映している。 表情の多彩な跪射俑
この弩兵方陣の中心には、さらに160体の跪射俑がある。襟合わせは右前で、ひざのところまでの長い上着を身につけ、黒い鎧とすね当てをつけ、四角い口で先が平らになったものが反り返るような形の靴を履き、頭には円形の髷を結んでいる。しゃがんだ姿勢で、左足は曲げて立て、右膝を地面につき、右足のつま先を立てて、地に突っ張る。上半身はやや左に向きを変え、両目を鋭く光らせ、左前方を凝視している。両手は弩を持つような形で体の右側の上と下に構えている。 人々を驚嘆させた製造工芸
兵馬俑坑から出土した青銅兵器には、剣、矛、戟、刀や大量の弩、矢じりなどがある。化学分析データから、これら銅錫合金の兵器はクロムメッキ処理が施されていることがわかっている。2000年以上土の中に埋まっていながら、依然として刃先が鋭利なままぴかぴかに輝いていることからも、当時すでに高いレベルの冶金技術があったことは明らかである。
2台の馬車はともにひとつの轅に四頭立てのもので、前後に配列されていた。前の1号車は古代の「高車」と呼ばれるものである。「高車」は弩と弓、矢、盾などを配備された馬車で、御者は官吏の帽子をかぶり、後ろの2号車を守っているということがわかる。2号車は「安車」と呼ばれ、前御室と後乗室との間は車壁で分けられている。御者は前御室に、主人は後乗室に座る。乗室の前と左右両側にそれぞれ3つの窓、後ろにはドアがついている。いずれも開閉自在で、窓にある小さな穴で空気の流れを調節でき、外を眺めることもできる。楕円形の傘状の天蓋もついている。馬車全体は白色を地色として彩色上絵が施され、1500あまりの金と銀の部品と装飾品があしらわれ、華麗で富貴である。秦の始皇帝の霊魂が外遊するときに乗るものなのだろうか。
この2台の銅車馬は中国で最も早期の、最もレベルの高い、最も精緻に作られた、最も部品の揃った青銅器の逸品で、世界的考古発見における最大の青銅器である。その出土は、秦代の冶金技術、車両構造、工芸造形などの考証にきわめて貴重な実物資料を提供することとなった。秦代の青銅鋳造工芸は、商(殷)と周の青銅鋳造芸術を継承し、また自らも著しい進展を遂げ、非常に高いレベルに達し、中国古代の冶金史上における集大成となっている。青銅の冶金や鋳造技術、また溶接や金属の常温加工、組み立て技術の面を問わず、いずれも驚くほどのレベルに達していたことは、秦の始皇帝が全国を統一したのち、科学技術が大きな進歩を遂げたことを物語っている。(2006年11月号より) |
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