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紫禁城、それを囲む城壁
明朝は北京に城を築いた
円明園、頤和園、乾隆花園……
清朝は北京に庭を造った
庭造りに精をだした乾隆帝
その庭でよく遊んだ西太后
城も、庭もいまでは
市民の憩いの場となっている
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乾隆帝の遊び心
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静心斎は、北海の北部にあり、明代に建てられ、一七九五年に増改築された。「乾隆小花園」とも言われる |
「明朝は北京に城を築き、清朝は北京に庭を造った」という人がいます。 たしかに、明代には北京に紫禁城が建てられ、城壁が築かれ、北京周辺の万里の長城の補強工事が進められました。このおかげで清代の皇帝たちは、安心して円明園や頤和園などの庭園造りに精を出すことができたのです。
『レ・ミゼラブル』の作者として知られるビクトル・ユーゴー(1802〜1885年)は、円明園を「人類の想像力の集大成ともいうべき輝かしい宝庫」とたたえました。頤和園はユネスコの世界遺産に登録されています。
「清代の庭造りは乾隆帝(1711〜1799年)の遊び心だ」という人もいます。
たしかに、乾隆帝は祖父の康煕帝(1654〜1722年)が造った円明園に、新たな楼閣を建てて色を添えています。
例えば、「上に天国あり、下に蘇州・杭州あり」といわれた蘇州・杭州の景勝地の風景を持ち込んで「天然図画楼閣」を建てたり、ベルサイユ宮殿をコピーしたという洋式の「海晏堂」を建てたり、さらには自分の最大の文化事業であった四庫全書を収蔵する「文源閣」を建てたり……
頤和園にいたっては、乾隆帝が生みの親だったといえましょう。乾隆15年(1750年)、母親の60歳の誕生日を祝って、ここにあった西湖を昆明湖に、瓮山を万寿山に改名し、庭園造りを始めたのです。
このほか北海公園など、もと御苑だった市内の公園にも、あちこちに乾隆帝が手を入れた跡が残っています。乾隆帝の遊び心がいたる所で感じられます。
「乾隆帝の遊び心というけれど、こうした庭園でいちばん遊んだのは西太后(1835〜1908年)だろう」という人もいます。
たしかに、半世紀近くにわたって朝政を一手に握った西太后は、花見、船遊び、山登り……とたいへんな遊び好きで、小は北海公園の靜心斎から、大は万寿山のある頤和園まで、気に入った庭園があると、「鶴の一声」で、自分専用の「遊び場」にしてきました。
こんなわけで今回は、西太后お気に入りの庭園と、それにまつわるエピソードをいくつか紹介してみましょう。清王朝の庭園造りの一端と、西太后という女性のある一面を知る手掛りになるかもしれません。
靜心斎とお召し列車
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海晏堂は、円明園の長春園北部に建てられた西洋建築で、漢白玉石が多く使われ、その表面に精巧な彫刻が施され、屋根は瑠璃瓦で葺かれていた |
北京の中心にある北海公園の歴史は長く、金(1115〜1234年)、元(1279〜1368年)、明(1368〜1644年)、清(1644〜1911年)と、ずっと王朝の御苑でした。面積77万平方メートル、その半分が池です。公園内の「見せ場」の多くは、乾隆帝の遊び心から造られました。
公園の北西の角にある靜心斎という庭園は、乾隆帝が読書の場として造ったもので、山あり、池あり、滝あり、橋あり、楼閣あり……のこぢんまりした「小の中に大を見る」という代表的な中国式庭園です。
乾隆帝の死後も、ずっと歴代の皇子たちの勉強の場として使われてきました。乾隆帝たちが勉強した抱素書屋は、いまも靜心斎の池のほとりにその姿を残しています。
下って西太后の時代、この靜心斎が西太后の目にとまりました。西太后は、靜心斎の北西のいちばん高い一角に?翠楼という二階建ての楼閣を建て、ここから北海の春夏秋冬の景色を眺めたりしていたようです。
西太后はここがたいへん気に入ったらしく、みずから筆を取って「?翠楼」の三文字を書きました。いまでもこの西太后直筆の額が?翠楼の入口に掛けられています。こうして靜心斎は読書の場から物見遊山の場となったわけです。
靜心斎と西太后といえば、こんなエピソードがあります。
西太后は北海公園の南側の中海に住んでいたのですが、この中海から北海の池沿いに、靜心斎に通じる全長2キロの軽便鉄道を敷かせ、ここにお召し列車を走らせて靜心斎通いをしたそうです。光緒14年(1888年)のことで、これが北京での最初の鉄道でした。ちなみに、ドイツから輸入した六両編成の車両が使われています。
こんなエピソードもあります。
ある日のことです。ジョウ翠楼で休んでいた西太后の耳に、遠くで鳴らすドラの音が聞こえてきました。
「なんの音じゃ」と、西太后はお付きの宦官にたずねました。
「えんどう豆の羊羮売りの鳴らすドラでございます」。
「えんどう豆の羊羮だと。わらわはまだ食べたことがない。呼んで参れ」
ということになりました。
このえんどう豆の羊羮、西太后の口に合ったようです。その場で羊羮売りを西太后お抱えの菓子職人として、宮中で働くようにさせました。
いまでも、北海公園のなかにある宮廷料理「?膳」では、このえんどう豆の羊羮「豌豆黄」が、西太后の大好物としてメニューにのっています。靜心斎からの帰り道に「ホウ膳」に寄って食べてみては……
西太后のジョギング
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頤和園の長廊は、万寿山の南の麓にあり、昆明湖に面している。全長七百二十八メートル、梁の上に描かれた大小の絵は一万四千以上ある |
