北京の旅・暮らしを楽しくする史話

わたしの北京50万年(第19話)
雪舟 帝都の旅 ― 明

                    文・李順然 写真・楊振生

 

北京を訪れた雪舟
この旅を「観光」と記する書もある
あのころの「観光」は
「厳しい修行の旅」の同義語だった
ずっしり重い二字だった
物見遊山ではなかった
「観光」先の中国で半世紀も修行し
北京に骨を埋めた日本僧もいた

 

五塔寺 大鐘寺 智化寺

真覚寺境内の五塔寺の塔は、明の成化9年(1473年)に建立された。インドのブッダガヤの様式にならって建てられ、高い台座の上には五基の仏塔が造られている。「金剛宝座塔」といわれる

 北京に都を置いた元のフビライ(1215〜1294年)は、ネパールから工匠を招いて、妙応寺にネパール風の白塔を建てました。これに学んだのでしょうか、北京に遷都した明の永楽帝(1360〜1424年)も、インドの高僧バンデイーダから贈られた設計図にもとづいて、北京西部の真覚寺に、インドのブッタガヤの大精舎と同じ形の五基の石塔を建てました。真覚寺はその五基の石塔から五塔寺とも呼ばれ、いまも市民に親しまれています。

 五塔寺はパンダのいる北京動物園のすぐ北隣り、パンダを見た足で立ち寄るのもいいでしょう。美しい石塔がそそりたつ高さ17メートルの宝座の壁には、天王、羅漢、菩薩のほか、さまざまな動物や花鳥が浮き彫りにされていて、彫刻の素晴らしいお寺としても知られています。

 1987年にはこれに花を添えるかのように、五塔寺の境内に石刻芸術博物館が設けられました。そして北京一帯で収集された二千点ほどの石刻文化財を展示しています。

 永楽帝と北京のお寺といえば、この五塔寺からタクシーで北に十分ほど行った所にある覚生寺、俗称大鐘寺が頭に浮かびました。この寺の鐘堂に吊られている高さ6メートル75センチ、重さ46・5トンという大きな鐘は、永楽帝の勅命で造られたものなのです。

 この鐘は、「靖難の変」で建文帝(1377〜1402年)を倒して帝位に就いた永楽帝が、この武装クーデターでの戦死者の霊を慰めるため造ったので、「永楽大鐘」とよばれてきました。この鐘の外側と内側には、なんと23万184字におよぶ「華厳経」などの経文が、びっしりと記されています。

 鐘の音色もよく、余音が一分以上続き、4、5キロ先まで聞こえるそうで、最近では除夜の鐘が撞かれるようになり、北京の歳末に色を添えています。ここも境内に古鐘博物館が設けられていて、大小さまざまな鐘を五百ほどが展示されています。

 五塔寺と大鐘寺は北京の西部にあるのですが、北京駅に近い国際飯店の裏の禄米倉胡同にある智化寺も明代に建てられたお寺です。悪名高い明代の宦官、王振(?〜1449年)が建てたものです。

 王振は、正統帝(1427〜1464年)に取り入って、宦官の長官にまでのしあがり、悪事のかぎりを尽くしました。智化寺も、自分の祖先を祀るお寺を建てるといって正統帝をだまし、特別許可を取って建てたものですが、実際には王振が贅沢三昧に明け暮れる豪邸だったようで、明代の建築の粋を集めているといわれています。

 王振は、ここに宮中の楽隊を呼んで音楽を楽しみました。この楽隊の演奏した曲が「京音楽」として代々、智化寺に伝えられ、現在もその26代目が智化寺を本拠にドイツ、フランスなどに演奏旅行にでかけ、活躍しています。

雪舟と徳始

 明代には、イタリアのマテオリッチ(1552〜1610年)らヨーロッパから宣教師が北京入りして、ヨーロッパの科学や文化を中国に伝えています。北京を訪れた日本人もいました。画家の雪舟(1420〜1506年)もその一人です。

