湖北省仙桃市幼児体操学校
    金メダリストたちの揺りかご    

              写真・文 郭実

 中国の湖北省仙桃市は、1992年からオリンピックと深い関わりを持つようになった。その年のバルセロナ大会で、仙桃出身の体操選手・李小双さんが男子ゆか種目でチャンピオンに、また96年のアトランタでも李さんは男子個人総合で優勝、昨年のシドニーでは同郷の楊威さん、鄭李輝さんが男子団体で一位の栄冠に輝くなど体操競技でこれまでに計四枚の金メダルがもたらされたからだ。テレビの前に釘付けになって観戦していた地元の人たちは、凱旋した英雄を迎えるかのように、その帰郷を盛大に祝った。

 李さんたちにとって、故郷と言えば忘れられないのが、彼らを世界覇者へと育ててくれた仙桃市幼児体操学校である。金メダリストたちの「揺りかご」である同校を訪ね、優れた人材養成の秘訣(ひけつ)について取材した。    

       ブタ小屋からの出発

 湖北省の東南部に位置する小都市・仙桃市は人口約30万人。ここに住む人々は一般的に中背で、均整のとれた体つきだ。また才気にあふれ、『三国志』の舞台となった歴史的な背景からも、武術を好む人が多いという。

 「文化大革命」の頃、中学校の体育教師・丁霞鵬さんは、生徒たちに現代京劇の立ちまわりを教えるため、とんぼ返りやジャンプなどを指導した。丁さんは72年、学校に隣接した不用となったブタ小屋を改装し、地元では初の体操教室を開いた(当時・べん陽県)。ブタ小屋はかなり広くブタの糞やわらも残っていたので、丁さんはそれをマットとして活用、生徒たちも日々練習に励んだ。その後、訓練場は仙桃市を流れる漢江の砂辺などに移転した。べん陽中学校の食堂に間借りした時には、ようやくまともなマットを入手した。それが仙桃市幼児体操学校の前身である。

 75年、丁さんが自分のチームを率いて湖北少年児童体操大会に出場した時のことだ。正式な参加資格がなかった彼らには、宿泊所も試合前の練習場も与えられなかった。たいそう悔しい思いをした丁さんはこの時、優れた選手を自ら輩出しようと、固く決心したのである。

 80年代に入ると、学校はより年の小さな子どもを選んで練習をさせたが、その中に、十数年後の世界チャンピオンになる李小双さん、李大双さん兄弟がいた。粗末な環境は変わらなかったが、仙桃市各界からは多大な支援が贈られた。手作りのつり輪や平行棒を設置してくれた造船工場の労働者たち。物資や金銭面での提供を惜しまなかった地元企業……。進んでわが子を訓練させた県長もいた。

 学校が湖北省や国の体操チームに送った選手たちは、92年五輪までに国内外の試合で百枚近くのメダルを獲得した。校名も広く知れ渡った。メダリストのタマゴを養成するため、コーチ陣も懸命に教育に励んだ。ただ、残念なことに丁さんは九二年の初めに亡くなり、弟子の李小双さんの活躍をその目で見ることはできなかった。

        コーチ陣の厳しい愛

 金メダリストを養成するためには、手ほどきをする優れたコーチの存在が欠かせない。この学校には、わが子のように生徒を愛し、自らの生涯を体操に捧げるコーチたちがいる。

 丁霞鵬さんは、かつて李小双さん、李大双さん兄弟のコーチだった。李兄弟は家が貧しいばかりに、冬でも厚手のトレーニング・ウエアが買えなかった。かといって厚い綿入れでは体操ができないし、薄手の上着では風邪をひいてしまう。丁さん自身もけっして豊かではなかったが、自分のものを作り直して兄弟に与えた。自宅でごちそうを作れば、そのつど兄弟を招いて栄養面にも気を配った。

 校長の顔永平さんは、シドニー五輪チャンピオン・鄭李輝さんの元コーチ。物事には「命懸け」で取り組む仕事熱心な人だ。彼は、湖北省体育委員会から贈られた平均台を受け取りに、武漢市まで行ったことがある。平均台は隣町の武昌に置かれており、仙桃市までの長距離バスは、そこから3キロ離れた漢陽から出ていた。顔さんは平均台をタクシーに乗せ、バスターミナルまで運ぶのはかなりの浪費だと思った。しかし、平均台は長くて人力車では運べないし、長江大橋も渡れない。そこで猛暑の中にもかかわらず、重さ百キロ以上もの平均台を担いでバスターミナルまで運び、長距離バスに乗せたのだった。

