わたしの北京50万年(第5話) 文・李順然 写真・劉世昭
万里の長城というと頭に浮かぶのは、秦の始皇帝でしょう。紀元前222年に北京一帯を統治していた燕を滅ぼした秦は、その勢いに乗って翌年、つまり紀元前221年には斉をも倒します。こうして秦は、秦とともに戦国七雄といわれた韓、趙、魏、楚、燕、斉をすべて征圧して、全国をその手に収めたのです。 秦の初代皇帝となった始皇帝は、「万世に至り、之を無窮に伝えん」と、自分の政権の強化に全力をあげます。はじめて「皇帝」という呼称を用いたのは始皇帝でした。わざわざ皇帝の前に「始」をつけ、続いて二世皇帝、三世皇帝・・・・・・と秦王朝を永遠に保っていこうと考えたのでしょう。「朕」という一人称を皇帝だけが使えるものとしたのも始皇帝でした。 この始皇帝がいちばん恐れたのは、武力で征圧した各地の勢力の巻き返しです。そこで、全国の境界線を引き直し、各地の諸侯や貴族の世襲という封建制を廃止して、郡県制を強行しました。全国を36の郡に分け、郡の下に県を置いたのです。郡と県の順序は逆ですが、日本の都道府県制のルーツといえましょう。 郡は始皇帝が直接任命する守(行政長官)、尉(軍政長官)、監(監察長官)によって治められました。それでも心配なので、地方の実力者12万人を、都である咸陽の郊外に移住させたそうです。この郡県制で燕は、いくつかの郡に分けられ、都があった薊とその南の一帯が広陽郡となりました。上谷郡だったという説もありますが・・・・・・。いずれにしろ、郡政府所在地は薊だったようです。 始皇帝暗殺まで謀って秦に反抗した燕に対しては、それでもまだ安心できなかったのでしょう。始皇帝は4回目の全国巡行で薊に立ち寄ったさいには(紀元前215年)、薊の街を囲む城壁を全部取り払わせたという記録が残っています。 始皇帝の全国統一推進は、郡県制だけでなく多方面にわたるものでした。各地でいくらか異なっていた書体を秦の小篆に統一したり、度量衡を統一したり、全国の車輪の幅を統一するよう命じたりしています。そのころの道路はいまの鉄道とは逆で、車軌が道にくい込んでレール状にくぼんでいて、そこに車輪が入って走っていたそうです。車輪のはばの統一で車は全国どこにでもスムーズに行けるようになったわけです。これに加えて、全国にはば50歩の幹線道路を5本造らせました。秦の都、咸陽(西安の南)から薊(北京)に至る道路も、そのうちの一つです。この道路はさらに東に走り、碣石(河北省昌黎県)まで伸び、海に臨むものでした。
国と国のあいだにあった長城(長い城壁)も、統一の邪魔物として取り払われたのです。が、例外もありました。燕、趙、秦の三国の北側を東から西に走る城壁は残されただけでなく、さらにあちこちで新しく築かれたり、補強されたりして、飛び飛びだったものを一本に繋ぐ大工事を始めたのです。北から秦を脅かす匈奴の襲来に備えるためです。 秦の始皇帝は、匈奴とのたたかいで功績のあった将軍、蒙恬の軍隊30万人に加えて、人夫や捕虜、罪人などを使い、10年かけて燕、趙、秦三国の長城を一つに結び、西は臨莅(甘粛省長岷県)から東は遼東(遼寧省丹東)に至る一万余里(約6000キロメートル)の長城、世にいう万里の長城を築きあげたのです。『史記』には「臨莅より起こり遼東に至る。広袤万余里」と記されています。 秦の始皇帝が築いた長城は、現在の万里の長城よりやや北側に位置していたところが多いようです。北京一帯では、現在の万里の長城と重なりあっているところも少なくありません。後述する八達嶺の長城に近い延慶県の西撥子あたりや、昌平区の老峪溝一帯でも、当時の長城の遺跡が見つかっています。 秦の始皇帝が築いた万里の長城について、『中国の古代文明』などの著書で知られるアーサー・コットレルさんは『秦始皇帝』(河出書房新社)で、次のように書いています。 「万里の長城は、単に北方の遊牧民匈奴にたいする防壁であっただけでなく、中華帝国の整然たる秩序を象徴するものでもあった。・・・・・・もし始皇帝がほかに何もしなかったとしても、長城の建設だけで、始皇帝は国家統一の価値を十分に人びとに示したことになる」
秦のあと、漢、北魏、北斉、北周、隋、遼、金、明などでも、万里の長城の修築・増築が続けられました。万里の長城は、いまでは国家統一の象徴的存在となっています。現在の北京の万里の長城は、主に明(1368〜1644年)の時代に築かれたものです。蒙古族の王朝、元を北に追い払った明朝は、北京を攻め落した興武元年(1368年)から明末までの二百余年にわたって、北の守りを固める北京地域の万里の長城の修築・増築に力を入れました。明にとって、北京は北の軍事的要衝であるだけでなく、明の都であり、明の歴代皇帝の陵(明十三陵)の所在地でもあり、絶対に敵の手に渡せないところだったのです。 