北京の旅・暮らしを楽しくする史話


わたしの北京50万年
(最終話)

北京の点と線のパズル

                                文・李順然 写真・楊振生
 

北京50万年の歩みは
和の心のバトンタッチ
この広いグラウンドで
農耕民族 遊牧民族 狩猟民族が
融合しあい 交流しあい
和の心を培い育んできた
和の心は世々代々
リレーされていくだろう 

 

北京の地下鉄新名所

北京中華世紀壇。1999年に、中華人民共和国建国50周年を記念して建てられた

 「やっと」と言うか、「もう」と言うか、最終話です。この2年近く、下手な字で原稿用紙の枡目を埋めながら、北京50万年の歴史の点と点を繋いで線のようなものを手繰っていく「クロスワードパズル」を楽しませてもらいました。

 それにしても百ページ近くも書いたのですから、「自分で自分をほめてやりたい」ところがまったく無いかというと嘘になります。例えば、北京のあちこちにご案内するとき、できるだけ最寄りの地下鉄の駅名を挙げたのは、よかったと思います。

 なにしろ北京の地下鉄一号線は、東京でいえば中央線、北京の地下鉄環状線は東京でいえば山手線的な存在で、50年後、いや、ひょっとすると百年後も生き続けているだろうからです。つまり、『わたしの北京50万年』の賞味期限はかなり「長期間有効」なのかも知れないと、ほくそえんでいるのです。

 現に、北京地下鉄一号と環状線の沿線には、この2年近くの間にも新名所があちこちで誕生しています。第2話「漢方薬と北京原人」で、北京のど真ん中、王府井の東方プラザビル建築現場の地下12メートルのところで、2万年前の人類の住居の遺跡が見つかったと書きましたが、この発掘現場、つまり落成した東方プラザビルの地下街の一角に、古人類文化遺跡博物館がオープンしました。地下鉄一号線王府井駅から一分のところです。

 同じく第二話で触れた孔子廟のなかの北京史を紹介するこぢんまりした首都博物館も、北京のメインストリート長安街の燕京ホテルの向かいに、素晴らしい新館を建てています。これも地下鉄一号線の南礼士路駅から3分ほどのところです。

北京→北平→北京

北京の古観像台は、建国門橋の南西にあり、全国重点保護文物に指定されている

 1912年に中国最後の封建王朝である清朝が倒れたあと、北京は、中華民国の首都という看板を掲げます。しかし実際には、各派軍閥の権力争奪の混戦の舞台でした。

 そして1928年に、都は南京に移されて、北京はその名を「北平」と変えます。この間に、孫中山(1866〜1925年)、毛沢東(1893〜1976年)、蒋介石(1887〜1975年)……といった人物が北京の土を踏んでいます。

 孫中山は1925年3月12日、「革命はなお未だ成功しておらず、同志たちよ、ひきつづき努力しよう」という遺言を残して北京で死去しました。

 1937年から1945年は、北京のもっとも暗い時代でした。日本軍の占領下にあったのです。北京はこれまでも1860年のイギリス、フランス連合軍による占領、1900年の八カ国連合軍による占領に遇ってきましたが、日本軍による占領は八年も続き、もっとも長く、市民にとってはいちばん厳しく、苦しい日々でした。

 1945年8月の日本の無条件降伏後、北京に入ったのは中国国民党軍です。1949年1月22日、国民党の華北方面軍の司令官だった傅作義将軍(1895〜1974年)は、中国共産党の出した北京和平解放の条件を受け入れて蜂起し、1月31日、中国人民解放軍が北京に無血入城しました。こうして古都北京は、戦火に傷つくことなく、民衆の手に返ります。

 そして第一話でも書いたように、この年の10月1日に毛沢東主席が天安門の楼閣の上から全世界に向かって中華人民共和国の成立を宣言し、北京はその首都となり、ふたたび庶民に親しまれてきた北京という呼び名を取りもどしたのです。

 この半世紀ほどの歴史は、いずれ『清史』『民国史』でも記されるでしょう。その準備の一環というか、参考資料というか、1959年から現在まで、当時の清朝や中華民国の要人、各界の人たちが、回顧録風の歴史資料を20億字も書き上げているそうです。北京にふれたものもあることでしょう。充実した『清史』『民国史』ができることを期待しています。

マクロヒストリー

地下鉄王府井駅のホーム。北京の地下鉄は1965年から建設が始まり、便利な市民の足となっている

 50万年の北京の歴史の点と点を繋いでいく「クロスワードパズル」の中で、たびたび私の頭を掠めたのは「マクロヒストリー」という言葉でした。

 「マクロヒストリー」――これはニューヨーク州立大学で中国史を教えていた黄仁宇教授の造語のようです。黄教授はその代表作『中国マクロヒストリー』(東方書店)で、マクロヒストリーについて「長い目で見た歴史の合理性」「もう少し長く、広い視野で再検討した歴史……」と説明しています。