 雪舟は、日本の応仁元年(1467年)、明の成化3年に中国に渡り、寧波に半年ほど滞在したあと船で大運河を北上し、成化四年に北京に着いています。雪舟、48歳のときでした。北京では成化帝おかかえの画家たちと交わり、『四季山水図』(東京国立博物館蔵)などかなりの絵を残したようです。

潭柘寺の塔林の中にある終極無初禅師の塔(終極は号、無初は字)。日本の高僧である終極無初禅師がここに葬られている。彼は永楽年間に、明の成祖によって潭柘寺の住職に任じられ、宣徳4年に没した

 雪舟が宿としていた北京の大興安寺の住職、魯庵純雪は、雪舟に贈った詩の序で「日本の僧雪舟なる者、筆をとればたちどころに成る。絶えず利を計る無し。凡そ、求索するものに遍く応じて拒む無し。故に人皆之を徳とす」と書いています。異国の人たちと親しく交わった雪舟の北京での暮らしの一端がうかがえます。

 雪舟は、新築されたばかりの礼部試院の壁に、求められて竜の絵を描いて贈っています。礼部試院は官吏登用試験である科挙を担当する役所で、ときの礼部尚書(儀典相)姚キは、科挙の受験生にこの絵を見せ、「外国人にもこんな立派な絵を描ける人がいる。諸君もがんばって勉強したまえ」と励ましたそうです。

 世界にその名を残した雪舟とは対照的に、ほとんど無名で、明の北京に骨を埋めた日本人もいました。徳始(?〜1428年)という日本の僧侶です。

 徳始は字を無初といい、明末の河所が書いた『補続高僧伝』の「日本徳始伝」によると、日本の信濃の人で、京都の寺で修行したあと、1374年に中国に渡り、南京の天界寺に入っています。当時の南京は明の都でした。

 その後、四川の大随院などの住職をし、少林寺拳法で知られる河南の少林寺にもいたことがあるようです。少林寺には徳始が楷書で書いた「淳拙禅師道行之碑」という文字を刻んだ石碑が残っているのです。

 徳始は永楽3年(1405年)、永楽帝の右腕ともいわれた高僧、姚広孝(1335〜1418年)に招かれ北京入りし、現在の西山八大処の香界寺の住職などをしていました。徳始は北京で25年ほど暮らし、明の宣徳四年(1428年)に北京で亡くなり、西郊外の古刹、潭柘寺の塔林に葬られています。

 ちなみに、雪舟にしろ、徳始にしろ、そのころの日本人の中国の旅は、「観光」と記されることもありました。といっても当時の「観光」は気軽な旅行、物見遊山ではなく、「厳しい修行の旅」という内容を持つ、ずっしり重い二字だったのです。

六必居と便宜坊

 明代の都、北京には、全国から人や物が集まり、商業が栄えました。正陽門一帯、崇文門附近、鼓楼周辺などが商店街だったようです。現在の北京にも、この明代からの暖簾を守っている老舗があります。漬けもの屋さんの「六必居」、北京ダックの「便宜坊」です。

 いまも前門(正陽門)の大柵欄街の東の入口の近くで営業している「六必居」は、文字の資料が残っている北京でいちばん古いお店です。明の嘉靖9年(1530年)に、山西・臨汾西杜村の趙存仁、趙存義、趙存礼三兄弟が店を興したとなっています。

六必居醤園は、前門の門外の大柵欄にあり、自家製の漬物で有名な老舗。明の嘉靖9年(1530年)に開業し、店内には、当時の宰相、厳嵩が書いた古い扁額が掛けられている

 はじめはお酒を造っていたようで、その屋号「六必居」は、うまい酒を造る上での六必須――「稲黍必ず斉い、陶瓷必ず良く、 蘖(こうじ)必ず実り、水泉必ず香り、湛之必ず潔く、火候必ず得たり」から生まれたとか……。

