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隋の煬帝は暴君だという
だが「よいところ」もあったのでは
中国の南と北を繋ぐ大運河を掘ったとか・・・・・・
この大運河の北の終点は北京だった
ある歴史学者はいう
大運河がなかったら元の大都もなく
明、清の北京もなく
現在の首都北京もなかっただろうと |
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北京の雲居寺にある塔林には、唐代の塔が七基、遼代の塔が五基ある。唐代の塔は、全国にある唐代の塔の総数の三分の一を占める |
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隋代の大運河の略図(日本大百科全書から) |
後漢が滅びたのは220年ですが、それから始まった中国の分裂は四百年ほど続きました。589年に、南の陳を滅ぼして中国統一をなしとげたのは、隋の文帝楊堅(541〜604年)です。
文帝の陳攻略はほとんど無血でしたし、その後の治世も順調だったのですが、第二代の煬帝楊広(569〜618年)のときに滅びています。「隨」という字から、走り去るのは縁起が悪いというので、シンニユウを抜き、国号を隋として、長期政権を願ったのです。しかしその効もなく、四十年足らずの天下でした。しかし、隋の40年は、そのごの唐の全国安定長期政権の足がためとして、大きな存在だったといえましょう。
文帝の最大の失政は後継者選び、つまり次男の煬帝を後継者に選んだことだといわれています。煬帝は、父親である文帝が善政によって築いた富を使いはたし、民衆を労役に駆りたて苦しめた、中国の歴史でも代表的な暴君の一人とされているのです。
煬帝の「煬」は死んでから生前の行状によっておくられる謚で、「内(女性のこと)を好み、礼を遠ざく。礼を去りて衆を遠ざく。天に逆らい民を虐ぐ」といった意味があるそうです。これはちょっと酷だと思います。暴君は暴君だったのでしょうが、することなすことすべてが悪だったとは思いません。そこで、今回は北京を舞台にその「あらさがし」ではなく、「よいところ」をほじくってみましょう。
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仏舎利を納めた磚塔の磚に彫られた彫刻 |
隋の都は長安(現在の西安)でしたが、煬帝ははるばる北京を訪れています。前にもふれましたが、秦の始皇帝も北京入りしています。きっと都咸陽(現在の西安の西北、西安空港がある)から自分が造らせた幹線道路に、西安の驪山陵から出土した例の四頭立ての豪華なお召し馬車を駆らせて、陸路で北京入りしたのでしょう。
これにたいして、隋の煬帝は、お気に入りの離宮のある揚州から、自分が掘らせた大運河にお召しの竜の船を浮かべて、水路で北京入りしているのです。始皇帝が万里の長城なら、煬帝は大運河――それぞれが後世に残した一大事業だったといえましょう。
大運河の工事は、文帝の時代から始まっていますが、これを全国を結ぶ大水路にしたのは煬帝でした。
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雷音洞内で発掘された釈迦牟尼の仏舎利。これは仏舎利塔の中ではなく、洞内に埋められた世界で唯一の仏舎利である(雲居寺提供) |
煬帝は、即位した翌年の大業元年(605年)には、河南の民衆百万を動員して、黄河と淮河を結ぶ通済渠をつくる詔書をだし、大業四年(608年)には、河北の民衆百万を動員して黄河から北京に至る永済渠をつくる詔書をだしています。さらに淮河と長江(揚子江)を結ぶカン溝、長江から杭州に至る江南河をひらいています。
こうして銭塘江、長江、淮河、黄河、海河の五本の川が一本に繋がれ、その後、千年以上にわたって中華民族を一つに結ぶ帯となってきました。この大運河の北の終点が永済渠の北京です。永済渠はもともと、煬帝が高句麗遠征の兵員と糧秣を前線である北京に運ぶために掘ったのですが、結果としては、曹子西主編の『北京通史』(中国書店)に書かれているように、「もし大運河がなかったら元の大都もなく、明、清の北京もなかっただろう。もし大運河がなかったら、北京は中国の歴史の歩みのなかで首都の位置を占めることもなかっただろう」ということになったのです。これは、煬帝が北京に、そして中国にもたらした「よいところ」に数えてもいいのではないでしょうか。
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雲居寺を開いた静エン法師の墓。遼代に建てられた |
ちなみに、煬帝の北京入りは大業七年(611年)のことで、みずから高句麗遠征の総司令官を買ってでて、揚州から大運河を利用して水路、北京にやってきています。そして永済渠の終点の清泉水の北岸に新築した離宮、臨朔宮に入り、翌年には百十万の兵を率いて第一次高句麗遠征をはじめ、臨朔宮でおこなわれた出陣式に姿をみせています。
清泉水は現在でも涼水河と名を変えて北京南駅、つまり永定門駅の近くを流れていますが、臨朔宮は隋末の農民蜂起で焼き払われ、跡形もありません。涼水河と名を変えた清泉水にも、その昔、百万の兵を運び、煬帝のお召し船を迎えた盛況を感じさせるものは見当りません。
煬帝の掘らせた大運河は、中日交流にも役立ったようです。これも煬帝の「よいところ」に数えてあげたいと思います。
奈良・平安時代に、唐に渡った日本の遣唐使のなかには、蘇州や寧波に着いたあと、揚州から煬帝が掘らせたカン溝や通済渠を利用して、水路、開封に到り、そこから長安に向った人が多かったようです。遣唐使とともに唐を訪れた日本の高僧、円仁(794〜864年)が書いたその入唐旅行日記『入唐求法巡礼行記』にも、仁明天皇の派遣した遣唐使が、五艘の官船に分乗して運河をのぼった様子が記されています。
