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北京には古刹が多い
唐代に建立された寺もある
法源寺、戒台寺、臥仏寺・・・・・・
いまもその姿をとどめている
法源寺のライラック
戒台寺の松
臥仏寺の臘梅
いまも北京市民に愛されている |
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北京・香山にある臥仏寺。巨大な釈迦牟尼像が横たわる |
長いあいだ南北に分かれていた中国を統一したとはいえ、隋は短命でした。事実上、文帝と煬帝の二代、38年の天下だったのです。
その滅亡の原因の一つとして、第二代皇帝、煬帝の無謀な高句麗遠征の失敗があげられます。煬帝みずから前線の拠点である北京に乗り込み、総指揮にあたったのですが、遼東からの陸路と山東からの海路の遠征軍のタイミングがかみあわなかった、などなど、三回の遠征はいずれも失敗し、各地で「遼東で死ぬなかれ」という反戦の気運が高まり、それが隋朝滅亡へと繋がっていったのです。
歴史は繰り返されるといいますが、隋に続く唐でも、やはり第二代皇帝、太宗李世民(599〜649年)が、やはり三回にわたって高句麗遠征をすすめ、失敗しています。煬帝と同じように第一回目の遠征では、太宗みずから前線の拠点、北京に乗り込んで、総指揮にあたりました。
唐軍は貞観19年(645年)の4月に北京から出陣し、11月に北京に戻ってきています。撤退したといっていますが、逃げ返ったというのが実情でしょう。このときの失敗の原因は、戦いが長引き、糧秣などが不足したうえに、冬に入り、ひどい寒さに見舞われて撤退を余儀なくされたことです。撤退の途中の激しい吹雪で、多くの凍死者がでるなど、唐軍の人的損失は甚大でした。
さすが強気の太宗も、こうした惨状を目のあたりにして深く心を痛め、「魏徴が生きていたならなあ・・・・・・」と嘆いたそうです。魏徴(580〜643年)とは、太宗に遠慮なく意見をだした老臣で、太宗のこの言葉には、魏徴が生きていたらきっと高句麗遠征を思いとどまらせてくれただろうという思いが込められています。
北京に帰った太宗は、この遠征で命を落した大勢の唐軍の将兵の霊を祀るために、北京に憫忠寺というお寺を建てました。貞観19年のことです。
日本では大化改新が始まった年ですが、この憫忠寺は名を法源寺と変えて、いまも昔のままの位置にその姿を残しています。北京旧市内では、現存するいちばん古いお寺です。北京の中心、天安門前からタクシーを拾えば、20分足らずのところにある静かなお寺で、境内いっぱいにライラックが植えられており、四月から五月にかけて清らかな香りを漂わせています。古刹だけあって、エンジュ、松、イチョウ、コノテガシワといった古樹古木や、唐、遼、金代の石像、石碑、清の乾隆帝(1711〜1799年)御筆の額「法海真源」などを楽しむこともできます。第一話でもちょっとふれましたが、若き日の毛沢東がフィアンセの楊開慧とともにこの寺を訪れたという記録も残っています。1919年、毛沢東、27歳のときのことですが、毛沢東は四十年近くのちの1957年に北京で書いた『蝶恋花 李淑一に答える』という詞で、「我は驕たかき楊を失い」と楊開慧を偲んでいます。
法源寺よりも古い唐代のお寺が郊外にあります。北京の中心から西に車で一時間ほど行ったところにある門頭溝区の戒台寺です。唐の初代皇帝、高祖李淵(566〜635年)の武徳5年(622年)建立といいますから、法源寺より20歳ほどお兄さんというわけで、その名の通り、高さ3・5メートル、外周23メートル、三層の漢白玉石造りの、中国一の戒壇があることで知られています。
戒台寺はまた、境内の臥竜松、九竜松、抱塔松、活動松、自在松などと名づけられている千姿万態の松の老樹で知られています。
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戒台寺の臥竜松 |
千年も昔の遼代に植えられたという九竜松は、幹の直径2メートル、高さ18メートルで、九本の枝が九頭の竜のように縦横に伸びているところから九竜松とよばれるようになったそうで、松の老樹の多い北京でも最高齢だといわれています。活動松は乾隆44年(1779年)にここを訪れた清の乾隆帝が枝先に触れるだけで木全体が揺れるのに驚き、この名をつけ、「老幹稜々として百尺を挺き、何に縁って枝揺れれば本身も随うか・・・・・・」という詩を書きました。この詩を彫った石碑が活動松の傍らにいまも残っています。
もう10年も前の夏のことですが、わたしはミーン、ミーンという蝉の鳴き声に誘われて、戒台寺の松林に入り、その涼しさに感激したのを覚えています。ジージーと鳴くあぶら蝉の多い北京で、ミンミン蝉と会えた感激もあったのですが、わたしは
白羽扇を揺るがすに懶し
裸袒す青林の中
巾を脱して石壁に掛け
頂を露わにして松の風に灑がしむ
という唐代の大詩人、李白(701〜762年)の『夏日山中』という詩を思い出していました。帽子を脱って、頭を松風に「灑がし」ていました。
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法源寺の大雄宝殿には、乾隆帝の親筆の額が掛けられている |
この戒台寺から車で北西に10分ほど行ったところにある潭柘寺は、北京でいちばん古いお寺なのでちょっと触れておきましょう。晋代(265〜316年)に建立されたといいますから1700年の歴史があるわけで、「さきに潭柘寺ありてのちに幽州(北京)あり」ということわざがあるほどの古刹です。
歴代の皇帝はこの寺をとても大切にしたようで、清の康煕帝は1697年、「勅建岫雲蝉寺」という寺の名を書いて贈り、この額がいまも山門に掛けられています。岫雲寺というのは康煕帝が潭柘寺に贈った名だそうです。
