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白と青の織りなすハーモニー
銀釉鶏冠壺
 
 文・魯忠民 写真提供・中国画報出版社


遼代(916〜1125年) 
高さ30センチ、口径5.6センチ


 

 鶏冠壺は鶏のトサカの形をした水入れである。それは、中国西部の遊牧民族が使用する革製の扁平な壺から由来している。考古学的には、陶磁器製や木製、あるいは白樺の皮で作られた鶏冠壺は、古代、契丹が分布していた区域のいたるところで発見されており、これは契丹がもっとも早くから革製の鶏冠壺を使用した民族であることを示している。

 唐代(618〜907年)には、毎年、契丹王が大勢の貿易使節団を率いて長安にやって来て朝貢した。そして中原(黄河の中、下流域)に行き、商業や貿易に従事した。ここから草原の革製の鶏冠壺が中原に伝わった。鶏冠壺は馬上、携帯するのに便利だったから、中原の人々にとっても馬に乗る時、携帯するのに適していた。そして、陶磁器や金銀などの硬い材料を使って作られた鶏冠壺の複製品が中原に現れた。

 鶏冠壺は本体が湾曲していて、湾曲した馬体にぴったりとくっつく。壺の上部の一方に、高くて細い注ぎ口が付いていて、馬上で水などの液体を飲むのに便利だったし、激しく揺れ動いても壺の中の液体が外に漏れることもない。

 907年、契丹は中国の北方に遼という王朝を開いた。遼は1125年まで続き、200年以上もここを統治した。鶏冠壺も革製から陶磁器などのさまざまな材質で作られるようになった。

 遼代の鶏冠壺は、会同四年(941年)に葬られた耶律羽の墓から出土した。墓の中には8点の鶏冠壺があり、壺の本体はきめが細かくて白く、釉薬の色はつやがあり、見事に焼かれた逸品である。専門家の研究によると、この壺は、おそらく中原から来た工匠の手によって作られたもので、明らかに唐代の特徴を持っている。

 写真の鶏冠壺は、出土した八点のうちの一つで、主に牛乳などを入れるに使われたので、容積はかなり大きく、大きな碗に入れて飲むのに適している。中原の注壺(注ぎ口がついた壺)が主に茶や酒を飲むのに用いられたので、容積が小さく、小さな碗や盃などの容器に入れて飲むのに適していた。

 遼代の墓の中に鶏冠壺と中原式の注壺が共存していたことは、契丹人が外部から来た生活様式を吸収する際にも、遊牧民族の伝統的な習慣を保ち続けていたことを示している。

 鶏冠壺の様式と装飾は、遼代の中期以後、かなり大きく変わった。壺の本体が長方形になった。装飾は主に、中原風の牡丹や草花、竜や猿、人物などの図案にとってかわられた。釉薬の色は緑、黄色、濃い褐色、濃い緑などの色が増えた。2004年3月号より

 
 

吉林省博物院

 

 
 吉林省博物院は2003年、元の吉林省博物館と吉林省近代史博物館が合併してできた国家クラスの博物館である。博物院の所在地は、長春市光復北路3号の傀儡政権「満州国」の皇帝・溥儀の宮殿の旧跡にある。

 吉林省博物館は1951年夏に、吉林市で建設が始まり、翌年2月、一般の開放された。その後、1954年に長春の現在の場所に移転した。

 博物院の収蔵品は8万点で、このうち吉林省で出土した文物は1万余点。歴代の書画1万1000点、銅器、磁器、玉器、木器、漆器などの代々伝わってきた文物は2万点近い。自然の標本は2万6000点。一級文物に指定されている収蔵品は144点あり、その中には書画が106点ある。収蔵品の中ではとりわけ、烏桓、鮮卑、高句麗、渤海、遼、金の文物にもっとも特色がある。楡樹市にある漢代の鮮卑の墳墓から出土した鉄の甲冑、神獣が描かれた鍍金の銅の「牌」(身分証明)、口の大きな銅製の釜、メノウ珠の首飾りや集安市から出土した高句麗の黄色い釉薬をかけて焼いた四つの耳の付いた陶製の壺、白玉の耳杯、鍍金の銅製馬具、壁画の模写本と好太王の碑の拓本、敦化市にある六頂山出土の渤海の貞恵公主墓碑、契丹文字の銘文がある遼代の銅鏡などは、ローカルな特色を持つ重要な収蔵品である。

 博物院の陳列面積は2000平方メートル余り、基本的な陳列は「吉林省歴史文物陳列」で、旧石器時代、新石器時代、青銅器時代、烏桓・鮮卑、高句麗、渤海、遼、金、元、明、清などの部分から構成されており、陳列されている各時代の典型的な器物は1331点である。また博物院は毎年、各種の臨時の特別展示を行うほか、全国各地の博物館との間の交流展示会を数多く挙行している。