北京の旅・暮らしを楽しくする史話
 

わたしの北京50万年(第2話)
漢方薬と北京原人――先史時代

              文・李順然 写真・馮 進

  北京の南西50キロの周口店
そこの竜骨山という山から
50万年前の北京原人の化石が出土した
20万年前の新洞人の化石が出土した
2万年前の山頂洞人の化石が出土した
1万年前の東胡林人の少女は
巻貝のネックレスを付けていた
牛骨のブレスレットを付けていた
 

        盧溝石橋と竜骨山

盧溝橋の欄干に刻まれた石の獅子

 観光旅行で5回も、6回も北京を訪れていながら、まだ周口店には行っていないという人がかなりいます。ちょっと残念なことです。北京の南西郊外の周口店は、北京の、北京人のルーツ、発祥の地、50万年前の人類北京原人の化石が発掘されたところです。ここに足を運び、十分でも、二十分でもここに身を置き、ここの空気を胸一杯に吸ってみることは、きっとあなたの北京への、北京人への想いに新しい深みと重みを添えてくれることでしょう。

 北京の南西およそ50キロの周口店に行くには、永定河という川に架かる盧溝橋を渡ります。といっても、イタリアの旅行家マルコ・ポーロ(1254〜1324年)が『東方見聞録』でその美しさを絶賛した、中国最古のアーチ型の石橋、盧溝石橋は、国の文化財に指定され、保護されているので、車で渡ることはできません。車は、盧溝橋のかたわらに新しく架けられた橋を先に渡って対岸で待ってもらい、自分は車を降りて、マルコ・ポーロ絶賛の、金の大定29年(1189年)に架けられた石橋を歩いて渡ることをお勧めします。橋の欄干に刻まれた、一つ一つ表情の異なる485個の獅子の顔を眺めながら……。

 ところで、50万年前の人類である北京原人――シナントロプス・ペキネンシスの頭蓋骨、大腿骨、上腕骨、歯などや、石器や火を使った跡が発掘されたのは、周口店の竜骨山一帯です。ここでは、20万年前の人類である新洞人や2万年前の人類、山頂洞人の骨や歯、石器なども出土しています。竜骨山という名の由来ですが、遠く宋代(960〜1279年)にこの辺で石灰を掘っていた人夫が、さまざまな形の動物の骨を見つけました。これを漢方の薬屋さんが「竜の骨だ。貴重な生薬だ」と高い値段で買いとってくれるので、この山は竜骨山と呼ばれるようになったそうです。

 この種の漢方薬がのちに甲骨文字の発見、さらには北京原人の発見にと繋がっていったといいます。清の光緒25年(1899年)、金石学者王懿栄が、北京の漢方薬店で売っていた竜の骨だという骨に古文字が刻まれているのを見つけ、これが甲骨文字の発見に繋がりました。さらにこれが人類学者の北京郊外竜骨山発掘のヒントとなって、北京原人の化石発見へと繋がったというのです。ちなみに、周口店は原人の化石発掘の地として、ユネスコの世界遺産に登録されています。

        短命だった北京原人

北京原人の頭蓋骨
(撮影・祁国慶)

50万年前の人類、北京原人は、どんな姿をしていたのでしょうか。その骨や歯などから専門家が割り出したところでは、北京原人の身長は、男性が156センチほど、女性が144センチほどで、現代の北京人よりかなり低く、脳の重さは現代人の80%ほどだったようです。また、寒さと飢え、猛獣の襲来といった当時のきびしい自然環境のために、その寿命も短く、38体の北京原人の化石のうち、14歳以下が15体で、50歳以上は一体だけという研究結果もでています。

 これとくらべて、同じこの一帯に、2万年前に住んでいた山頂洞人の暮らしは、かなりよくなっていたようです。周口店竜骨山の山頂洞人の住居遺跡からは、毛皮の服を縫うのに使ったと思われる動物の骨で造った針や、貝殻を磨いて作ったアクセサリーも出土しています。おしゃれをするゆとりもでてきたようです。身長も、男性が174センチほど、女性は159センチほどと、北京原人よりずっと高くなっています。

 周口店一帯では、こうした原人たちが住んでいた洞窟を見て回ったり、ここで出土した原人の化石などを展示している展覧館を見学したり、50万年にわたって人類をはぐくみ育ててきたここの山や小川、平野といった大自然のなかに身を置いたりして、しばし50万年前に、20万年前に、2万年前に、タイムトンネルを逆もどりし、あれやこれや瞑想にふけるのも楽しいものです。

       東胡林人のネックレス

東胡林人の使った首飾り(撮影・祁国慶)

 2万年前の山頂洞人といえば、それとほぼ同じ時代の人類の住居遺跡らしきものが、なんと北京のど真ん中、北京の銀座ともいわれる王府井の東方プラザビル建築現場の地下12メートルから発掘され、話題になったことがありました。1996年12月のことです。周口店のあたりから渡ってきた人類なのか、それともまったく別の種族の人類なのか、学界でも注目されています。いずれにしても、この時代の人類が、すでに周口店のような山岳丘陵地帯だけでなく、平地でも暮らしていけるようになっていたことになるというのが、この調査に加わった人たちの大方の見方でした。

