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晩年のジンギスカンは道教びいき
老道士の丘処機を招いて政治の話を聞いた
その孫のフビライは儒教、仏教を好んだ
国号の「元」も儒教の教典『易経』から取った
ネパールから工匠を招いて白塔を建てた
北京っ子の羊肉好きは元代かららしい
北京の名物料理「カオ羊肉」や「シュアン羊肉」も
ルーツはジンギスカンやフビライが絡んでいる
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唐代に建てられた白雲観は、ジンギスカンから道教の道士の丘処機に与えられ、丘処機はここで亡くなった。いまもここで丘処機の霊を祭る儀式が行われている |
元の太祖ジンギスカン(1162〜1227年)の中央アジア、ヨーロッパ大遠征の模様を文字に記した二人の人間がいました。一人はジンギスカンの政治顧問を務めた契丹族の耶律楚材(1190〜1244年)、もう一人は道教の道士、丘処機(1148〜1227年)です。
丘処機は、道教について知りたいというジンギスカンに招かれて、その遠征先のアフガニスタンにまで出かけ、同行した弟子の李志常に旅の模様を『長春真人西遊記』として記録させています。丘処機は2年ほどの歳月をかけてアフガニスタンのカブールに赴き、そこでジンギスカンと会っています。1222年の5月、丘処機74歳のときのことでした。
政治の道について問われた丘処機は「天を敬い、民を愛するは国を治める本なり」と答え、不老長寿の道については「清心寡欲を以て真となす」と答え、ジンギスカンを深く感動させたそうです。
この会見でジンギスカンの厚い信任を得た丘処機は、中国全土の道教の長となるよう要請され、1224年に北京に帰り、1227年に亡くなります。その亡骸が葬られているのが、現在も残っている北京の道教の寺院「白雲観」です。
白雲観は唐の開元元年(713年)に建てられ、当時は天長観とよばれていました。白雲観とよばれるようになったのは丘処機の亡骸がここの境内に設けられた処順堂に葬られてからです。現在の白雲観の本殿である丘祖殿です。
白雲観の1万平方メートルの境内には、この丘祖殿のほか玉皇殿、老律堂、三清閣、雲集園などがあり、さながら道教文化の大殿堂です。道教のもつ庶民性からでしょうか、白雲観にはさまざまな人が、さまざまな願いをもってお参りに来ています。元君殿の「催生娘娘」の前では、子授けを祈る女性の姿が、道教の学問の神様、文昌帝の像のよこに孔子の像も並んで祭られている文昌殿では、入学試験合格を祈る親子の姿が見られます。財神殿では商売繁盛を願う商売人たちが立てた線香の香りが絶えません。
白雲観がいちばん賑わうのは、春節とよばれる旧暦のお正月です。このころは北京のいちばん寒い時期ですが、一日から十日までは境内で道教のいろいろな行事が催され、白雲観への道の両側には縁日の屋台が並び、毎日数万人の人出で賑わいます。白い漢白玉石の山門に彫られている石の猿を撫でると、願いごとがかなうというので、春節にはこの石の猿の前に長い列ができる、というほほえましい風景を目にすることができます。
道教の看板の一つは不老長寿です。白雲観の境内にある陳列室には、道教伝来の不老長寿の秘訣を図解した『修真図』が並べられています。こうした道教独特の修業のたまものとでもいうのでしょうか、白雲観の境内のあちこちで「道袍」とよばれる道教の服を着て、頭は髷をゆい、長い髭をたくわえた高齢の道士を見かけますが、どなたも矍鑠としています。
白雲観は地下鉄一号線の南礼士路駅から南西に歩いて15分ほど、バスでしたら白雲路、天寧寺、西便門で降りれば、いずれも5分ほどです。仏教、儒教(儒教は厳密には宗教といえないかも知れませんが・・・・・・)とともに中国の三大宗教に数えられる道教を知る窓口として、また不老長寿の夢を膨らませる秘地として立ち寄ってみてはどうでしょう。
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孔子廟の中に立っている元、明、清代の進士の名を記した碑。全部で5万人以上の進士の姓名と本籍が書かれている |
ジンギスカンの晩年は道教びいきだったようですが、その孫で元の事実上の建国者であったフビライは、どちらかといえば儒教、仏教が好きだったようです。
フビライが決めた「元」という国号も、儒教の教典『易経』から取ったものですし、フビライによる都、大都の建設も儒教の教典『周礼』にもとづいてすすめられました。
フビライは大都の建設プランを練るさい、まず儒学の開祖とされる孔子を祭る孔子廟の建設を考え、大都の東北部の一画を孔子廟と、国立大学ともいえる国子監の建設用地に振りあてています。
どうしたことか、この工事は延び延びになり、孔子廟が建ったのはフビライのあとを継いだその孫である成宗ティムールの大徳6年(1302年)、国子監が建ったのは大徳10年(1306年)でした。やはり儒教のしきたりである「左廟右学」に従って、左側が孔子廟、右側が国子監と、隣りあって建っています。
この孔子廟と国子監は、現在も昔のまま、つまり元代の位置に残っています。地下鉄環状線の雍和宮駅で降りて南に5分ほどのところにある国子監街という胡同(横町)に入ると、「成賢街」の三文字が書かれた中国風のアーチが目に入ります。孔子廟と国子監はこの胡同にあるのです。たしかにこの辺は元、明、清の3代、700年ほどにわたって、賢人を育てる「成賢」の地だったのでしょう。