 彭友平コーチは、幼い頃から特訓を重ね、全国や省レベルの試合で金、銀メダルを獲得した人だが、国家チームにはなぜか無縁だった。そこでコーチになってからは「必ず世界一の選手を育てよう」と心に決めた。八五年に某小学校の予備班で生徒を募集した時、最後列に座った楊威さんを目にとめた。楊威さんの足はX脚で体操に向かないと言う人もいたが、彭コーチは構わず彼の長所を生かした訓練メニューを打ち出した。数年後、楊威さんは著しい進歩をとげ、92年の全国少年児童体操大会では六種目で優勝。シドニー五輪では、中国の体操男子団体の一人として金メダルを、さらに個人総合でも銀メダルを獲得したのである。

 10歳未満の子どもたちにとっては、厳しく単調な基礎トレーニングはつらいものだ。コーチたちは、彼らの練習意欲を引き出そうと童謡まで作り出した。子どもたちが疲れて泣き出しそうになると、全員で一斉に歌い出すのである。励ましの歌は「男は鉄人。男は泣かない。強い子どもが先生は好き」。宙返りを指導する技術的な歌は「鞭打つように足伸ばす。速さはまるで仙人のよう。押す手は重く鉛のよう。宙返りは天より高く」などだ。

      ファイトとガッツが

 人材養成に必要なのは、優れたコーチだけではない。子どもたちの努力や忍耐力、素質も大きなポイントを占める。とりわけ秀でた生徒たちが、後の世界チャンピオンになった。

 双子の李小双さん、李大双さん兄弟は入学当時はうりふたつ、その我慢強さまでそっくりだった。手が小さいため練習用のプロテクターが合わなかった小双さんは、鉄棒の練習でよくまめをつぶした。痛さで箸が持てなくなり、スプーンで食事をしたこともある。大双さんは小双さんの兄だが、二人は競い合うように訓練し、また何でも話し合った。二人とも国家チームに入ったが、大双さんはその後のケガがもとで、成績は伸び悩んだ。

 5歳で入学した楊威さんの家は、学校から一キロほど離れていた。両親は毎朝五時に息子を起こし、学校まで自転車で送るのが日課だった。利発な彼には、両親の苦労が身にしみてわかっていた。ある朝、出張から戻った父親が目を覚ますと、息子の姿がない。慌てて家中くまなく捜したが、見つからない。もしやと思い学校まで駆けつけると、グラウンドで汗だくになりながらジョギングしている息子の姿を見つけた。ようやく安堵して駆け寄った父親に、彼は「お父さんが仕事で疲れていると思って、一人でここに来たんだよ」と言ったという。

 鄭李輝さんは、太い眉に小さな目がトレードマークだ。いたずら好きな彼は入学した日に木に登り、みんなから「おサルさん」と呼ばれた。体が硬かったので、柔軟体操で無理やり膝を押されると、痛さのあまり「助けて! コーチが僕を殺すんだ!」と叫んだ。しかしその半月後、彼は泣かなくなり、自ら厳しいトレーニングに励んだという。「実力がついたのは、母親の叱咤激励のおかげです」と彼は言う。省チームのトレーニングで最初に武漢に行った時、彼は「田舎者」とからかわれて落ち込んだ。が、「訓練に集中しなさい。でないと乞食にでもなる気かい?」と母親に平手打ちを食らわされたと言う。もとの名前は鄭俊輝と言ったが、後に母親の苗字・李を取ったのも、母親への尊敬の念にほかならない。  李小双さんたちは学校から省チーム、国家チームへと選ばれる課程には何度も挫折があった。競争が激しくて、時には国家選抜から外れることもあった。しかし彼らには不屈の精神があった。国家チームに選ばれた後も休暇で故郷に戻る度に、学校の体育館でトレーニングを続けた。まさにこのファイトとガッツが、彼らを金メダリストへと導いたのだ。

        基礎トレーニングに重点

 体操学校出身の金メダリストたちは、故郷・仙桃市に錦を飾った。中国国家体育運動委員会は同市に「体操の里」という名誉称号を与えた。市政府はメダリストの李小双さん、楊威さん、鄭李輝さんそれぞれに、50万元(1元は約14円)の住宅を褒賞として進呈した。コーチたちにも一定の賞金が贈られた。

