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北京っ子劉備が南の蜀の皇帝になった
だがその翌々年の章武3年
劉備は三峡の険に近い白帝城で病に倒れ
知略縦横の忠臣諸葛孔明も十年後に病死する
残された無力無策の後主劉禅は魏に降り
漁陽郡安楽県公に封じられたとか
安楽県は現在の北京市順義区の一角らしい
なんと淋しい劉一族の里帰りだろう |
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劉備は昔、河北省タク州市の東南にある大樹楼桑村に住んでいた(右上部の後方に見えるのは劉備の故居の記念碑) |
今回は『三国志』の時代に入ります。曹操(155〜220年)とその子曹丕(187〜226年)の魏、劉備(161〜223年)の蜀、孫権(182〜252年)の呉の三国抗争の時代の北京は、どんな様子だったのでしょうか。
手もとの『北京文化綜覧』(北京師範大学出版社)の「歴史上の北京の著名人」のページに、三国時代の北京の著名人として劉備の名が挙っているので、ちょっと驚きました。これによると、中国西南部、現在の四川、貴州、雲南などで蜀を建国し、その皇帝となった劉備は、北京生まれの北京っ子だったというのです。
たしかに、中国の正史に数えられる晋の陳寿(233〜297年)の『三国志』でも、劉備は幽州菘県の生まれとなっているので、「北京っ子」に数えられるでしょう。幽州菘県は戦国時代は燕の領土でしたし、現在の地図でも北京市と河北省の境にある菘州市のあたりで、北京の中心から車で一時間ほど、北京の郊外といった感じです。
劉備については、前漢の景帝、劉啓の子の中山靖王劉勝の子孫だという説があります。中山靖王劉勝の息子、劉貞は、中山国に近い菘県陸城の侯に封じられていましたが、ちょっとした間違いをおこして爵位を失い、そのご菘県で余生を送ります。その血筋をひく劉備の祖父、劉雄、父、劉弘も、ここで小役人を務めていたというのです。
父、劉弘は、劉備が幼少のときに他界し、母親が草ミャを編んで、それを売ったりして、女手一つで劉備を育てました。母子家庭だったのです。母親は、劉備が劉家一族の名に恥じない学問のある人間になるのを望みました。
そこで劉備を同じ菘県の人で、後漢の大学者、盧植のもとに送って勉強させたりしましたが、勉強ぎらいの劉備は遊んでばかりで、長続きはしなかったようです。しかし、若者の間ではたいへんな人気者で、いつも大勢の若者が劉備のまわりに集まっていました。親方肌のところがあったようです。
こうした劉備を見込んだ男がいました。菘県に馬を売りにきた中山国の大商人、張世平です。張世平は劉備に多額の金をあたえ、劉備はこの金を若者の組織づくりに使いました。劉備のまわりにはますます多くの若者が集まってきました。劉備はこの大商人の用心棒のような仕事をしていたようです。
こうしたときに起きたのが、太平道の信者を中心とする漢王朝打倒の反乱です。反乱軍は、頭に黄色の頭巾を巻いていたので、史書では「黄巾の乱」と呼んでいます。霊帝の中平元年(184年)、劉備22歳のときのことです。
この反乱征圧には劉備の先生だった盧植も皇帝派遣の司令官として加わっているのですが、劉備も手下の若者たちを引き連れて「黄巾軍」とたたかいました。
そして手柄をたてて、県の治安官に任命されます。それからの劉備は手下を連れて乱世の各地を転戦し、ふたたび北京に帰ることなく、最後には蜀の皇帝になるのですが、関羽や張飛は大商人の用心棒時代からの仲間だったようです。しかも張飛は、菘県生まれの同郷の仲で、「北京っ子」だったのです。ちなみに、菘州市には劉備の家の跡や張飛が使ったらしい井戸などが残っています。
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タク州市松林店鎮楼桑廟村の東にある「三義宮」には、三国時代の劉備、関羽、張飛が「桃園の義」を結んだときの「結義石」がいまもある(中央の平たい石)。「三義宮」は元は「三義廟」といわれ、隋代に建造が始まり、明の正徳3年(1508年)に武宗皇帝(朱厚照)によって「勅建三義宮」に封じられた、と史書には記載されている |
