北京の旅・暮らしを楽しくする史話
 

わたしの北京50万年(第3話)
 紀元前1057年3月7日――燕

              文・李順然 写真・馮 進

  燕という国が北京に生まれた日に
ハレー彗星と木星が見えたという
三千年も昔の話だが・・・・・・
戦国時代の七雄のなかでも
いちばん北の小国燕は
知恵を絞って生き抜いた
「隗より始めよ」とか「漁夫の利」とか
燕はいろいろのことわざの故郷となった
 

       ハレー彗星と燕国誕生

唐の開元27年(739年)に創建された白雲観は、北京で最大の道教の建築物である

 旧・新石器時代のあとを追うように、北京には燕という国が登場します。いつごろのことだったのでしょうか。司馬遷(生没年不明)が紀元前90年ごろに書いたといわれる『史記・燕世家』には「周の武王が殷の紂王を滅ぼして、召公 を北燕に封じた」と記されていますが、多くの学者はこのときを燕誕生の年だとしています。

 では、それはいつだったのでしょうか。第一話でもふれましたが、大方の見方は紀元前1046年です。これは20世紀末に中国の各方面の学者二百余人が4年がかりで作成した『夏商(殷)周年表』に記され、教科書などにも採用されていて、もっとも権威のあるものとされています。しかし、この問題でも「百花斉放・百家争鳴」で、『北京通史』(中国書店1994年)では紀元前1122年説から紀元前1027年説まで、二十以上の説が挙げられています。

 なかでも、わたしが心情的に引かれているのは、紀元前1057年説です。紀元前1057年説の根拠は、前漢の高祖劉邦(紀元前247?〜前195年)の孫で、淮南王を継いだ劉安(紀元前179〜前122年)の『淮南子・兵略訓』などにみられる周の武王が、紂王を滅ぼしたときに、天空にハレー彗星とおぼしき彗星があらわれ、同時に木星もみえたという記載です。

 こうした記載をもとに中国の天文学者で南京の紫金山天文台の台長をしていた張哲さんらが、ハレー彗星の近日点を逆算するなどして、『淮南子・兵略訓』などに見られる天空現象があらわれたのは、紀元前1057年3月7日だとしているのです。

 1978年の『天文学報』第一期に公表されたものですが、ハレー彗星とか木星とかが姿をみせてとてもロマンチックなうえに、3月7日という具体的な数字まで挙げていて、わたしはずっとこの説に「恋」をしています。

 まあ、いろいろの説があっても、古代の歴史にはベールにつつまれている部分が少なくありません。冒頭で「周の武王が殷の紂王を滅ぼした」と書きましたが、この殷王朝の存在でさえ、20世紀に入ってから河南省の安陽で、殷王朝の都の跡である殷墟が発掘されるまでは、殷王朝架空説を唱える学者も多かったのです。

 古代の歴史については、いつ、どこで、なにが発掘されるかわからず、それによってこれまでの定説が覆えされることもあるのです。

       あざみの花の咲く燕都

北京・房山瑠璃河卿の董家林村にある西周時代の燕の都の遺跡

 話を燕にもどしましょう。燕の版図は、北京を中心に現在の河北省、山西省、遼寧省などに及び、戦国時代の秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓の七国のなかではもっとも北に位置しています。その都は、北京原人の化石が発掘された周口店の南の房山区董家林に置かれました。董家林には燕都遺跡博物館が設けられています。

 その後、燕は薊(現在の北京市宣武区広安門一帯)に都を移し、ここに宮殿を造りました。淡紫色や、淡紅色の薊の花が一面に咲いていたので、この名がついたそうです。韓非(紀元前280?〜前233年)が書いた『韓非子・有度』によりますと、燕が董家林から薊に都を移したのは、燕の襄公のころ、つまり紀元前657年ごろのことだろうとみられています。

燕の都の遺跡から発掘された燕の墓。300基以上もあり、数十の車馬坑や、多くの長方形の竪穴坑が見つかっている

 それから、1215年にジンギスカンの蒙古軍が北京を攻め落として、このあたりがさんざんに破壊されたりするまで、広安門一帯は1800年にわたって歴代の王朝、地方政権の都となってきたのです。

 現在の広安門一帯は、東京でいえば池袋あたりとなるのでしょうか。北京南西部の繁華街で高層ビルが並び、古都の面影はあまり感じられません。

 ですが、広安門通りの中心から北へ十分ほど歩いたところには、千年ほど昔の遼代に造られた天寧寺の13層の塔が美しい姿を残していますし、その北側には唐代の713年に建てられた道教の寺院、白雲観があり、1万平方メートルの敷地に広がる道教建築群をみることができます。こうした長い歴史の歩みを感じさせる建物は、この一帯が三千年ほど昔からかなり長い間にわたって、歴代の王朝や地方政権の都として栄えていたことを示す証人といえましょう。

北京の広安門に
ある薊城記念碑

 広安門通りの中心部を流れる護城河のほとりには、「薊城記念碑」が建てられています。そして、中国の地理学界の大御所で北京大学教授の侯仁之さんが記した碑文には、この一帯が三千年前の燕の都だったと書かれています。白雲観は一般公開されていますから、白雲観に行ったついでに護城河沿いに広安門通りまで散歩してみるのもいいでしょう。道すがら天寧寺の塔を眺めることもできます。