孔子廟の正門の東西十数メートルのところに、それぞれ高さ4メートルほどの「下馬碑」とよばれる石碑が立っています。この石碑には漢族、蒙古族、満州族など六種類の文字で「これより先、武官は馬を降り、文官は駕籠を降りよ」と刻まれています。ここからは聖域というわけです。
コノテガシワの茂る2万2000平方メートルの孔子廟の敷地には、孔子を祭る大成殿などがあります。明代、清代に建てなおされたものが多く、清の乾隆2年(1737年)後の建物には皇帝なみに、黄色の瑠璃瓦と赤い壁を使うことが許されています。元代のものとしては、大成門の前に残されている「大成至聖文宣王」という孔子の諡を刻んだ石碑などがあります。
このほか、孔子廟に残されている元代、明代、清代の科挙(官吏登用試験)の合格者5万1624人の名を彫った198座の「進士題名碑」なども、歴史の流れを記した貴重な文物といえましょう。
私ごとですが、ここに家内の母方の曽祖父の名前が彫られています。清末の進士、李緒昌です。息子が大学に入学したとき、家内はこの石碑の前に息子を連れていったとか。「ご先祖さまに学んでよく勉強しろっていうことだろう」と息子は笑っていました。古今東西、母の心は同じなのでしょう。
ジンギスカンとフビライの名前がでて頭に浮かんだのは、北京の代表的な羊料理として挙げられるカオ羊肉とシュアン羊肉です。
まずカオ羊肉ですが、カオは火であぶり焼くこと、文字通り羊の肉のあぶり焼きで、そのルーツはジンギスカンあたりだろうという説があります。ジンギスカンは戦闘に勝利すると、羊の肉を焼き、それを肴に兵士たちと酒盛りをして祝ったそうです。
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「カオ肉季」は清朝末に、季徳彩という人によって創業された |
ジンギスカンのころは、現在でも新疆ウイグル自治区を旅すると宴席にのぼる「カオ全羊」と呼ばれる羊の丸焼きでした。それが時代の流れとともに改良され、現在のカオ羊肉は、薄く切った羊の肉をネギや香菜などを入れた醤油に漬け、鉄の棒をすこしずつ間をあけて網のように渡した独特の鍋の上で焼きながら、長いお箸で取って食べるのが主流になっています。
北京のカオ羊肉の老舗は、清の道光28年(1848年)創業の「カオ肉季」です。いまも、鼓楼に近い後海と前海の接点にある銀錠橋という橋の北側で繁盛しています。
この一帯は清代には燕京小八景にも数えられた景色の美しいところで、ここの焼肉で舌つづみを打ったあと、後海のほとりを清代のお屋敷沿いに西に向かって30分ほど積水潭の地下鉄の駅あたりまでゆっくり散歩するのは、北京漫歩のぜいたくコースといえましょう。
ちなみに、北京にはジンギスカン時代の「カオ全羊」を食べさせる店もあります。朝陽門近くにある「アファンティ」など新疆料理店です。丸焼き用の羊の手配と丸焼きに時間がかかるので、一日前の予約が必要とのことです。
シュアン羊肉の創始者がジンギスカンなら、シュアン羊肉の創始者はフビライだという説があります。シュアン羊肉の「シュアン」はさっと熱湯に通すといった意味で、シュアン羊肉は羊の肉のシャブシャブです。
そのルーツにはこんな伝説があります。戦闘に勝利したフビライが、祖父にあたるジンギスカンからのしきたりで、カオ全羊で祝宴をしようとしていたときのことです。斥候が敵の大軍が近くにまで迫っていると報告してきたのです。
丸焼きをしていてはとても間にあいません。フビライは兵士たちといっしょに羊の肉を薄く切って鍋のなかの沸騰した湯につけ、ネギや生姜などの調味料を振りかけ、大急ぎで何杯か掻き込んで馬にまたがり敵を迎え打ち、大勝利を収めたそうです。これがシュアン羊肉のルーツだというのです。
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皿に並べられた羊の肉の薄切り |
シュアン羊肉の北京の老舗は、1914年創業の「東来順」で、現在も北京の銀座といわれる王府井の新東安市場で営業しています。この店のシュアン羊肉について日本の料理研究家、波多野須美さんは『中国 美食の旅』(新潮社)で次のように書いています。
「この店は、尾の短い綿羊の羯羊(去勢した牡の羊)を選んで、その一頭の羊肉からシュアン羊肉にはせいぜい7・5キロしか使わないという。赤い血の色をした羊肉は、せみの羽根の如く薄く切り、その中に白い脂が模様のように入って美しい。七種類の自慢のタレを各自で混ぜ合わせて、煮立つ鍋にシュアン(さっとすすぐ)で食べる。羊は臭みもなくやわらかく、さすが本場の味である」
「東来順」という店名ですが、この店を開いた丁徳貴さん兄弟が北京の東の方の生まれで、東からきた丁さん兄弟の北京での商売が順調にいくようにという願いを込めて「東来順」という名をつけたそうです。
ちなみに、北京には繁盛した「東来順」にあやかって、西から来て順調、「西来順」というしゃぶしゃぶのお店もあります。前回ふれた白塔のある妙応寺の向い側で繁盛しています。
次回は、明代に入って「大都から北京へ」というタイトルで、明の都となった北京の様子をご紹介します。北京が北京とよばれるようになったのは明の永楽帝のときからなのです。
(2003年3月号より)
李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
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