北方人の劉備にたいして、曹操は、沛、現在の江蘇省の人、孫権は呉、現在の浙江省の人で、ともに南方人です。北方人の劉備は南に下って蜀の皇帝に、南方人の曹操は北に上って魏の事実上の創始者になったのです。南方人といっても曹操は、北京の土も踏んでいます。後漢の建安12年(207年)、北方で漢に反抗する少数民族烏桓を征圧するため、曹操みずから兵を率いて幽州、つまり北京一帯に入り、その年の11月には幽州の易水で和を乞う烏桓の首領たちの朝賀を受け、中国北部をほぼその手に収めています。
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胡服を着た陶製の俑(撮影・祁慶国) |
曹操は建安25年(220年)に66歳で他界し、その年に長男の曹丕が後漢の献帝劉協(181〜234年)から禅譲を受け帝位に就き、魏王朝が誕生します。後漢が亡び、魏となったのです。曹一族の王朝なので曹魏とも呼ばれています。魏になってからも、25人いたという曹操の子のなかから曹宇が燕王になるなど、曹家一族の北京一帯にたいする支配は続きました。この曹宇の子の曹奐はのちの魏の元帝で、咸熙2年(265年)に司馬炎が、この魏の元帝から禅譲を受けて生まれたのが晋王朝です。
魏にしろ、晋にしろ、この時期の北京は比較的落ち着き、農業を中心とした経済も栄え、民族間の交流も盛んで、民衆は一息ついたと多くの史書は書いています。
北京に現存するいちばん古いお寺である門頭溝区の潭柘寺も、晋代に建立されたもので、1700年の歴史をもつ古刹です。劉備の故郷、幽州菘県の人口は、魏の文帝の黄初元年(221年)の3000余戸から、晋の懐帝永嘉元年(307年)の1万1000余戸に増えています。安定している北京に各地から人が集まってきたのでしょう。
政治面でも魏の元帝の景元四年(263年)に、魏に降伏した劉備の子、蜀の後主、劉禅(207〜271年)を、漁陽郡安楽県(現在の北京市順義区内)の公に封じたという説もあり、かなりゆとりがでてきていたようです。事実だとすると、北京で旗を挙げて一国の皇帝の座に就いた劉備の息子が、なんと安楽県という北京の片隅の一県の、名ばかりの公に身を落して、淋しい里帰りをしたわけです。
現在の順義区には、北京のメイン空港、首都空港がありますが、順義区の地図をみてみますと、そのずっと東の方、つまり北京の中心から遠ざかったところに、安楽荘という村がありました。ひょっとすると劉禅が都落ちしたのはこの辺かも・・・・・・。ちなみに劉禅が公に封じられたのは、北京ではなく陝西省だという説や、河南省だという説もあります。
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北魏の孝文帝の太和年間に作られた石仏(撮影・祁慶国) |
魏にしろ、晋にしろ、わりあい安定していた北京では、建設面のテクノクラートが活躍していました。その代表的人物は、北京で水利事業に取り組んだ劉靖(?〜254年)でしょう。
劉靖ももともとは武人で、魏の鎮北将軍をしていました。北の守りにあたる司令官です。北京の西部、現在の石景山区のあたりを視察したとき、ここに水を引き、良い田にして兵士たちの食糧の足しにしようと考えたのが、水利事業に取り組むきっかけとなったようです。
そこで、みずから梁山(現在の石景山)の頂上にたち、 水(現在の盧溝橋が架けられている永定河)の流れをつぶさに観察し、水利工事の指揮に当りました。史書に記されている北京の最初の水利工事です。永定河に劉靖が築いたダムは、普段はこの一帯の農地に水を引き入れ、洪水のときには溢れる大水を支流に流し込む役割をはたしたそうです。劉靖の兵士たちはこの水を使って水稲を育てたそうですが、北京が中国北部での数少ない水稲の産地となったのは、劉靖のダム造りと関係があるといわれています。