これより前の話ですが、煬帝自身も日本とかかわりを持っています。大業3年(607年)に聖徳太子が小野妹子らを隋に派遣し、煬帝に国書を送ったときのことです。煬帝は「日出ずる処の天子、国書を日没する処の天子に送る」というこの国書をみて、「天子はわれ一人あるのみ。無礼千万」とたいへん立腹し、鴻臚卿(外相)に「このような礼を欠く書は、われにみせるな」と命じました。
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雲居寺の石経山上にある九つの経を納めたところの一つ、雷音洞。洞内には隋、唐の時代に作られた経板146枚が納められている(雲居寺提供) |
しかし、煬帝は度量の広い、識見のある政治家だったようです。怒りは怒りとして片付ける一方、裴世清を答礼使として、帰国する小野妹子とともに、日本に送って、中日国交の糸口をつくったのです。日本の朝廷は、裴世清ら答礼使を盛大に迎えました。難波に着いたときには飾りを着けた30艘の船が海上で出迎え、京に入ったときには飾りを着けた75頭の馬が街頭で出迎えたそうです。翌年、小野妹子は遣隋使としてふたたび隋を訪れ、その後の遣隋使、遣唐使の道を開いています。
聖徳太子が小野妹子を隋に送った目的の一つは、仏法を求めることだったようです。このことは、小野妹子が学問僧四人を連れていったことからもうかがえます。「周武の厄」といわれる北周の武帝(543〜578年)の廃仏とは逆に、隋が仏教の再興に力を入れていることが日本にも伝えられていたのでしょう。煬帝も仏教再興派だったようで、これも「よいところ」に数えていいのではないでしょうか。その物的証拠が北京に残っています。北京房山区にある雲居寺です。
雲居寺は隋代に建てられた古刹で、経文を刻んだ石板一万四千枚以上が保存されているところから、石経寺ともよばれています。この寺の創立者、静エン法師(?〜639年)は、仏寺、仏経、仏像をことごとく破壊した「周武の厄」がふたたびやってくるのを恐れていました。経典がすべて焼き払われ、灰に帰してしまうのを恐れたのです。
そこで、経文を石に刻み、それを収める寺を建てることにし、北京房山区の白帯山でその仕事にとりかかりました。こうしたときに、高句麗遠征の煬帝が北京にやってきます。煬帝には蕭皇后とその弟の蕭璃も同行していましたが、蕭璃は熱心な仏教徒で、姉に静エン法師と雲居寺のことを話しました。蕭皇后はたいへん感動し、絹千匹を布施として静エン法師に贈ります。もちろん煬帝も同意してのことでしょうが、これが大きな反響をよび、朝野各界から静エン法師のもとに多額の布施が集まり、雲居寺建立の資金となりました。
静エン法師は岩をうがち、雷音洞とよばれる石室を造り、その壁に経文を刻みましたが、雷音洞と静エン法師の刻んだ経文は、いまも雲居寺の一角に残っています。
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雲居寺の石経地宮に大切に保存されている遼、金代の石経1万82枚 |
また雷音洞の仏座の近くで、石の箱に収められた仏舎利が見つかりました。この石の箱には隋大業12年(616年)という文字が彫られていました。煬帝の治世です。仏舎利は隋の王室から静エン法師に贈られたものだとみられ、隋朝が、煬帝が仏教再興派だったあかしといえましょう。
山とみどりに囲まれた雲居寺には、石経のほかに、エン公塔と呼ばれる静エン法師の墓塔や北塔、羅漢塔など唐、遼代の美しい塔が静かにその姿を残しています。
静エン法師は唐の貞観13年(639年)に他界しますが、その遺志は唐、遼、金、元、明、清の僧侶に受け継がれ、経を石に刻む石経づくりは、千年以上にわたって何千人、いや何万人の人たちによって綿々と続けられ、1万4278枚の石経となって残っているのです。
雲居寺の石経は学術的にもたいへん価値があり、日本の仏教にも影響を与えていると聞きました。例えば、ここに保存されている唐初の玄導が彫った『勝天王般若波羅密教』経序一篇によって、日本の『大正蔵』経序の誤字と脱字26カ所が訂正されたそうです。
雲居寺は北京原人、シナントロプスペキネンシスの化石がみつかった周口店よりさらに南西、北京からは75キロの白帯山にありますが、北京の中心、天橋からバスで房山に行き、ここで十渡行きのバスに乗り換えて雲居寺で降りるか、北京南駅から太原方向の列車に乗り、雲居寺駅で降りるという手もあります。バスのコースはときどき変るので、事前に確認してください。「北京の敦煌」「碑海塔林」ともいわれるこの仏教の聖地で、暴君といわれた煬帝の「よいところ」に想いを馳せてみては・・・・・・。
書くか書くまいかだいぶ考えましたが、やはりひとこと触れることにしました。雲居寺の歴史には、日本軍の砲撃で南塔など多くの建物や文物が壊されるという一ページがあるのです。こんな山奥の、こんな静かなお寺がなぜ砲撃されるのか・・・・・・、繰り返してもらいたくない歴史なので、あえて書き添えておきました。
次回は隋に続く唐代の北京に建てられた法源寺や戒台寺、臥仏寺などをめぐって書いてみようと思っています。
次回は隋に続く唐代の北京に建てられた法源寺や戒台寺、臥仏寺などをめぐって書いてみようと思っています。(2002年8月号より)
李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
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