わたしの北京50万年(第12話)
燕京八景が定まった――金

                    文・李順然 写真・楊振生

 

長江のほとり太湖生まれの奇石 太湖石
何万年もの波に打たれてできた穴やくぼみ
宋王朝は開封に運んで離宮の庭石にした
開封を攻め落した金王朝は太湖石に一目惚れ
北京に運んでやはり離宮の庭石にした
元 明 清の王朝もそうして楽しんだ
太湖石はいまも北京の北海公園に置かれている
中国の歴史のもの言わぬ一証人として

 

海上の盟

金の章宗がここに台を築き、釣り糸をたれた釣魚台(撮影・馮進)
 契丹族の遼に替って北京の主になったのは、中国東北部、現在の黒竜江省ハルビン一帯で狩猟などをしていた女真族が興した国家、金です。遼が南の宋と戦っているあいだに、北では女真族が阿骨打という首領を得て力を伸ばし、1115年には阿骨打を皇帝とする金という国を打ち建てました。金の太祖、完顔阿骨打(1068〜1123年)です。

 遼はこれに脅威を感じ、70万の大軍を北に送って金を押しつぶそうとします。しかし、金は混同江(現在の松花江)で遼軍を迎え打ち、大勝利を収めて、遼陽府(現在の遼寧省)、黄竜府(現在の吉林省)など遼東の地をその版図に入れ、さらに南の北京をも脅やかします。

 こうした情勢をみて喜んだのは、遼から失地を取りもどそうとしていた宋です。すぐに金に使者を送って、いっしょに遼を討とうともちかけます。この使者はもちろん、陸路で遼の領土を通って行くわけにはいきません。そこで山東半島から海を渡って遼東の金の土地に入ったのです。

 一方の金の使者もやはりこの海上コースを使って宋に入り、金・宋同盟について話しあっています。何回かの話しあいでまとまったのは、共同して遼にあたり、金は万里の長城以北を、宋は万里の長城以南を攻める。勝利の暁には北京をはじめ燕雲十六州は宋のものとする。宋は遼に贈っていた年貢50万両を金に贈るなどといった点でした。

 両国の使者が海上のルートで行き来したので、史書ではこの同盟を「海上の盟」といっています。この交渉で宋がいちばんこだわったのは、面子にかけても自分の手で北京を攻め落し、北京を自分のものとすることだったのです。

 宋は1122年に、皇帝の徽宗趙佶(1082〜1135年)側近の宦官、童貫(1054〜1126年)を総司令官に、何度も北京を攻撃し、その年の10月には現在の北京市宣武区の法源寺(第9話「貞観の治と北京の古刹」参照)一帯で市街戦があったという記録も残っていますが、いずれも失敗に終わっています。総司令官の童貫は『水滸伝』にも悪徳官僚のモデルとして登場するほどの悪玉ですが、北京攻略に失敗すると自分の首があぶないと感じて金に助けを求めます。

 金は出兵し、その年の12月に北京を落し、金の太祖、完顔阿骨打が遼の文武百官に迎えられ入城するのですが、童貫は、北京攻略を自分の手柄にしようと、金とかけひきをします。そして、年貢のほかに、毎年さらに百万貫銭を金に納めることを約束し、これと引きかえに北京をあけ渡してもらい、翌年の4月17日に北京入りしています。金がめぼしいものを全部持ち去ったあとでしたので、童貫の入った北京は文字通り「空城」でした。

中都の太湖石

北海公園にある太湖石。北宋時代に運ばれてきた

 宋の北京支配はつかの間のものでした。北京を手にした宋は、今度は北京を撤退した遼と結んで金にあたろうとしたのです。きっと童貫あたりの入れ知恵だったのでしょう。

 これを知った金の太宗、完顔晟(1075〜1135年)は激怒しました。そして大軍を繰りだし宋を攻め、1125年には北京を落し、さらに1127年には宋の都、開封に入り、宋の徽宗、欽宗趙恒(1100〜1161年)はじめ皇族を俘虜にします。北京に連れてこられた徽宗は延寿寺に、欽宗は前述の法源寺に監禁されました。延寿寺はいまでは美術骨董店や古書店が軒を連ねる北京宣武区の琉璃厰の近くにあったようです。