 体操の魅力に引かれて、子どもを入学させる周辺の市や県、湖北省以外の人たちもますます増えている。中には、体格が体操向きでない子どもを無理やり入学させたがる親もいた。呉さんという女性は、「息子は5歳からここに入り、もう3年になりました」と言う。学費は一期(半年)で1000元、子どもの生活費は月・500百元。その他の支出も含めると、子どもにかかる費用は年一万元近くにもなる。呉さんは思い切って会社を辞め、夫と一緒にビジネスを始めた。家は仙桃市から西北へ50キロほど離れた天門市にあるので、子どもは月に一度しか帰省できない。子どもを初めて学校に送った時、呉さんは、つらさのあまりさめざめと泣いたという。「でも、後悔していないわ。世界チャンピオンになれたら最高だけど、その夢が叶わなくてもいいんです。ここで体を鍛えて精神的に強くなれば、それが子どもの一生の宝になるでしょうから」

 体操学校には厳格な規則がある。午前六時半から七時半までは早朝トレーニング、朝食後の8時から11時半まで授業、昼食後の昼寝に続いて、午後は2時から4時まで授業。それから六時までが体操の時間だ。

 中国国家体育運動委員会の教育要綱によると、仙桃市幼児体操学校のような末端の体育学校では、基礎トレーニングに重点が置かれ、難しいテクニックを教えることは禁止されている。以前、成績を上げようと子どもに難易度の高い技を教え、その成長をかえって阻害したコーチがいたからだ。そのためこの学校では、体操への基本的な意識や姿勢、技術の教育に力点を置いている。まず、アキレス腱伸ばし、足上げ、倒立、上体起こし、腕立て伏せ、懸垂などの基本的な訓練を行い、生徒の適応能力を高める。次にフィニッシュなどの正しい基本姿勢を反復練習したり、側転のレベルアップを図る。二年後には、あん馬、平行棒、跳馬などの基本技術を教える。こうした基礎トレーニングは面白味に欠け、単調で辛いものだ。が、確かな基礎を築くために、コーチと生徒双方の不断の努力が必要なのだという。

 小学五年生(11歳前後)になると、生徒たちの多くは普通の小学校へと移る。一方、飛び抜けて優秀な子どもたちは省の体操チームに送られ、体操の技を磨き続ける。国際試合で戦う選手を大木とたとえると、省チームの選手はまだ若木だ。仙桃市幼児体操学校は、その良質の苗の育成に貢献していると言える。

        「李小双体操学校」へ

 今年の秋、新館に移る仙桃市幼児体操学校は、それを機に「李小双体操学校」と改称することになった。ふるさとや学校の知名度を上げた李小双さんの名前を冠したものだ。新館は仙桃市政府や省体育運動委員会、企業数社が合わせて八百万元を出資して、建てられた。開館後は生徒の募集範囲を全国へと拡大し、生徒数も60人から200人と大きく増やす予定。コーチ陣にも増強が図られるという。

 全国的にみれば、北京や上海のような大都市は、体操の人材が不足している。大都市の子どもは豊かさに慣れ、一人っ子で親に甘やかされているため、厳しいトレーニングに耐えられない。

 仙桃市幼児体操学校の最近の応募情況をみると、学費や諸経費が年々高くなるため、経済的な理由で入学できない子どもたちが増えている。入学できるのは個人経営者など豊かな家庭の子どもに限られている。彼らが優秀な人材に育たないわけではないが、貧しい子どもがより精神面や忍耐面で優れているのも確かだ。李小双さんたちが、そのいい例である。

 そこで学校側は、公募をただ待つだけでなく、各地から有望な子どもをスカウトしようと考えている。貧困家庭の子どもなら、政府や社会に学費を援助してもらうことも思案中だ。学校の使命は、一に、より多くの子どもに体操の楽しさを教え、その体質を高めること、二に、素質のある子どもを育成し、省や国の代表として送り出すこと、であるという。

 仙桃市幼児体操学校はなぜ、金メダリストたちの揺りかごになったのか?

 これについて、仙桃市体育運動委員会の張主任は言う。「コーチたちに秘訣などなく、生徒が特別なわけでもない。しいて言えば、一に、開校して三十年の根気と実績。二にコーチたちの教育熱心さ。三に、市政府からの厚い支持だ」

 根気が第一であるという。それに深くうなずかされたのは、李小双さんが試合の時に言った言葉を思い出したからだ。「僕は負けない。ずっとチャレンジし続けるよ」