 「六必居」の漬けもののなかで、わたしがいちばん好きなのは「甜醤八宝菜」。北京特産の香瓜にピーナツ、クルミなど八宝(八種類の珍味)を添えて漬けた漬けものです。清の同治八年(1869年)、開業の老舗「天源」からも同じ名前の漬けものがでていますが、「六必居」の「甜醤八宝菜」には生姜が入っています。

 北京ダックの「便宜坊」の開店の年代については、明の嘉靖年間(1522〜1565年)説と清の乾隆年間(1736〜1795年)説があります。いずれにしろ、北京ダックは、明の南京から北京への遷都とともに、南京から北京に伝えられたのは事実でしょう。

 はじめは「南炉鴨」とよばれていました。調理法も現在では主流となっているアヒルを炉の上に吊して、棗や梨の薪で炙り焼く「掛炉」ではなく、熱くしたかまどのなかにアヒルを入れて、蒸し焼きにする「モン炉」でした。

 この「モン炉」をいまも守り続けているのが、天壇公園の北側の崇文門外や東側の天壇東里などで営業している「便宜坊」なのです。一方、主流となっている「掛炉」の代表的なお店は、清の同治三年(1864年)創業の「全聚徳」です。

 「モン炉」の「便宜坊」と「掛炉」の「全聚徳」。どちらが美味しいか。それは人それぞれの好みでしょう。

敬天法祖と敬天愛民

 北京での明朝から清朝への政権交替には、時間的にいくらか空白がありました。農民蜂起の李自成が北京を占領し、明のラストエンペラー、崇禎帝(1610〜1644年)が自害して明朝276年の歴史にピリオドが打たれたのが明の崇禎17年3月19日。摂政王ドルゴンの率いる清軍の北京入城が5月2日で、この間に四十数日の空白があったのです。この四十数日、北京ではなにが起こっていたのでしょうか。

 3月19日、北京に入城した李自成は紫禁城の表玄関ともいうべき承天門(清代に天安門と改名)の前に馬を停め、門の上に掛っている「承天門」という額に矢を放ちました。この矢は「天」という字に刺ったそうです。

永楽大鐘は、明の成祖永楽帝が都を北京に移した後に、命じて鋳造させた鐘で、「華厳鐘」とも呼ばれる。後に永楽帝となる朱棣による「靖難の役」や「北京遷都」の偉業を宣揚するために鋳造された。総重量は46・5トン、高さ6・94メートル、最大の直径は4メートル

 紫禁城に入った李自成は、乾清殿に掛っていた「敬天法祖」という額をはずし、「敬天愛民」という額に取り替えたり、文華殿に北京一帯の町や村の長老を招いて意見を聞いたりもしたそうです。北京の街には、李自成を頌える「新帝万歳」といったのぼりもたちました。

 こうしたなかで、李自成とその将軍の間には、おごりとたるみがでてきたようです。清軍と清軍に寝返った明の呉三桂の連合軍の攻撃を前に、李自成軍は総崩れとなりました。李自成は、4月29日に紫禁城の武英殿でそそくさと大順「皇帝」即位の儀式を挙げたあと、北京から撤退しています。

 これを追うように、5月2日には清軍が北京に入城し、清の摂政王ドルゴンが朝陽門から紫禁城の武英殿に入り、降伏してきた明朝の旧臣の出迎えを受けました。北京が清の都となるのは、この年の9月、清の三代皇帝順治帝(1638〜1661年)が北京入りし、10月1日に清の皇帝として北京に都を置き全国を治めることを宣する儀式をおこなってからです。

 次回は、順治帝と同じ年に北京入りした日本人、国田兵右衛門の見た清初の北京から話を始めようと思っています。国田兵右衛門は、万里の長城の姿を最初に日本に伝えた人とも言われています。(2003年7月号より)

 

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。