 金の貞元元年(1153年)に、金は首都を北の上京(現在の黒竜江省ハルビン)から北京に移し、この新しい都を中都と命名しました。

 この年の3月には、金の四代皇帝である海陵王、完顔亮(1122〜1161年)が、文武百官を率いて北京に入城しています。 これより先、1149年に皇帝の座に着いた海陵王は、すぐに宋の都だった開封に人を送り、宋の皇居や都の様子をくわしく調べさせ、それにもとづいて北京での皇居や都を設計させました。そして兵士40万人をふくむ120万人を動員して大工事をすすめ、1153年に建設を終わり、遷都したのです。

北京の西郊にある香山公園。紅葉が美しい

 この工事には、開封などから腕のたつ宮大工を大勢よび寄せ、またいろいろの材料を北京に運ばせました。開封の宋王朝の離宮にあった庭石まで運んできています。いまでも北京の中心部にある北海公園などで目にする大きな軽石のような太湖石と呼ばれる奇石も、そのときに運ばれてきたものです。

 ちなみに、太湖石について『最新中国情報辞典』(小学館)には「江蘇省太湖産の石。太湖の湖中の石が何万年もの波に打たれて、穴やくぼみができ、趣きある形に変わったもの、造園用の石材。輸出禁制品」と書かれています。

 中都の建設は、南京とよばれた遼代の北京を南に拡大するようにして進められました。現在の北京の宣武区一帯だったようです。ここに皇居を中心に四角形の都が造られ、漢族、女真族のほか契丹、蒙古、奚、渤海、さらには西のウイグル族の商人などが住み、人口50万の大都市となりました。

 ここを舞台に金は、民族融和に力を入れ、北京をふくむ燕雲十六州に住む漢族を「燕人」とよんで、南の宋の漢族と区別し優遇したり、敵だった遼の契丹族をも差別することなく役職につかせたりしました。こうして、中都つまり北京は中国諸民族の融和の場としても歴史にその名をとどめたのです。

金の章宗と釣魚台

 金の第六代皇帝、章宗、完顔 (1168〜1208年)は、たいへんな風流皇帝でした。漢文化にすっかり傾倒した章宗は、学士院に命じて唐の杜甫、韓愈、柳宗元、さらには宋の王安石、蘇軾らの文集を中都で印刷、発行させたり、「昨日の敵は今日の友」ならぬ、「昨日の敵は今日の師」とでもいうのでしょうか、かつて金と戦った宋の第八代皇帝徽宗の書画に惚れ込み、徽宗が創始した「痩金書」という書体を、みずからの書の手本にしたりしていました。

 章宗は、北京の景色のいい所を遊び歩き、詩を作ったり、絵を描いたりしています。今では国のゲストハウスである釣魚台迎賓館が造られ、日本の天皇陛下や田中角栄首相らが泊ったりした釣魚台も、章宗お気に入りの釣り場だったそうです。

 また現在は北海公園とよばれて市民の憩の場所となっている一角には、章宗の夏の離宮万寧宮がありました。章宗は毎年3月か4月にこの離宮に入り、夏が終わるまでここに留まり、湖から吹きあげる涼しい風で避暑しながら政務をとっていました。

 また、現在では北京の紅葉の名所となっている香山公園一帯にも章宗の行宮が設けられ、章宗は泊り込みでここの景色を楽しみ、猟を楽しんだそうです。要するに、北京のよい所のあちこちに章宗の足跡が残っているのです。

 こう書いてくると、章宗はたいへんな遊び人で政治をおろそかにしていたのではないかと思われる方もおられることでしょう。わたしもそうだろうなと思って『中国宮廷知識詞典』(中国国際広播出版社)の金の章宗のページをみておどろきました。