清朝の庭園造りの本舞台は、なんといっても北京の西郊外でした。ここで「三山五園」といわれる庭園造りをすすめたのです。円明園、暢春園、香山靜宜園、玉泉山靜明園、万寿山清イ園の「三山五園」で、このうち現在では公園になって市民に開放されているのは円明園遺跡公園、香山公園と頤和園の三カ所です。
頤和園の前身は万寿山清イ園で、乾隆帝が母親の60歳の贈りものとして造った庭園です。光緒12年(1886年)には西太后が頤和園と名を変えて、自分専用の離宮としました。1860年の英仏連合軍の北京侵入で破壊された万寿山清イ園の跡に、海軍が軍艦を購入するための巨額な資金を流用して、大がかりな改修工事をしたのです。
それも束の間、1900年の八カ国連合軍の北京侵入の際、頤和園はまたも破壊されてしまいます。西太后は北京を脱け出して西安に逃れ、2年後の1902年に北京に帰ってきました。そして、また多額の費用をかけて頤和園の造営を行い、1903年から1908年に74歳で死ぬまで、ほとんどの時間をここで過しています。
なにしろ、面積293ヘクタールというたいへんな広さの頤和園です。そのすべてをご紹介するわけにはいきませんので、九牛の一毛かも知れませんが,西太后お気に入りの散歩コースをご紹介しましょう。西太后の女官の徳齢が、西太后から「今日はいい所に連れていってあげよう」と言われ、お供をしたコースです。
まず、西太后が住まいとしていた昆明湖の東南の岸辺にある楽寿堂を出て、昆明湖沿いに700メートルも続く長廊の散歩です。長廊は文字通り長い廊下で、その梁欄には杭州の西湖の風景など、1万4000枚の極彩色の絵が描かれています。
ここをかなりの早足で散歩したようです。西太后風のジョギングだったのでしょう。徳齢は「陛下はとても足早で、急いで歩かないとお伴できませんでした」と語っています。
この長廊の西の端の昆明湖のほとりには、白い大理石で造った船が浮かんでいます。いつまでも沈むことない清王朝を象徴していたそうで、清晏舫とよばれています。ここでお迎えの船に乗り込み、船遊びです。船の上では、まわりの船と競争したり、リンゴをぶ
つけあったり……。
遊びあきると、船を昆明湖の東岸につけ、待たせてあった駕籠に乗り換え山登りです。そして、かなりの勾配の坂道を景福閣に向かいます。景福閣は万寿山の東の高台にある小さな楼閣で、西南に広がる昆明湖はじめ四方の景色を眺めることができる西太后お気に入りの場所でした。
西太后はここで月見をしたり、雪景色を楽しんだり、外国の使節と会ったりしています。西太后が選んだだけあって、ここでの一休みは最高です。西太后のお供をして頤和園のいい所はすべて見て歩いた徳齢も「景福閣がいちばんです」と折り紙をつけています。
ちょっと歴史は下りますが、1949年1月31日の北京の平和解放の前夜、東にひろがる北京の市街を見下ろしながら、ここで北京の平和解放をめぐる中国共産党と中国国民党の交渉がありました。大きな歴史の舞台でもあったのです。
天地一家春
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頤和園の景福閣は、園内の主な場所に通じる中枢にある。西太后がここで月を愛で、雪を見たという |
西太后は、頤和園にすっかり満足していたわけではないようです。身は頤和園にありながら、心はいつも東隣りの円明園、とりわけ円明園の天地一家春という御殿にあったといわれています。
その物的証拠が頤和園に残されていたのです。頤和園の西太后の住まいだった楽寿堂の前の二つの銅のかめです。このかめには、「天地一家春」という五文字と「光緒年制」という四文字が刻まれています。おそらく西太后が彫らせたであろうこの数文字には、円明園の天地一家春に寄せる西太后の心が込められているというのです。
西太后は17歳で咸豊帝(1831〜1861年)の後宮に入り、22歳のときに同治帝(1856〜1875年)を産みました。その翌年、つまり咸豊8年に貴妃に封じられ、円明園のなかの天地一家春という御殿を住まいとして下賜されて、ここで親子水入らずの生活を送ります。この数年が西太后にとっていちばん幸せな日々だったようです。
この円明園の天地一家春も、1860年の英仏連合軍の北京侵入で破壊されてしまいます。同治12年(1873年)、同治帝は親政を敷くとすぐに、懐かしい円明園の天地一家春に帰りたいという母親の西太后の意を汲んで、円明園再建の詔書をだしますが、大臣たちは財政困難を理由に強く反対し、実現しませんでした。
そこでやむなく頤和園の楽寿堂に住むことになるのですが、どうしても幸せな日々を送った円明園の天地一家春が忘れられず、楽寿堂の前に「天地一家春」と彫ったかめを置いて、過ぎし日を偲んだというのです。
ちなみに、円明園の面積は、頤和園よりさらに53ヘクタールもひろく、346ヘクタールあります。1860年の英仏連合軍の北京侵入の際にすっかり破壊されてしまい、いまも残っているのはベルサイユ宮殿をコピーしたという海晏堂の大きな柱などの残骸で、文字通り円明園遺跡公園です。
いま全般的な復旧工事のプランが練られており、その第一歩としてここの敷地に住み着いた人たちの立ち退きなどが始まっています。私は、壊された残骸が残っているところは壊されたままにしておくのも一案だと思っています。理性を失った人間たちの蛮行の記念碑として……
次回は清王朝の九人の皇帝の陵で、ユネスコの世界遺産にも登録されている清の東陵、西陵にご案内しようと思っています(2003年10月号より)
李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
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