この寺の塔林には金、元、明、清の高僧の墓塔72基が、文字通り林のように立ち並んでいます。なかには明の宣徳四年(1429年)に北京で円寂したといわれる日本の高僧無初徳始ら日本やインドの僧侶の墓塔もあり、千人以上の僧侶がいたという全盛時代のこの寺の姿が偲ばれます。出家してこの寺に入った元の皇帝フビライ(1215〜1294年)の娘、妙厳公主の墓塔も、ここに姿を残しています。
戒台寺から潭柘寺を廻るコースも、北京観光のわたしのお勧めコースです。季節は山里の秋景色が楽しめる9月下旬から11月上旬がいいでしょう。でも戒台寺の「山中夏日」も捨てたものではありません。
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北京・香山にある北京植物園 |
唐代に建てられた北京郊外のお寺といえば、海淀区の臥仏寺にも触れないわけにはいきません。臥仏寺というのは、昔から民衆に親しまれてきた俗称です。正式には十方普覚寺だそうで、唐の太宗の治世の貞観年間(626〜649年)に建立されました。パンダのいる北京動物園の前から360番のバスで30分ほど、まわりには香山公園、北京植物園などもあり、気軽に出かけられる北京の景勝の地にあります。
臥仏寺の目玉は、その名の通りで重さ54トン、長さ5・3メートル、高さ1・6メートルの銅製の臥仏です。元の治元元年(1321年)に造られたもので、横になる釈迦牟尼は一般に、後事を弟子に託する姿と解釈されています。臥仏寺の臥仏の後には、悲しみ溢れる瞳の12人の弟子が立っています。
1300年前のこの寺の建立当時の面影を伝えているものとして、境内の一角で毎年厳冬のなかで花を開く臘梅があげられます。1300百年の樹齢を持つこの臘梅は、一度枯れたあと残っていたその根から、百年ほど前にまた数十本の幹が姿をみせ、いまでは3、4メートルに育っています。そして、毎年の1月に、その黄色い花が、松の緑、雪の白に映え、北京の花暦に色を添えてくれます。
臥仏寺バス停から臥仏寺までの道の傍らには、総面積百余ヘクタールの北京植物園北園が続き、春にはここの碧桃園の桃の花、牡丹園の牡丹、夏にはバラ園のバラ、秋には絢秋苑の菊などなど、折り折りの花が行く人の目を楽しませてくれます。臥仏寺の裏、つまり北側には桜桃溝という、奥行き1500メートルの山あり、谷あり、花あり、木あり、せせらぎありの静かな渓谷が続きます。
臥仏寺の西側には、元代に建てられた碧雲寺、清代に建てられた金剛宝塔座、羅漢堂などがあり、その隣にはモミジで知られる香山公園があります。
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戒台寺は戒壇で有名。中国の三大戒壇の一つ |
どうして唐代の北京にこんなにたくさんのお寺が建てられたのでしょうか。どうやら太宗の「貞観の治」と関係があるようです。
太宗の時代の政治は、その元号をとって「貞観の治」とよばれ、中国の歴代皇帝の善政の模範とされています。日本でも徳川家康(1542〜1616年)らが、太宗と臣下の問答集『貞観政要』をその政治の手本としたとか・・・・・・。
「貞観の治」の秀れた点をしてよく挙げられるのは「忠言に耳を傾ける」「賢者の登用」「賦役の軽減」「民族の融和」などですが、これらすべては唐代初期、中期の北京でも実行されていました。例えば北京一帯でも農民に土地を持たせる均田制が採られていましたし、太宗の命令で、高句麗人、突厥人、契丹人の北京定住が許され、その居住地域ではある程度の自治が認められたようです。
こうした措置によって北京の人口、とりわけ農業人口は急激に増えました。隋末には2万余戸にまで減っていた北京一帯の戸数は、唐の玄宗の天宝年間(742〜755年)には6万7000戸に増え、人口も37万人となっています。このうち少数民族の人口が3万4000人で、全人口の10パーセント近くを占めていました。
このような人口増加に加えて均田制の実行などで農業は大いに発展し、太宗の命令で粟9年、米3年の蓄えもできるようになっていたようです。こうして生まれた物質的な、精神的なゆとりが、寺院建立に繋がっていったといえましょう。
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法源寺の大雄宝殿には、乾隆帝の親筆の額が掛けられている |
「貞観の治」がもたらした「北京好日」も、安禄山(?〜757年)がおこした反唐クーデター「安史の乱」でピリオドを打たれます。「安史の乱」については次回で触れますので、ここでは省きますが、「安史の乱」から唐末までのおよそ150年に北京の統治者は28人も入れ替り、社会は乱れ、経済は衰退の一途をたどりました。人口も減っています。ちなみに現在の北京・延慶県一帯の住民の戸数は、天宝年間の2263戸から、唐末には1500戸にまで減っています。こうしてみてみますと、唐代の北京は、唐王朝興亡の歴史の縮図ともいえましょう。
次回は北京を訪れた詩人、李白(701〜762年)の目に映った「安史の乱」直前の北京の様子などを、李白の詩とともにおとどけしようと思っています。
次回は北京を訪れた詩人、李白(701〜762年)の目に映った「安史の乱」直前の北京の様子などを、李白の詩とともにおとどけしようと思っています。
次回は隋に続く唐代の北京に建てられた法源寺や戒台寺、臥仏寺などをめぐって書いてみようと思っています。(2002年9月号より)
李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
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