 「章宗は女真族と漢族の結婚を提唱するなど、民族間の融和に力を入れ、官制、法制、科挙制度の改革をすすめ、弘文院を設置し、孔子廟を建立した。漠北で韃靼軍を破って陣地を築き、南宋の韓タク胄を敗って南宋に『嘉定和議』を受け入れさせ、平和を回復した」とべたほめなのです。文武両面にわたって赫々たる業績を残した皇帝とされているのです。「よく遊び、よく働いた」皇帝だったのかも・・・・・・。

燕京八景 昔と今

燕京八景の一つ「盧溝暁月」の四字は、清の乾隆帝の筆になるもの(撮影・馮進)

 章宗は北京にたいへん風流な遺産を残しました。北京の景勝の地としてよく挙げられる「燕京八景」は、章宗みずからが歩き、選んだのだろうといわれているのです。というのは、「燕京八景」が最初に文字として現われるのは章宗の明昌年間のことを記した『明昌遺事』という本で、しかもこの八景にはみな章宗の足跡が残されているのです。

 『明昌遺事』に記されている「燕京八景」とは、居庸関の濃い緑を頌える「居庸疊翠」、徳勝門外に降る雨を思う「薊門飛雨」、盧溝橋の空に浮かぶ暁の月を捉える「盧溝暁月」、玉泉山に掛かる虹を描く「玉泉垂虹」、香山に白く積もった雪を愛でる「西山積雪」、北海(現在の北海公園の池)に浮かぶ瓊島の春景色を歌う「瓊島春陰」、北海の南に続く中海という池の秋景色を想う「太液秋風」、南壇あたりにあったのではという金台の夕景色を記す「金台夕照」です。

 この金の章宗の「燕京八景」は、その後、元、明、清でも景勝の地として親しまれてきたようで、やはり風流皇帝だった清の乾隆帝(1711〜1799年)は、そのすべてに足を運び、そこで題字を書き、それを刻った石碑を残しています。

 この石碑の文字を金代のネーミングとくらべてみますと、「薊門飛雨」が「薊門煙樹」に、「西山積雪」が「西山晴雪」に変わっています。前者は明代ころから、後者は元代ころからこう変ったようで、いまでも北京海淀区薊門橋の近くにある薊門公園には、乾隆帝の筆による「薊門ムフ樹」の四文字を刻った石碑が、香山公園には同じく乾隆帝の筆による「西山晴雪」の四文字を刻んだ石碑が残っています。

 章宗と乾隆帝のあいだには700年ほどの歳月が流れているのですが、風流を好むこの二人の皇帝には、北京の美に対してなにか一脈相通じるものがあったといえましょう。

燕京八景の一つ「薊門煙樹」。清の乾隆帝の書

 およそ800年も昔の、金の章宗が選んだといわれる「燕京八景」、その後も元、明、清と受けつがれてきたわけで、1989年に出版された『北京名勝古跡辞典』(北京燕山出版社)にも、「金台夕照」以外の七景についてはなんらかの形で触れられています。どうしたことか、「金台夕照」についての文字は見つかりません。清代に書かれた『燕京歳時記』には、北京東部の朝陽門外五華里(2500メートル)にあると書かれている乾隆帝御筆の「金台夕照」という石碑も、いまは姿を消して行方不明です。石碑どころか、「金台夕照」自体もどこだったのか、いろいろの説があり、謎につつまれています。

 なお、金の18人の皇帝の陵が北京西南部房山区の雲峰山にあります。海抜1300メートルの雲峰山一帯に広がるこれらの陵は、皇帝の陵としては北京に置かれた最初のものですが、金朝復活を恐れた明末の支配者の破壊などで荒れ果ててしまい、いまその整理がすすめられています。美しい大自然に囲まれた金陵一帯が北京の新しい観光の地として登場するのも、そう遠い日のことではないでしょう。

 次回は元代に入って「フビライの放った一本の矢」というお話しです。(2002年12月号より)

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。