ユネスコの世界遺産に登録されている北京地域の明の万里の長城のなかでも代表的なものは、延慶県の八達嶺、懐柔県の慕田峪、密雲県の金山嶺、司馬台の長城でしょう。それぞれ特長を持っています。 八達嶺の長城は北京の中心から北西65キロメートルのところにあります。中米、中日国交正常化の突破口となったニクソン大統領、田中首相の訪中のさいには、両首脳ともここを訪れ、その姿がテレビの衛星中継で全世界に放映されました。 そのご、1992年の秋には日本の天皇、皇后両陛下もここの長城に登りました。『日本経済新聞』(1992年10月24日)はその様子を「・・・・・・『やはり来てみないとわからないものですね』と陛下は眼下に広がる長城の壮大なさまを見て、しきりに感心された様子・・・・・・」と伝えています。「百聞は一見に如かず」だったのでしょう。八達嶺の長城はその雄大さで知られていますが、山の起伏に沿って視界のはてまで左右に波打つように伸び、まるで力強く跳る一頭の巨竜のようです。 金山嶺の長城は北京の北東130キロメートルほどのところにあり、断崖絶壁の続くその険しい地形を巧みに利用し、豪放かつ繊細な建築様式は、軍事的に秀れているだけでなく、中国建築文化の代表作とされています。 ここから城壁伝いに5、6時間ほど東に縦走したところにあるのが司馬台の長城です。司馬台の長城は全長19キロメートル、35基ののろし台が残っていますし、標高986メートルの望京台もあり、昔はここから北京が見えたそうです。 慕田峪の長城は北京の北80キロメートルのところにあり、八達嶺の雄大さと金山嶺、司馬台の険しさを兼ね備えています。初めての方には、明の13人の皇帝の陵がある十三陵見学とをワンセットにした八達嶺の長城を、二回目の方には唐代(618〜907年)の古刹、紅螺寺などの見学とをワンセットにした慕田峪の長城を、これだけではまだ飽きたりないという方には金山嶺か司馬台の長城をおすすめします。そして足にも自信があるという方は金山嶺・司馬台縦走コースにチャレンジしてみては・・・・・・。自動車道路も整備されていますので、どこも日帰りできますが、最後の金山嶺・司馬台縦走コースは縦走に時間がかかるので、城壁の麓の村の民宿に泊って一泊二日というのが妥当でしょう。
わたしごとになりますが、1950年代の末から1960年代の初めにかけて、八達嶺の長城の麓の南口という村に住んだとことがあります。ここで木を植えていたのです。この植樹造林は、西北地方からの砂塵を防ぐ「緑の万里の長城」づくりとしていまも続けられていますが、固い山肌に苗木を植える深さ60センチの穴を掘るのに、二人がかりで半日かかることもたびたびでした。そんなわたしの横を野ウサギが走り抜け、追いかけると八達嶺の長城の方に姿を消してしまうことが何回もありました。ハーハーしながら八達嶺の長城を見あげて、あんなに高いところに、あんなに大きな石や煉瓦を運んで長城を築いた昔の人たちの苦労を思うのでした。
煉瓦といっても、万里の長城に使われている煉瓦には、一つが15キロから20キロという大きなものもあります。万里の長城のところどころで、こうした煉瓦に「登頂」記念の文字を刻んだ旅行者の落書きを見かけますが、木を植えていたころ地元のお年寄りから聞いた話では、落書きが彫られている煉瓦はほとんどが補修工事のときに使った新しいもので、明の時代の煉瓦は質がよく固いので、ちょっとやそっとの道具では落書きなどできないそうです。現にわたしは北京の長城で、嘉靖とか万暦とか明の年号が入っている煉瓦を目にしたことがありますが、実に丈夫そうでがっちりしていました。雄大な万里の長城もさることながら、そこに積みあげられている煉瓦の一つ一つに秘められている古人の力と知恵に、平和と統一を願う心に、わたしは頭のさがる思いがしました。 「長城に到らざれば好漢に非ず」――毛沢東の詩のなかのことばです。中国人はよくこのことばを口にします。なにか大きなことを成しとげる決意を表明する成語にも使われています。「中国人である以上、一度は長城に登らなければ・・・・・・」――これは中国人なら誰もが描いている夢であり、望みなのです。 万里の長城では、960万平方キロメートルの中国の東西南北からやって来た人たちの、夢が、望みがかなった明るい笑顔を見ることができるでしょう。この笑顔こそ、万里の長城見物の最大の見どころかも知れません。長城の上で、まわりの中国人に「今日は!どこからいらっしゃったのですか」と声をかけてみるのもいいでしょう。きっと、中国の東西南北のいろいろななまりで、さまざまな答えが明るい声で返ってくることでしょう。 来月の第6話では、項羽を破って漢の皇帝になった劉邦、漢の高祖やその子孫たちが、北京に残した足跡を訪ねてみようと思っています。(2002年5月号より) 李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。 |