 散歩といえば、この護城河の西岸はバス停の広安門から天寧寺までが歩道公園になっています。南から北へ春園、夏園、秋園、冬園と連なり、春園にはレンギョウやライラックなど、夏園にはバラやハコネウツギなど、秋園にはイチョウや柿など、冬園には松やコノテガシワなど、折々の草木が植えられ、道行く人の目を楽しませています。公園のかたすみに机を置いてトランプや中国将棋、マージャンに興じる人、松の木の下で太極拳をしている人、籠を枝に吊るして小鳥の鳴き声に耳を傾けている人、橋のたもとで凧揚げを楽しんでいる人・・・・・・定年退職の年金生活の人が多いようですが、これも北京ならではの風景でしょう。

           燕京ビール

 北京に最初に都を置いたのが燕という国だったからでしょうか、北京のことを燕京と呼ぶことがあります。作家の陳舜臣さんは『北京の旅』(平凡社)で「京都のことを気取って京洛とか洛中と呼ぶように、燕京は北京の雅称です」と書いていますが、北京っ子は燕京という雅称がとても気に入っているようで、いまでも大切にしています。

広安門の北浜河路は改修され、庶民の散歩道に生まれ変わった。

 現に全国シェアでいつも上位を占めている「燕京」というブランドのビールが北京で造られ、乾燥した北京の風土にあう味として北京っ子に愛飲されていますし、わたしの家の近くには「燕京飯店」というホテルもあります。北京のメインストリート長安街に面しているという絶好のロケーションのわりに安いというので、日本人もよく利用しているようです。ちなみに、この辺は三千年昔の燕の都の西北の端にあたります。また、清(1644〜1911年)の末期に書かれた北京の代表的な歳時記にも、『燕京歳時記』というタイトルがつけられています。

 ところで、紀元前1046年の建国から、紀元前222年に秦の始皇帝に滅ぼされるまでの800年にわたる燕の歴史ですが、史書ではそれほど取りあげられていません。司馬遷の『史記』には「十二諸侯年表」と「六国年表」という二つの年表がつけられています。前者は春秋時代(紀元前770〜前476年)、後者は戦国時代(紀元前475〜前221年)のころの出来事を国別に記したものですが、この期間にずっと存在していたはずの燕のことはちょっとしか記されていません。中原(古代中国の中央部、現在の河南省を中心とした黄河の中流、下流部)から遠く離れた北の小国だったからだという人もいますし、山戎という遊牧民族が、中原と燕との国境一帯に勢力を伸ばし、交通を遮断していたからだ、という人もいます。最近、河北省との境にある北京西北部の延慶県で、春秋戦国時代の山戎の墓地群が見つかり、山戎遮断説を裏づけるものだとして話題になりました。

          燕国隆盛の秘訣

出土した鬲(写真・祁慶国)

 史書からはないがしらにされがちのこの燕が、急に光を放った一時期がありました。昭王治世の33年間(紀元前311〜前278年)です。燕の土地を占領していた斉とたたかい勝利を収めたり、中山国に奪い取られていた領土を取り戻したり、国を守るための長城を築いたり・・・・・・、昭王の名とともに燕の国威は大いに高まりました。

 昭王成功の秘訣はどこにあったのでしょうか。まず挙げられるのは優秀な人材の登用です。このことは、千年ほど下って唐の詩人陳子昂(661〜702年)が北京で昭王を偲んで書いた「薊丘覧古」という詩からもうかがえます。

  南のかた碣石館に登り
  遥かに望む黄金台
  丘陵尽く喬木
  昭王安くに在りや
  覇図 悵として已んぬるかな
  馬を駆って復た帰り来る

 陳子昂のこの詩の第一句の碣石館とは昭王が師として招いた大学者、ラ゙衍を住ませた御殿、第二句の黄金台とは昭王が招いた各地の賢士たちを住ませた御殿のことで、昭王の人材重視を歌っています。この詩は、陳子昂が唐軍の司令官武攸宜の参謀として、北京一帯での契丹族とのたたかいに加わったときに書いたものです。思わしくない戦況を打開しようとして、陳子昂はいろいろ献策するのですが、武攸宜に無視され、唐軍は大敗します。詩の第三句から第七句までには、失意のなかで人材重視の昭王に想いを馳せ、現在を憂い悲しむ気持ちが歌われています。このころの唐は則天武后の天下で、武攸宜は則天武后の甥だそうです。

 昭王の人材重視の故事は詩やことわざとなって伝えられていますが、いちばんよく知られているのは日本のことわざ辞典にも載っている「隗より始めよ」ということわざです。賢者を招くためには、まず自分のような、さほどでもない者を優遇せよ。そうすれば、賢者は次々に集まってくる、という意味です。

 また「漁夫の利」ということわざは、双方が争っているすきにつけ込んで、第三者が利益を横取りするという『戦国策』にある故事から出ています。3000年も昔の北京、燕の国の出来事がいまもことわざとして日本で生きている――歴史の面白さとでもいうのでしょうか。

 来月の第四話では「燕国の落人たち」というタイトルでこうしたことわざにまつわる故事から話を始め、その舞台となった燕の国の副都である易水、現在の河北省易県にご案内しようと思っています。易県はわたしのお勧めの北京観光の穴場です。お楽しみに・・・・・・。(2002年3月号より)

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。