 以上は旧石器時代の人類の遺跡ですが、1万年から4、5千年前の新石器時代のものとなると、東は密雲県の董各荘、西は門頭溝区の東胡林、南は通州区の三間房、北は懐柔県の喇叭溝門、中央部では中国のシリコンバレーともいわれ先進科学のメッカ、海淀区の中関村など、北京のあちこちで見つかっています。

 いろいろ出土品もでています。1万年前の人類遺跡、門頭溝区の東胡林で出土した少女が首につけていた巻貝のネックレスや、腕に付けていた牛の骨のブレスレットなどは、2万年前の山頂洞人の付けていたアクセサリーと比べ、さらに磨かれ、洗練されており、綿々と続く人類の美への限りない追求と憧憬の歴史がうかがえます。美を求める心も、和を求める心とともに、北京人の長い長い歴史の底流に、ずっと流れ続けていたのでしょう。

 こうしたアクセサリーは、北京の孔子廟のなかに設けられている首都博物館にも展示されています。素朴な美しさに溢れるその姿を見るたびに、アクセサリーを身に付けるということは、火や道具の使用と同じように人類の一大発明だなとつくづく思うのです。

 ちなみに首都博物館は、北京50万年の歴史の歩みをとても簡明に展示しているこぢんまりした博物館です。北京観光の前にここに足を運び、北京の50万年の歴史をざっと頭に入れておくと、きっと役に立つことでしょう。地下鉄環状線の雍和宮駅の近くです。ここには清代の1694年に建立されたチベット仏教ゲルク派の寺院、雍和宮と、元代の1306年に建てられた孔子廟、その隣にある元代の1287年に建てられた元、明、清三代の最高学府である国子監の三点セットがあります。参観のついでに、首都博物館にも立ち寄ってみてはいかがでしょう。

       20世紀が残したミステリー

 孔子廟は、北京・国
 子監街にある。その
 規模は、山東省曲阜
 に次いで大きい。

 北京原人の頭蓋骨が周口店で最初に見つかったのは、1929年12月2日ですが、その70周年を記念する集会が20世紀も残り少なくなった1999年の秋に北京で開かれました。席上、北京原人の頭蓋骨を発見した一人で、91歳の中国の人類学者、賈蘭坡さんは、世界の至宝ともいうべき北京原人の頭蓋骨が1941年に北京の協和病院の大金庫から忽然と姿を消してしまい、いまも行方不明であることにふれ、「あの頭蓋骨のことは一刻も忘れたことはない。まだ心残りになることがあるなら、それはもう一度、あの頭蓋骨と再会することだ」と語っていました。残念なことに、賈さんは「わたしの骨は周口店に埋めて欲しい」という遺言を残して、去年の7月8日に亡くなられました。

漢方薬の老舗、同仁堂は、清の康煕8年(1669年)の創業。北京の有名な商店街である前門の大柵欄街24号に店を構える。竜骨はこうした漢方薬店で売られていたのかも

 この頭蓋骨の行方については、日本との開戦必至とみたアメリカの関係者が、これをアメリカに移そうとしていたというところまでは大方の見方は一致しているのですが、そこから先についてはいろいろの説があり、いまに至るも行方不明のままなのです。アメリカに渡ったという説、日本に運ばれたという説、中国に残されているという説、輸送途中に船が沈んでしまい海底に眠っているという説……いずれにしろ、20世紀が残したこの謎、21世紀にはぜひ解明してもらいたいものです。

 もう一つ、21世紀に解明してもらいたいなと思うことがあります。北京原人といくらか関係があるので、書き加えておきましょう。もう10年も前、正確には1993年の5月のことです。『朝日新聞』(1993年5月13日)の「50万年前 日本にも原人?」という見出しの記事がわたしの目をひきました。宮城県の高森遺跡を50万年前のものとする調査結果についての記事です。わたしは早速地図をだしてみました。なんと北京の周口店と宮城県の高森遺跡はともに北緯40度の線の近くに並んでいるのです。北緯40度は、当時の人類生存の北限とされていますが、わたしの頭のなかに「ひょっとすると」という感じが掠めました。この記事には、「50万年前の地形からみて、中国大陸とつながっていた当時の日本に北京原人が住んでいたとしても不思議はない」という日本の著名な学者の談話も添えられていましたが……。

 あの日からわたしは高森遺跡から新しい、いいニュースが伝わってくるのを、首を長くして待っていました。ところが、20世紀の幕がまさに降りようとしているとき、心ない人間の捏造事件が起き、高森遺跡も疑惑に包まれてしまったのです。残念なことです。でも、わたしは気を落してはいません。21世紀のある日、日本列島のどこかで、あの記事に繋がるなにかが、誠実な人たちの手で発見されるのを期待しているのです。素人の夢物語かもしれませんが……。

 古代の中日交流については、北京原人の最初の発見者で中国考古学界の元老、裴文中(1904〜1982年)も「古文化と古生物からみた中日間の古交通」という論文で、この問題をとりあげています。裴文中は、日本の大分県早水台遺物が周口店竜骨山の第15地点のそれと多くの共通点をもっていることや、中国大陸と日本列島が陸続きだったことなどたくさんの事例をあげて、中国と日本の古文化、古生物がとても密接な関係にあったことは確実で、大いに研究すべきだとしているのです。専門家のことばには重みがあります。わたしもひき続きわたしの夢物語を膨らませていくことにしましょう。

 来月の第3話では、「紀元前1057年3月7日」というタイトルで、北京に最初に誕生した燕という国のお話をしようと思っています。(2002年2月号より)

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。