 悠久の歴史、広大な国土、膨大な人口、多様な民族、多彩な文化……、こうした中国を知るには、「長い目」と「広い視野」でその歴史を見ることがとても大切だ、と語っているのでしょう。

 たしかに、北京の歴史にしろ、中国の歴史にしろ、「長い目」と「広い視野」で見ていくと、それなりに面白い点や線が浮かんできます。ちょっと突飛な例ですが、第8話「煬帝と大運河」でふれた隋の第2代皇帝、煬帝(569〜618年)の残した南北大運河(杭州―北京)をめぐる評価もそうでしょう。

 煬帝は中国の歴代皇帝の中でも暴君といわれ、その残した南北大運河も民衆を苦しめた愚挙とする人が多かったのです。ところが昨今の北京史学界では、南北大運河を高く評価する人が多く、「南北大運河がなかったら、元の大都、明、清の北京、そして現在の北京もなく、北京が首都となることもなかった」というのが大方の見方となっているのです。

 煬帝の南北大運河の株は大いに上がっているのですが、これも「現在」という時点に立って「長い目」と「広い視野」で歴史を振り返った結果かも知れません。ご本人の煬帝は、自分が掘らせた大運河が数百年後の首都造りに繋がり、さらにはその一部が、いま進められている「南水北調」(南の水を北にひく)の史上空前の大用水路工事に利用されるなどとは、夢にも思ったことはなかったでしょうが……。マクロヒストリーのおもしろさとでも言うのでしょうか。

農耕と遊牧と狩猟と

崇文門にある明代の城壁の遺跡で孫と遊ぶおばあさん

 もちろん北京が元、明、清、そして現代と、800年ほどにわたって統一中国の首都でありえたのは、南北大運河だけによるものではありません。いろいろの要因、とりわけマクロヒストリー的要因があり、これだけでも厚い本が書けるでしょう。

 わたしが興味を持っている要因の一つは、気候を含めた北京の自然条件です。遼代(916〜1125年)の資料によると、当時の北京の平野部では、麦や稲などの農耕が営まれ、西や北の山の麓の草原では放牧が、そして山奥では熊や猪、鹿といった野獣の狩猟が行われていました。北京は農耕民族、遊牧民族、狩猟民族がいっしょに暮らせる大きなグラウンドだったのです。ここで各民族は交流しあい、融合しあい、ともに繁栄を求めてきました。

 遼を興した契丹族は遊牧民族でした。遼が北京入りして、ここを都としたのは、遼の会同元年(938年)です。遼は、もともと住んでいた漢族の役人や文化人を重用しました。漢族との結婚まで奨励しています。

 農業を重視し、漢族の農業技術を学ぶよう呼びかけました。当時の北京は「南京」と呼ばれていたのですが、街の本屋さんの店頭には漢族の書籍がいっぱい並んでいて、蘇軾(蘇東坡)の詩集はいつもベストセラーだったそうです。

 遼に続いて北京入りした女真族の金、蒙古族の元、満州族の清も、程度の差こそあれ、遼と同じようにして漢族と交流し、融合し、ともに繁栄を求めてきました。

 金の皇帝、章宗(1168〜1208年)は、金と戦い捕えられた漢族王朝の宋の皇帝、徽宗(1082〜1135年)の書にほれ込み、それを手本に習字の勉強をしました。

 元の皇帝フビライ(1215〜1294年)は、漢族の精神的バックボーンともいわれる孔子を祀る孔子廟を北京に建てることを決め、北京入りした清の順治帝(1638〜1661年)は、すぐに孔子廟に詣でています。

 北京という大きなグラウンドを舞台に、漢族と少数民族が、また少数民族同士が交流しあい、融合しあい、ともに繁栄を求めていった歴史の点と点を繋いでいくと、そこに浮かびあがってくる言葉があります。それは「和をもって貴しとなす」であり、「和して同ぜず」です。

 北京の中心に近いマンションの12階にある私の部屋から、その昔、契丹族が放牧をし、狩猟をしただろう、西や北の山脈を眺めながら思うのです。「和をもって貴しとなす」も「和して同ぜず」も決して漢族だけのものではない、中国の諸民族が数百年、数千年かけてともに培い、育ててきた宝物なのだ、そして北京は、中国の諸民族がこの心を培い、育てる絶好のグラウンドだったのだと……。

 南に目を向けると、遼代に建てられた天寧寺の塔が見えます。東を見ると、明代(1368〜1644年)に築かれた城壁が目に入ります。北を眺めると、元代(1206〜1368年)に造られた妙応寺の白塔が見えたのですが、惜しいかな、高いビルが出現して見えなくなってしまいました。

 変わる北京、変わらない北京――私はこれからも、北京の歴史の「クロスワードパズル」を、自分なりのマクロヒストリーとして楽しんでいきたいと思っています。ずぶの素人の「感」と「勘」に頼った話に、長いあいだお付きあいくださり、本当にありがとうございました。

 どうぞ、よいお年をお迎えください。 2003年12月号より

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。