劉靖はこのダムが完成した5年後の魏の嘉平6年(254年)に亡くなっていますが、その水利事業は劉靖の子の劉弘に受け継がれます。世は魏から晋に移り、晋の元康4年(294年)の2月と8月に、北京は大地震に見舞われました。劉靖が造ったダムもこの地震で決壊してしまいます。このダムの修復に当ったのが、晋の北方守備軍の司令官寧朔将軍として北京にいた劉弘だったのです。
実は劉靖の父親劉馥も、水利事業に手を染めています。劉馥は曹操の部下で、水の都といわれる揚州の知事をしていたとき、水利事業で成果をあげ、そのことは『三国志・劉馥伝』にも記されています。三代にわたる水利一家だったわけです。
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タク州市の西にある張飛店村にある張飛の井戸 |
魏、晋のわりあい安定した時期も長続きしませんでした。帝位をめぐる晋の王室の内輪もめ「八王の乱」が起きたのです。永平元年(291年)から十数年にわたるこの乱では、親族の八人の王が兵を動かして攻撃しあい、この機に乗じて羯族の石勒が北京に攻め入るなどして、晋は建興四年(316年)に滅びます。その翌年に中国の南方では、司馬睿が建康(現在の南京)に東晋を打ちたて、中国の北方では「五胡十六国」の時代に入ります。
「五胡十六国」の五胡とは中国北方に入ってきた匈奴、羯、鮮卑、?、羌の五族、十六国とは百年ほどのあいだに中国北方で生まれては滅びていった十六の国です。実際には晋の滅亡から、北魏が太延5年(439年)に黄河流域を統一し、南北朝対峙の局面が生まれるまで、中国北方では七つの少数民族が23の政権を打ちたてたといわれます。
こうした乱戦のなかで北京に入ってきた少数民族もいました。羯族の石勒の後趙、鮮卑族慕容氏の前燕、後燕、リオ族の苻堅の前秦などで、前燕は少数民族としては始めて都を北京に置きました。後趙の始祖、石勒(274〜333年)は、漢の高祖、劉邦を師と仰ぎ、その政治を手元としたり、前燕の始祖、慕容 (269〜333年)は、漢族の役人を重用し、漢族の農耕法を取り入れたり、前秦の第三代皇帝苻堅(338〜385年)は、民族和合の「四海混一」を唱え、漢族の将軍、王猛を最高司令官に任命したり・・・・・・、戦乱のなかで、北京をはじめ中国の北方では、漢族と少数民族の政治、経済、軍事、文化など、各方面の融合が大いに深まりました。
魏、晋、五胡十六国の200年に続く北魏、東魏、北斉、北周の150年でも、北京は漢族と少数民族が溶けあい、遊牧民族が農耕民族に姿を変えていく舞台だったようです。北魏では遼東(現在の中国東北部)から鮮卑族の遊牧民が北京に移り農民となり、北斉では冀、定、瀛(現在の河北省、山東省)から漢族の農民が北京に移り、進んだ農業技術を伝えた記録が残っています。とくに北魏の六代皇帝で鮮卑族の孝文帝(467〜499年)は鮮卑語の使用を禁じ、漢語使用を提唱したり、漢族の宗教儀式や官制をとり入れたり、鮮卑族と漢族との結婚を奨励したり、民族の融合に力を入れたことで知られています。仏教奨励政策をとった北魏は、山西省の雲岡石窟や河南省の竜門石窟、遼寧省の万仏洞など、数多くのすぐれた仏教芸術を現代に残しましたが、北京の海淀区の車耳営村からも、北魏の孝文帝の太和年間に造られた2メートル20センチもある見事な石仏などが出土しています。これは北京に残されているいちばん古い石仏だそうです。心もち微笑みを浮かべたこの石仏は、1500年の風雪に耐え、北京の「仏祖」ともいわれていますが、現在はパンダのいる北京動物園の北側の五塔寺のなかに設けられている北京石刻芸術博物館に展示されています。
次回は「煬帝と大運河」というタイトルで、全国を統一した隋の時代の北京の様子をご紹介します。(2002年7月号より)
李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
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